第5話

「さあ、どうぞ、式の中へ」

 ギルスの言葉に満足したのか、ルフェナガルドは気取った様子で頷いてみせた。

 しかしギルスは呆けたように魔術式を凝視したまま、その言葉に従おうとはしなかった。

「如何なさいました?」

 ルフェナガルドは訝しむように眉を顰(ひそ)めた。

「何も危険な事等ございませんよ」

 ここ、魔術院に関しては、資格のある者しか行う事の出来ない転移魔術ではあるが、世間にはその理を理解せずに、魔術師の描いたそれを模倣して描かれただけの紛い物も存在する。それは紛い物でしかなく、結果が意図せぬ事――大惨事になる事も屡々(しばしば)あった。

「いや、あんた達の腕を疑っているんじゃないんだ」

 ルフェナガルドの言葉に、ハッとしたように顔を上げたギルスの顔は、どこかばつが悪そうだった。

「転移魔術で送って貰えるのは有り難いのだが……」

「幾らになるんですか?」

 言い淀むギルスに代わって、連れの男が尋ねた。

 ネイラの動きの悪くなっている頭が、その言葉の意味を理解するのに暫く時間がかかった。隣をチラリと見れば、ルフェナガルドも不思議そうな顔をしていた為、ネイラの頭が半分寝惚けていたせいだけではないとぼんやりと思う。

 どんな労働に対しても、それに見合った対価は発生する。それは魔術であっても同じ。しかもその特殊性から、魔術に対する対価は他の労働よりも高いのが一般的である。ましてや高等魔術である転移魔術の値段が非常に高額なのは、言わずもがなである。

 しかしネウーゼの民が普段利用する大陸との往来する為の転移魔術は、徴収された税で賄っている為、一般常識では転移魔術単体で料金が発生するという事実をネイラ自身、すっかり失念していた。

「勿論、ただ、だよな?」

 訝しんでいるルフェナガルドに、欠伸を噛み殺しながらネイラは言った。

「別料金は発生しないだろう?」

 尚も黙り込んでいるルフェナガルドに、ネイラは畳み掛けるように言った。

 ネイラがそこまで尋ねてやっと、彼等の言わんとしている事を理解したらしい。ルフェナガルドは鷹揚に肯定すると、二人を魔術式の中へと再び誘(いざな)った。

 やっとその気になった二人を先導するかのように、先頭を切って入ろうとしていたネイラは、反射的に足を止めると眼下の魔術式を凝視した。その式の理が明らかに矛盾している事に気が付いたのだ。

「ちょっと待て」

 両手を広げ、大仰な仕草で誘うルフェナガルドの声に誘われるまま魔術式に足を踏み入れようとしていた二人をネイラが止めた。

「どうした?」

 それまで積極的にルフェナガルドに従うように促していた彼女の相反する言葉に、二人は訝し気な視線を向けた。

「タスナウッド殿、貴方の連れは、ジャフネで待っているんだったな」

 魔術式に目を向けたままネイラが尋ねた。その視線の先を追うように、同じく式に目を向けたギルスは、そうだと答えた。

 だが、彼には描かれている式の意味など理解する事は出来なかっただろう。それは古代言語の中でも魔術師のみが使う特殊な文字で描かれている上、魔術理の解釈は魔術師各々で違う為、更に解読する事を困難にさせていた。それ故、魔術式は魔術師であってもそれを描いた本人以外には、理解する事すら困難な代物とされている。

