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 空が高く、きれいに晴れていて、わたしと淳一おじさんの頭の上を鳶が一匹旋回して飛んでいった。その姿はとてもユウガで、のびのびとしていた。おじさんは話を続ける。

「そのあとの話は、もうしなくてもわかるだろ。そのとき投稿した小説が、新人賞を受賞し、出版され、その年のベストセラーになった。それで翌年上半期の芥川賞を受賞して、よくわからん文壇パーティに招待された。今度、昭和後期の文学全集に収録されることも決まったそうだ。もちろん、それらは全部俺の名前が載っている。茂吉の名前は一つもない。

 芥川賞を受賞したとき、マスコミからインタビューがあった。そのときはさすがに焦った。俺が書いていないことがバレるんじゃないかとひやひやしたんだ。だけど、俺は何を聞かれても判を押したようにこう答えた。

「文学は自由な物です。好きなように解釈してくださってかまいません」

 インタビュアーや新聞記者は気楽なもので、俺の答えをミステリアスだと受け取って好意的に書いた。やつらにとっては、小説なんかどうでもいいんだな。金と話題性だけなんだ。本質なんか見ようともしない。名前だけ替えても、誰も気づきやしないんだ。いったい茂吉は何のために、あんなにしがみついて小説を書いていたんだろうな?

 つまるところ、俺は小説なんてものをひとつも書かずに有名小説家になったんだ。おかげで何もしなくても印税が入ってくる。俺が働いて稼いだ給料の、その何倍もだ。そのせいで俺は新卒で入った会社をやめた。働くのがバカらしくなったのもあるし、周囲からの嫉妬がうっとおしかったのもあるな。飲み会に行っても、取引先にいってもイヤミばかり言われるんだ。君、なんで働いてるの? 小説で食っていけるだろ? 今思えば妬ましかったんだろう」

 わたしは、自分が立っているお墓から、隣のお墓に飛び移った。

「茂吉には感謝している。俺はあいつが書いた小説のおかげで、今も気楽で裕福な生活が出来ている。俺は新作について編集者に聞かれたらはぐらかしつつ、気が向いたら掌編やくだらないエッセイをたまに発表して作家としての体裁を保っている。毎朝満員電車に揺られたり、パワーハラスメントに悩んだりしている同級生を見ると申し訳なくなるくらいだよ。何の苦労もせず、俺は栄光を掴んだんだからな。

 ――でも、最近は自分の人生を生きられている気がしないんだ。いくら小説を褒められても、それは茂吉がほめられているんだからな。俺じゃない。誰も俺なんか見ていない。ベストセラーを出版することでが得た社会的名誉と、それに伴った金だけ見てるんだ。

 学生時代の友人とは全員疎遠になった。スミレだって、大学を卒業してからは音信不通になった。風のウワサで結婚して子どもを産んだなんて聞いたけど、まあ、なんとなくどんなことをしているか予想が付くよ。あのアバズレは死んだって治らないだろう。

 それでさ、俺は最近になってようやく分かったんだ。これは茂吉の復讐なんだ。あの雪が降る寒空の中、ファミリーレストランの窓からあざ笑っていた俺に向けた。自分の最高傑作で俺の人生すべてを台無しにしたかったんだろう。そしてその企みは成功したんだ。現に俺はこうやって、虚無みたいな日々を生きている。

 でも言い訳じゃないが、こんなつもりじゃなかったんだ。俺は茂吉のためを思ってやったつもりだった。俺は茂吉に小説だけを書いていてほしかったんだ。スミレなんてつまんない女にうつつを抜かすんじゃなくてさ。――こんなこと言っても、誰にも信じてもらえないだろうけどな。

 でも、もう何を言い訳しても遅いんだ。茂吉は死んだ。もういない。それで終わりだ。それだけだ。それ以降、話は進みもしないし、遡りもしない。続きは焼けたんだ。

 茂吉と一緒に」

 

 淳一おじさんの話は、それで終わりのようだった。おじさんはわたしの事も見ないで話し続けた。話し続けていた。

「俺にはなんにもないんだ」

 茂吉おじさんは、自分の大きな手の平を見つめてそう言った。

「それどころか、何もかもを茂吉に奪われていくような、そんな気さえしている。最近は記憶の中の茂吉に俺が似てきたような気がしてるんだ。長い指、延びっぱなしの髪、好物はロックのウイスキーと手作りのぶどうパン……」

