彼が旅に出る理由

沖見 幕人

第1話

7月の終わり。俺は当てのない旅に出た。持ち物は三、四日分の着替えと資金の詰まった鞄。そして、ありったけの情熱。


 俺は必ず見つけてみせる。俺が俺らしくいられる場所を。






 事の始まりは半年前、世間がバレンタインと呼ぶくだらないイベントに騒いでいた頃だ。今思えば恥ずかしい話だが、その時までは俺も世間の流行に乗じて甘いひと時を夢見ていた。


 大学近くの行きつけの喫茶店、そこでアルバイトをしていた女性に俺は想いを寄せていた。物静かな人で交わした言葉は少なかったが、俺はその日、自分の積年の気持ちを彼女に伝えようと行動した。そして返された答えは、




「……えっと、いきなり言われても。……そもそも、どちら様ですか?」




 馬鹿な!君はいつも俺に「いらっしゃいませ」と微笑んでくれていたではないか!「お代わりはいかがですか?」と気を利かせてくれたではないか!何か?今までの言動は全て、俺の心を弄ぶ目的のものだったのか⁉︎


 といった内容を、努めて冷静に、極めて紳士的に、俺は彼女に確かめた。




「いや、それは仕事だから言っていただけです」




 驚愕の返答だった。彼女の気持ちがまったく理解できなかった。しかし、結局のところそんなことは関係ない。些細な行き違いはあったが、要は俺の気持ちを伝えるだけのこと。俺は、改めて彼女に伝えた。




「お気持ちは嬉しいのですが、私にはお付き合いしている方がいますので。そもそも、よく知りもしない方といきなりお付き合いは出来ません」




 信じられなかった。俺は彼女とそれなりに深い仲になっていたと思っていたが、彼女はそれは勘違いだと言う。では俺の気持ちはどうなる?恋人達が幸せそうに過ごすこのバレンタインに、可愛い彼女を連れて歩くという淡い夢を見て、希望に胸膨らませていたこの気持ちはどこへ向ければいい?


 俺は駆け出した。何もかもが嫌だった。間違っているのはこの社会だ、世の中だ!断じて俺ではない、ある筈がない!


 街の装飾が憎らしい。何が聖バレンタインだ、ふざけやがって!すれ違う恋人達が恨めしい。人の目の前でイチャつくな、通行の邪魔だ!


 こんな筈ではない、俺だって幸せになれる筈なんだ。絶対に掴んでみせる、俺の幸せを。






 そして俺は旅に出た。友人達は笑って送り出してくれた。それはもう、腹を抱えて笑っていた。




「ヨシヒコがまた馬鹿こじらせたぞ」




「まったく見習わなくちゃな。馬鹿の見本だよ」




「一日で終わる、に千円」




「じゃ俺は半日に千円」




 友人達の顔面に感謝の拳を浴びせ、颯爽と街を出た。目指すは、俺の自由な心を受け入れてくれる世界だ。とりあえず山の方へ行こう。海には恋人達という悪魔共がいるだろうから。






 近所の駅からまずは終点まで行ってみた。それだけでも風景が大きく変わっている。


 道路が舗装されていない為か、気温も過ごしやすい程度にまで落ち着いている気がする。目の前まで迫った山からの風を感じ、流れる汗も気にならなくなる。セミの声、木々のざわめき、鳥の羽ばたき。俺は今、大自然の息吹を感じている。何よりも、人がいないのが良い。先ほどから見かけるのは動物ばかりで、浮ついた輩と遭遇しない。


 しかし、本当に誰とも遭遇しないな。何というか、人間の営みというか生活感というか、気配すら感じられない。あるのは雄大な自然ばかりで、人っこ一人いやしないじゃないか。


 少しずつ焦りが生まれてきた。空の色が朱に近づいていく。森のざわめきが大きくなったような気がした。セミ達の合唱は、いつの間にかヒグラシの独唱に変わっている。何処かで野犬の遠吠えが聞こえた。




「あんた、こんな所で何やってんだ?」




「うわっ!!」




 驚いた。本気でビビってしまった。漫画のように、少し飛び上がっていたかもしれない。これまでの人生で最速の振り向きを見せると、そこには一人の老爺がいた。俺よりも頭二つ分は背が低いが、背筋はしゃんとしている。枯れ枝を大量に背負って、手には鉈を持っていた。実際には小ぶりなのだろうが、老爺の体格との比較で凶悪な武器にも見える。その佇まいに怯えている俺をよそに、老爺は俺を上から下まで眺めていた。




「兄ちゃん、もしかして、街から来たか?」




「え?……あ、あぁ、はい」




「そら、そうか。この辺りにオレ以外の奴がいるわけねぇしな」




「へ?」




 老爺は皺だらけの顔を更に皺だらけにして、楽しそうに笑った。何がそんなに面白いのだろうか?というか、今とんでもない事を言わなかったか?




「あの、この辺りに何処か泊まれる所とか、ありませんかね?」




「何だ兄ちゃん、宿無しか?オレん家に来るか?」




「いや、悪いっすよ。民宿とか無いっすか?」




「んなもん、ねぇよ?っつーか、」




 老爺の次の言葉がなんとなく予想出来てしまい、俺は鈍い汗が流れるのを感じた。




「さっきも言っただろ。この辺りにはオレしか住んでねぇの。オレん家来りゃ、寝床と飯くらい出せっけど、それが嫌なら野宿すっか?」




 ……俺は一体、何処で間違えたんだ?