「では、取り敢えず目指す地は、ジャフネで間違いない、と」

 ジャフネで待つ仲間に合流する事が旅の最初の目的地である事を確認する。

「ああ、そこでエーミルを拾い、ナズバラで隊の皆と合流しコーラル砂漠に向かう」

 ギルスの言葉に軽く頷くと、物問いたげにルフェナガルドを見遣った。

「では、何故この式の行き先が、ジャフネではなくナズバラになっているんだ?」

 ネイラの言葉に、ルフェナガルドは小さく舌打ちした。

「ったく、お前には小細工は通用しないって事か」

「どういう事だ?」

 問い詰めようとルフェナガルドに向かって足を踏み出そうとするギルスの言葉を遮るようにネイラが尋ねた。

「で、その目的は?」

 今回の仕事の件に直接関係する事なのか、と問うた。

「いや、全く。仕事に口出しするつもりは、これっぽっちも無いよ」

 邪気の無い顔で答えるルフェナガルドの顔をネイラは無言で見詰めた。

 ただ見ていただけだったが、ルフェナガルドにはそれが気詰まりらしく、大袈裟なくらい大きな溜め息を一つ吐くと答えた。

「ちょっとした問題があってね」

「問題とは?」

 ネイラよりも先にギルスの連れの男が尋ねた。

 その声に一瞬驚きの表情を見せたが、ルフェナガルドは直ぐに小さく首を竦めた。

「ご心配には及びません。コーラル砂漠の一件とは全く無関係の問題ですよ」

 そう請け合うルフェナガルドに、男は胡散臭げな視線をくれただけだった。

「では、その問題とやらは、魔術院絡みの問題だな?」

 ネイラがそう尋ねると、ルフェナガルドは心底嫌そうな顔になった。

「どうしてお前はそう察しがいいんだろうねぇ。……そうだ。魔術院絡みの問題だ。ま、正しくは、うちの学生絡みの問題になるんだがね」

「またか。お前、この間の事をもう忘れたのか!?」

「おい、少しは落ち着け」

 興奮し、ルフェナガルドの首を絞めんばかりの勢いで外套を掴んでいるネイラの肩を宥めるようにギルスが叩いた。

 しかし頭に血が上っている彼女には、寧ろ逆効果にしかならなかった。

「あんたは黙っていてくれ。これは、私とルフナの問題だ」

 口調は穏やかだったが、その眼光に不穏な物を湛えたネイラに反論しようとしていたギルスは、連れの男に無言で肩を叩かれ開きかけていた口を閉じた。

「おい、ルフナ、今度は何をやらかした?」

 怒らないから言ってみろ、と言いつつ、既に沸点に達しているネイラには、ギルス達のやり取り等、気付く訳も無かった。

「まあ、待て。落ち着いて話をしよう」

「お前に言われなくとも、私は十分に落ち着いている。だいたいお前のその迂闊さは何だ? 今まで私が被ってきた被害の数々は、お前のその迂闊さのせいじゃなかったとでも言うのか?」

 何なら今からその全てを一件一件検証していってもいいんだぞ、とネイラは恨みがましい視線をルフェナガルドに向けた。

「確かに今まであった幾つかの件については私の落ち度だ。認める。悪かった」

「“幾つか”だと?」

「いや、大半はそうだったかなぁ。ははははは」

 そう言って笑ったルフェナガルドの笑い声は妙に乾いていた。

「だが言っておくが、今回に限っては、私の責任ではないぞ」

 ネイラの無言の圧力に冗談を言っている場合ではないと判断したのだろう。ルフェナガルドは言い訳するように言った。

「どうだか」

「本当だって。魔導師(きょうし)の中に黒の騎士団(かれら)が来た事を不用意に院内で話していた者がいたらしくてね。それを聞き付けた学生が、何故か魔獣討伐だと勘違いしたようなんだ。で、自分も魔獣討伐に加わりたい、と志願して来たんだ」