 おじさんは手の平で自分のやつれた頬を覆って、例え話を始めた。

「絵美ちゃんは、ハリガネムシって知ってるかな?」

「知らない」

「ハリガネムシっていうのは、寄生虫なんだ。これが本当に恐ろしい虫でね。蜂の頭の中に勝手に卵を産み付けて、その卵が孵ると、幼虫がどんどん蜂の頭の中で育っていくんだ。産み付けられた蜂自身はそのことに気づかない。しかしハリガネムシの幼虫は蜂の頭の中を食べて大きくなっていく。それで、成虫になったハリガネムシは内側から蜂を操って、水辺へ向かう。もう、そのときに蜂は死んでいるんだ」

 私はハリガネムシが――私の脳みそをむしゃむしゃと食べる様子を想像した。それはあまり気持ちの良い想像ではなかった。

「蜂がのそのそと水辺へ向かうと、蜂の体の内側を食い破り、ハリガネムシの成虫がずるずる出てきて水の中へ入っていく。つまり、気づいたら内側から別のヤツに操られていて、しかも傍目にはそれがわからないんだ。俺にとって、ハリガネムシは茂吉だった。俺はあいつが書いた小説のせいで操られているんだ。今この瞬間も。吸い込む息のひとつ、眼球の動かし方まで」

 おじさんはそこまで話すと、たばこに火をつけてこういった。

「これはさ、三ヶ月先の文芸誌に出そうと思う小説なんだ」

 おじさんは長い時間をかけて煙を吸い込み、それから、ふーっと知らない人のお墓に向かって吐き出した。そして、わたしの方を向いて笑った。

「どうだった? 面白い?」

 たばこの煙に、わたしは顔をしかめながら言った。

「すごくつまんないと思う、その小説」

 わたしは近くのお墓の石段に登り、片足で立ち、バランスを取るために両手を広げた。

「やめたほうがいいよ」

 私がそう言うと、おじさんは怒り出すかと思ったが、そんなことはなく、うつむいて笑った。

「はは。じつは、俺もそう思っていたんだ」

 それから、こう続けた。

「まったく絵美ちゃんには叶わないな……」

 遠くから、絵美、とお母さんがわたしを呼ぶ声がした。わたしが振り返ると、墓地の出口でお母さんとお父さんが待っていた。しかも声の感じからちょっとイライラしているみたいだった。私は、いま行く、と声を上げると、おじさんを振り向いた。

「お母さんが呼んでるから、もう行くね」

「うん、じゃあね」

 おじさんはわたしから視線を外すと、お母さんとお父さんに軽く会釈をしていた。だけど、たばこは消さないままだ。

 わたしは石段から飛び降りて、走ってお母さんとお父さんのところへ戻った。私とお父さんとお母さんは、元来た道を辿って車を停めたところまで歩く。私はお母さんからバケツを持つように言われて、それを受け取った。中からごろごろと音がしたので覗くと、チャッカマンが斜めにされて入っていた。

「絵美、淳一おじさんと何話してたの?」

 お母さんが不満げにわたしに聞いた。

「なんか、よくわかんないこと」

「ホントに? 余計なこと言われてないでしょうね」

「なんか、よくわかんなかったんだよ、ホントに」

 お母さんがめんどうくさいことを聞こうとしていたので、わたしはわからなかったわからなかった、を繰り返してお母さんからの質問を遮った。お父さんが話を遮り、遠くから私に呼びかける。

「絵美、『やぶそば』に行ってお昼食べようってお母さんと話してたんだけど、それでいい?」

「いいよ!」

 「やぶそば」は、ここからそう遠くない、おいしいおそば屋さんの名前だ。私はそこで、天ぷらが載った天丼を食べるのが大好きだ。面白くない法事を頑張るのも、このためにあるのだ。

「真奈美、模試が午前中で終わるって言ってたし、迎えに行こうか」

 お父さんは自分の頭から帽子を外し、左右に振って、飛んでいるとんぼを捕まえようとしながらそう言った。

「天丼が食べたい!」

 私はそう言って階段をふたつ飛び降りた。絵美、あぶないよとお母さんが注意をする。

「だいたい、この前も頼んだけど、食べきれなくてお父さんに食べてもらってたじゃない。ああいうのはダメ」

「じゃあ、お姉ちゃんと半分ずつにする」

「真奈美がなんていうかなあ」

 そのとき、ちょうどお昼になって、十二時の鐘が鳴った。それはとても高く澄んだ音をしていて、空じゅうに広がり、響きわたっていくようだった。

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贋作 トウヤ @m0m0_2018

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