 老爺の家は、民家と言うよりも小屋と言った方が正確な造りだった。案内されなければそれが家だとは思わなかっただろうし、実は廃墟だと言われれば信じてしまうだろう。




「まぁ、適当なとこ座れ」




「はぁ……」




 さっきから俺が歩く度に床が軋んでいるんだが、座った途端に床が抜けたりしないだろうな?家の中も凄まじいものだった。土間やカマド、囲炉裏。今まで、テレビや映画でしか見たことの無かったアナログな環境がそこにあった。電気も通っていないのか、老爺はロウソクに火を点けて明かりとしていた。




「んー、確かここに……。あぁ、あったあった」




 老爺が部屋の隅から漁ってきたのは、薄汚れた一升瓶だった。中身は酒だろうが、瓶が汚れすぎていてまったく分からない。




「これはオレが作った秘蔵の酒よ。久しぶりのお客だからな、特別に開けるのよ」




「はぁ、どうも、ありがとうございます」




 歪なお猪口を渡され、恐る恐る手を伸ばした。老爺が瓶の蓋を開けると、驚く程の芳醇な香りが辺りに漂った。大量のイメージが溢れ出す。果物。稲。兎。木の葉。土。清水。これは……。




「こいつにはこの山の全てが詰まってんだ。こいつを呑むと、オレは自分が生きてる場所を思い浮かべられるんだな」




 老爺が、薄く黄色味を帯びた酒をあおりながら呟く。俺も、盃に注がれた酒を眺め、一気に呑み干した。瞬間、周囲の景色が一変したように感じた。木の葉から雨の雫がこぼれる。それが土に染みると、そこから泉が湧き出してきた。泉の周りには様々な動物が集まってくる。兎、鹿、猪、鷹、小さな虫達。草を食み、果実を啄ばみ、生まれては死んでいく生命の集合が、そこに広がっていた。




「……こんな飲み物を、作れるものなんですね」




「んー、ふっふっふ。オレくらいになれば出来るわな。まぁ、これは相当に苦労したけどな」




 老爺は得意気な顔をして、小さく自慢の声を出した。




「俺、この山に入ったことは無いんすけど、まるで見てきたように想像出来ましたよ」




「兄ちゃんは、ずっと街で暮らしてんのか?」




「あ、はい。実は、街からは出たことも無いんすよ。遊ぶのも全部近場で……」




「そりゃあ……、もったいねぇなぁ」




 しみじみとこぼす老爺は、まるで赤ん坊を見るような目で、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。


 この人は、どんな世界を知ってるのだろう。何故、この場所を選んでいるのだろう。俺にも、そういう場所が出来るのだろうか。




「あの、……聞かせてくれませんか?この山のこと、あなたのこと、ここに棲む生き物達のこと」




 老爺は大きく頷き、多分これまでで一番の笑顔になった。その顔は皺だらけなのに、何故か老爺の少年時代を見た気がした。






 それから老爺は色々な話をしてくれた。


 昔はここに集落があって、老爺も家族と一緒にその一員として過ごしていたこと。


 生きる為に他の生き物を殺すが、それはこの山の全ての生き物がやっていることであり、山の一部である自分も当然殺してきたこと。


 やがて、再開発の構想が持ち上がり、集落の人々も続々と出て行ったこと。


 自分はこの山の一部なのだから、出て行くという発想は始めから無かったこと。


 息子夫婦が出て行ったのを最後に、他人と会うことが無くなったこと。




「オレもこの山以外の場所は知らねぇ。俺にはここに居たい理由があるかんな。でもよ、兄ちゃんは違うんじゃねぇのかい?ただそこに居るだけじゃ、その場所の一員にはなれねぇと思うんだよな」




「……俺は、生きる理由なんて分かんねっす。自分の居場所って言われても、何も無いんすよ」




 いつしか老爺への警戒心なんて消えていた。自分の父親よりも心を開いていたかも知れない。偽ることなく、本心を語っていた。




「そうじゃねぇ。そうじゃねぇよ。自分に何が出来るか、じゃなくて、自分が何をしたいか、なんだよ」




「何を、したいか」




「それはすぐには見つからねぇかも知れん。それを探す為に、外に出るのもありじゃねぇかな」




 俺は今まで、ありのままの自分を受け入れてくれる世界を求めていた。自分は悪くない、何故誰も分かってくれないのか。そう思ってる癖に、その場から動かないでいた。




 世界を見よう。もっと、多くの世界を知ろう。


 そこに暮らす人達の、生きる意味を、俺も理解出来れば。


 この世界の無限の可能性に、俺も関われるのかな。




「……俺、行きます」




「そうか……」




「まずは、国内を行き尽くします。その後は海外っすよ」




「おぅおぅ、やってみれ」






 そして、俺は旅に出ることにした。老爺の家を出たその日に支度を始めた。持ち物は三、四日分の着替えと全財産の詰まった鞄。そして、ありったけの情熱。


 世界を見よう。俺の知らないものを知ろう。誰かに語れるくらい、自分を作りに行こう。最近生意気になってきた姪っ子や、小さな甥っ子に土産話をしなければ。




 俺は旅に出る。いつか見つかる、俺の生きる理由になる場所を求めて。






 END

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼が旅に出る理由 沖見 幕人 @tokku03

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