「当然、魔術師だろうな」

 ネウーゼの魔術院の基準で言えば、一人前とされるのは、中位魔術以上の行使を許可された者を指す。

 が、ネイラの期待に反して返って来たのは絶望的な答えだった。

「残念ながら、最近やっと低位魔術の課程を終了したばかりの学生だ」

 だが、魔力は今いる学生の中で一番だと、付け加えた。

「低位魔術しか使えない上に、魔力は学院で一番だと!?」

 自分の声の大きさに頭が痛くなったのか、その状況に頭が痛くなったのか、ネイラは手を離すと、頭を抱えしゃがみ込んだ。

 魔力の有り余っている魔術師程手に負えない物はない。ましてやその力の使い方を知らない者ともなれば、災難以外の何物でも無い。

 しゃがんだまま固まっていたネイラが暫くして立ち上がった時には、何故か先程までの怒りは消え失せ、諦めの表情にとってかわっていた。

「で、そいつを連れて行かない為に、我々を直接ナズバラに送るというんだな?」

 その言葉に、ルフェナガルドは大きく一つ頷いた。

「止められないのか?」

「説得はしてみた。……が、意志が固くてね」

 眉間に皺を寄せるルフェナガルドに、どうやら許可を出さざるを得なかったのだと分かった。

「良いだろう。……で、必要経費は、何時も通り全て魔術院持ちで良いんだな?」

 彼女の問いに、ルフェナガルドは満足気に頷いた。

「勿論、それで構わない。必要な物もナズバラで揃えて欲しい。足もナズバラで調達すると良い。あそこには良い翔馬がいるからね」

 話を聞いていたギルス等が軽く納得したような声をあげた。ネイラが全くの手ぶらである事に気が付いてはいたらしい。砂漠に行くというのに、余りの軽装であった為、内心眉を顰めていたようだった。

「では、予定通り、ナズバラへご案内致しましょう」

 先程までとはうってかわって気取った口調で言うと、ルフェナガルドはギルス等を魔術式へと誘った。だが今度こそ素直に式に入ったネイラとは対照的に、二人は中に入ろうとしなかった。

「どうかなさいましたか?」

 尋ねるルフェナガルドの視線を真っ直ぐに受け止めたギルスは、床に描かれた魔術式を指して言った。

「あんた達の事情はよく分かった。だが、直接ナズバラに行くというのは困る」

 仲間をジャフネで拾わねばならぬ、と。

「ならば先に貴殿等をナズバラにお送り致しましょう。その後、私が直接ジャフネに赴き、お仲間を貴殿等の元へとご案内致すというのは如何ですか?」

 ギルスは暫しルフェナガルドの言葉を咀嚼するように思案した後、大きく一つ頷いた。

「良いだろう」

「では、お仲間との待ち合わせ場所を教えて頂けますか?」

 ルフェナガルドとギルスが部屋の隅で相談を始めた頃、ネイラの疲労と睡魔はピークに達した。先程、一気に頭に血を昇らせたのが良くなかったらしい。

「お、おい!」

 ずるずると滑り落ちるように倒れ込んだネイラの身体を慌てたように騎士団の男が受け止めが、最早ネイラにはそれを確認する術(すべ)は無かった。



     *



 ネイラが深い眠りから覚めたのは、すっかり日が落ちた頃だった。

 服を着たまま見慣れぬ部屋で目覚めた彼女が部屋を出ると、酒場特有の喧騒が階下から響いていた。それと共に、アルコールと食べ物の良い匂いが漂ってきていた。

 眠ったお蔭で、睡魔と疲労はすっかりとれたらしく、今度は空腹に鼻をひくつかせた。

「やっと起きたか」

 階下へ降りようと階段に足を掛けたと同時に、背後から男に声を掛けられた。ギルスと一緒にいた騎士団の男だった。男はゲオルク・サーザルと名乗った。

 ゲオルクという男は、初めて会った時から大きい印象だったが、隣に立ったその姿は、ネイラが考えていた以上に大きかった。女にしては長身であるネイラよりも頭一つ分以上高い。更に鍛え抜かれた身体とゲオルクが発している武人特有の空気が彼をより大きく見せているのかもしれなかった。

「腹は?」

 何を考えているのか分からない顔をしてゲオルクが言った。

 それに頷くと顎でついて来るよう示され、ネイラは誘われるまま宿の階段を降りた。

 するとそこには陽気な喧騒が広がっていた。所狭しと並べられた卓に、酒に酔った男達が溢れていた。狭い通路を店員が巧みに客を避けながら酒や食事を運んでいた。

 前の客が呑み終えた卓に二人が着くと、直ぐに店員が現れ、残っていた食器を持ち去った。

「食事をとりたい」

 入れ替わりに現れた店員に、ゲオルクが告げた。

「今夜は栗と豚肉のスープがお勧めですよ。後は鮭のクリーム煮と南瓜のパイ等もご用意出来ますが」

「では、スープとパン、それに葡萄酒を二人分頂こう」

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