異世界八険伝

AW

第1章 旅立ちは風のように

第1話 プロローグ

 準備は全て終わった――。


 急ごしらえの台座に置かれたのは、黒い装丁の古びた本――それを丁寧に紐解く。


 すると、同心円状に並べられた4444本の蝋燭に炎が灯り、腐臭漂う狭い地下室を照らし出した。


 目の前に積まれたのは、大小様々な動物の死体。

 足元を埋め尽くすのは、臓物から湧き出る液体。

 いずれも、この儀式のために私が用意した物――。


 頬を伝う涙と共に額の汗を拭う。

 左右どちらの裾も血塗れなので、拭う意味があったのかと苦笑いが漏れる。


 ポキっという緊張感のない音をどこかの関節が放つ。

 暗く、音のない世界に木霊するそれは、長時間の緊張を強いられ続けてきたことへの小さな抗議に思えた。




 死んだ者は生き返らない――それは、科学や医療がいかに発展した世界でも、また、魔法がまかり通る幻想世界であっても覆らない事実である。

 しかし、古今東西において死者蘇生や不老長寿といった夢にすがり、幾多の徒労とろうを重ねてきたのも、人が人である証左と言える。

 それだけでも、命がいかに尊く貴重であるのかが分かるだろう。


 私も、甘い夢に縋った馬鹿の1人だった――。


 私が中学生になってすぐ、それまで交互に入退院を繰り返してきた父と母が死んだ。快復の見込みも、延命の可能性もない不治の病だったため、2人とも自宅で息を引き取ったのが不幸中の幸いだった。

 貧しい生活には慣れていたが、あの優しい笑顔を再び見られないことは、私には耐えられなかった。

 私の心は、準備も覚悟もできていなかったんだ――。

 

 3日3晩泣き続けた私の元に、1通の手紙が届いた。

 そこには、両親に連れられて1度だけ行ったことのある古書店の名が記されていた。

 何の因果か、当時の私は嵐の中を10km以上も走り続け、わらにもすがる思いでそこへと向かった。そして、この本に出合った――。


 そこからは、何かに取り憑かれたようにひたすら命を狩り続ける日々が続き、今、ようやくこの時を迎えた――。




 さぁ、始めよう――。


 不気味に揺れ動く文字を、お腹の底から絞り出した声で読み上げる。


「神を超越せし偉大なる存在よ、天をも焦がす力の源よ! 我はこいねがう! その尊大なる御心にて、身体を、生命を、魂魄を、悠久の時を越え――うぐっ!」


 最後の1文を読み上げていたとき、雷に打たれたかのような激痛が全身を駆け抜けた。

  

 私は引き千切れんばかりに唇を噛み、地獄の痙攣を耐え抜く。

 そんな私を嘲笑あざわらうかの如く、激しい悪寒が心をえぐる。凍える身を包み込んでいた両手は、急激に湧き起こる嘔吐感を抑えようと、咄嗟に口へと向かう。

 繰り返し繰り返し床をけがしていく吐瀉物としゃぶつの中、おぞましい形をした影がもぞもぞと蠢いていた――。



『汝、伏見ふしみ 里央りおの魂を裁きの天秤に掛ける』


 頭の中に直接届いた思念は、機械音や動物の声とは明らかに異なる響き。森の中でホルンを奏でるような、低く重く強いさざめきだった。


 何とか片目をこじ開けて見た先には、淡い光をまとった星が一つ、左右に揺れながら浮かぶ天秤の中心に漂っていた――。

 

 裁きの天秤――確かに、そう聞こえた。

 

 その言葉は知っている。

 死者の魂を善悪に振り分ける、神による審判だ。


 私は死んじゃったの?

 このお星様は神なの?


 現状を受け入れられず、ただ茫然ぼうぜんとその場にしゃがみ込んでいる私に、その声はより一層重さを増してし掛かってくる。


『異世界の邪神に操られていたとはいえ、汝は多くの命を奪った』


「ちょ、ちょっと待ってください。私はただ、お父さんお母さんを生き返そうと――」


 心の底から願った本心がうめき声と共にれる。


『汝はの邪神にもてあそばれただけである。故に罪咎ざいきゅうは免れ得ないものと知れ』


 天秤が大きく左に傾く。

 銀色の玉が乗る左の皿が私の視線までぐっと下がると、右に乗せられた羽根は勢いよく舞い上がった。


「そんな――」


 他人が苦労して作った砂のお城を楽しそうに壊す。

 高く積み上げたブロックを壊すことに快感を得る。

 そういう醜悪な人がいることくらい、知っている。


 思い起こせば、全てが最初から仕組まれていたのかもしれない。

 原因不明の病が両親を襲い、小さな幸せを謳歌おうかしていた家庭は脆くも崩れ去る。その後、まるで余興のように命を奪わせて快楽を得る――そんな奴に、私は心も身体を操られた。両親を取り戻したいと切に願った私は、いとも簡単に翻弄ほんろうされてしまったんだ。


 死んだ者は生き返らない。

 そう、分かっていたのに。


 血と吐瀉物に塗れた手で顔を覆う。

 今の私にはお似合いの格好だよね。


 あの世で会えたら、お父さんとお母さんに謝ろう。

 でも今は、自分を止めてくれた存在に感謝したい。


 申し訳なくて、情けなくて、やるせなくて、ありがたくて――れていたはずの涙が、己をひたすら責めるように止め処とめどなく頬を伝う。



「――ありがとう、ございます」


 私は、光を真っ直ぐに見つめ言葉を返す。

 光は、涙で洗い流された私の顔を照らす。


『心して見よ。天秤は今や釣り合っている。右手に在る真実の羽根が重くなったのではない。汝の両親の魂が、左手を支えているのだ。死してなお、子を守ろうとする親の慈愛に深く感謝せよ。そして、その魂を抱いて知るがよい。彼の邪神が創りし地獄の世界を――』



 そして、世界は暗転する――。

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