朝焼けの空に
沖見 幕人
第1話
「今日はよく飲むねー」
「いやぁ、久しぶりなんでグイグイいけちゃいますわ! 明日ヤバいかもなー!」
馴染みの居酒屋。カウンター席で一人、ビールをかっくらう。
十分と経ってないうちに空の中瓶が三本出来上がってしまった。確かにマスターの言う通り、今日はよく飲んでしまっている。
久しぶりというのもあるのだ。
なにせ酒を飲むのは一ヶ月ぶりなのだから。
酒を飲むのは好きだ。
しかし、仕事がいつも終電間際になるような仕事だ。家で飲んだとしても、翌日の仕事を考えれば舐める程度しか口にできないだろう。それならわざわざ買う程のこともない。どうせ家に着いた頃には疲れ果てて寝るだけなのだから。
しかし、それ以上に今日は、人恋しさがあったのだと思う。
「あれ! お兄ちゃん久しぶりだなー! なになに? 忙しいの?」
「あ、どうも! いやぁ忙しいっちゃ忙しいんですけどね! そのくせ懐は寂しいもんだから、なかなか来れなくて! あはは!」
常連の人と挨拶代わりの会話をする。中身の無い、上っ面の言葉の応酬。笑いたいわけじゃないのに、俺の口からは笑い声が出てくる。
大丈夫だろうか? 失礼な態度をとっていないだろうか? この人の気分を害していないだろうか?
嫌われたくない。
「まぁ若いうちは大変だけどよ、辛抱してりゃすぐ偉くなんだから! 今の苦労は無駄なんかじゃねぇぞ!」
なんだそりゃ。価値観古すぎるだろ。そんなカビの生えたような考え方、誰も信じちゃいねえんだよ。
「そっすよねー! 今は勉強ですもんね! 俺、頑張ります!」
あぁ、気持ち悪い。どいつもこいつも気持ち悪い。
偉そうなジジイのデカい声も。愛想笑いの周りの連中も。そいつらに合わせてヘラヘラしてる自分も。
――でも、それすらも感じられなくなるのが何より怖い。
会社に行って。怒鳴られながら仕事して。怒鳴られながら謝って。倒れそうになりながら電車に乗って。家に着いて寝る。
それだけの毎日がこの先何十年と続く?
そんな未来を想像するだけで恐ろしくなる。
だったら、せめて笑い声が聞こえるこの空間に居られる方が何倍もマシじゃないか。
俺のこの嫌な気分は、ほんのわずかな安らぎを得る為の対価なんだ。
「……ねぇ、お兄さん。疲れないの?」
隣からの声がやけにはっきりと聞こえた。
別に耳元で囁かれたわけでもないのに、俺に向けて放たれた言葉だと、自然と感じられた。
「……えー!? 全然疲れてないし~! っつーか仕事の疲れ取る為に来たんだし~!」
隣に座る、多分俺より若い、女性におちゃらけてみせる。
良かった。初めて見る人だ。
初めての方が楽だ。俺がめんどくさい絡み方すればもう会わないだろうし、それなら気を遣わずにいられる。
「それ。無理してるでしょ? 仕事でもないんだから、こんな場所でやりたくもないことやんなくていいんだよ」
「…………」
さっきまでの偉そうなジジイは別の若者に絡んでいる。今は俺を見てるやつなんていない。
「……でも、せっかく楽しい空気になってるのに、それをぶち壊すのもさ……」
「なんでお兄さんが空気読まなきゃいけないの? お金払ってる客なんだからさ、好きに過ごしたらいいじゃん」
あぁ、自分勝手な若者ってやつか。そんなこと出来たら苦労しないよ。
「……好き勝手できたらいいけどさ。でも、相手を嫌な気分にさせるのも嫌なんだよ」
嫌われたら離れられる。嫌われたら、一人になってしまう。
一人でいると、寂しいんだ。
「……俺はただ、誰かと話したいんだ。一人でいたくないから、嫌われたくない……」
彼女はつまらなさそうに聞いていた。いや初めからつまらなさそうなしかめっ面だったから、実際のところはわからないけど。
「ふ~ん……。だったらさ、アタシと話そうよ」
最初、何を言われたのかわからず、呆けてしまった。
彼女はハイボールを一口飲んで、やはりつまらなそうに言った。
「アタシと話そうよ。無理にふざけたりしないで、愚痴でもなんでも聞かせてよ。アタシも言うからさ」
「……そ、そんなの、……君は、楽しいの?」
「んー……。おっさんのくだらない武勇伝よりはマシかな。それに、なんか……」
そして、彼女は少しだけ顔を傾けて、俺の方を見た。
初めて彼女の顔を見た。
「お兄さんって、アタシと同じ感じするし。陰キャってゆーか、ホントは根暗のくせに無理して明るくする感じ」
「……そう、かな」
「うん。……アタシたち、似た者同士だよね」
「っ!」
その言葉に、遠い記憶を呼び起こされる。
中学生の頃。初めての恋。
あの頃からすでに今のような人格になっていた俺に、あの子は言ってくれたのだ。
無理しないでいいよ。私も同じだから。
似た者同士だね。
結局何も言えず、中学卒業で離ればなれになり、成人式で子供を連れて現れた彼女を見て淡い初恋は破れたのだが、
俺にとってその時の記憶は、いつまでも色褪せない煌めきを放つ、大切なものなんだ。
郷愁の念をくすぐられた俺は、見事に初対面の彼女に心酔した、……のだと思う。
いや、正直に言って記憶が定かじゃないんだ。
俺はひたすらに話した。仕事の愚痴。理想の将来像。根拠のない自信。
彼女はただ相槌を打っていたんだと思う。でも、席を立つことはなかった。
ずっとそばに居て、俺の話を聞いてくれた。
それは俺が求めてやまなかった時間で、とにかく楽しかったという印象だけが記憶に残っているだけだった。
気づけば自宅のベッドに居た。
もちろん彼女は居ない。俺一人だけだ。
まだ日の出前で、時間の感覚が掴めないまま窓を開けた。
吸いこむ空気は驚くほど澄んでいて、東の空はほんのり明るくなっていて、
その混じりけの無い清潔さに、初恋の純粋さを思い出して、昨夜の彼女の言葉が甦った。
「お金払ってる客なんだからさ、好きに過ごしたらいいじゃん」
床に転がっていた財布を拾い、中身を確認する。
確か諭吉が三人くらいいたはずだが、皆いなくなっている。
彼女はつまり、俺とは違って、客ではなかったわけだ。
END
朝焼けの空に 沖見 幕人 @tokku03
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