森の家のランチボックス

室太刀

森の家のランチボックス



 「あなたの好きなランチはなに?」


 目の前のテーブルに、さっとテーブルクロスを敷きながら彼女はそう訊ねた。


 「……別に」


 しばらくの逡巡しゅんじゅんの後、わたしは一言、ぶっきらぼうにそう答えた。


 「好物の料理とか、ないの? これだったら幾らでも食べれるとか、これだけはどうしてもダメだとか」

 「何でも食べるし、お腹が満たせるなら何でもいい」


 食べ物の好き嫌いなんて、思いつかない。食事なんてものは、ただの栄養補給の手段に過ぎないのだ。栄養バーがあれば生きていくには問題ないし、調理に余計な手間が掛からない分だけ優れている。人間は食事をしないでも生きていけるようになればいいのに、なんてことをいつも思う。


 「ふーん……じゃあ、手軽に簡単に食べれるもので作りましょうか」


 エプロンをくくり、髪を後ろで縛りながら彼女はそう言った。

 もう若いとは言えない、この「家」の女主人。歳はわたしのお母さんよりも少し、いやだいぶ上だろうか。

 森の中にひっそりとたたずむこの家を、わたしは今日、なぜだか引き寄せられるようにして訪ねた。何となく学校を休んで、でも帰っても誰もいない家には帰る気も起こらなくて。ファーストフード店やゲーセンでは補導されてしまうからと、何か面白いことでもないかとふらふらしていた。そして森の近くをぶらぶら歩いていたら、この女の人にふと呼び止められた。


 「こんな所でどうしたの?」

 「別に。歩いてるだけです」


 こんな平日の昼間に、制服姿で歩いている高校生が気になったのだろう。こんなお婆さんにまで、お説教を食らいたくはない。そっぽを向いて足早に立ち去ろうとしたわたしに、彼女はそっと、しかしよく通る声で言った。


 「お暇だったら、私の家でお昼を召し上がらない?」


 思いがけない声掛けに、ついわたしは立ち止まった。


 「せっかくのランチですもの、あなたもわたしも、一人では寂しいものね」




 そうしてわたしは彼女に付いてこの家までやって来た。買い物の帰りだったのか、大きなトートバッグに野菜やら何やらを詰めて抱えた彼女は重そうに歩いていて、わたしは黙って持つのを代わった。


 「ありがとう。やっぱりあなた、優しい人ね」

 「……別に」


 荷物は意外と重くはなかったが、一度言った手前やめるわけにもいかない。褒められたくすぐったさが鼻をついたが、わたしは黙って彼女に付いて歩いた。

 そして今、わたしはこの家でテーブルに着いている。彼女はキッチンで手際よく料理をさばいていた。トントンとリズム良く響く包丁の音。レタスの水切りで雫が飛ぶ。

煮立ったお鍋では卵が茹でられている。テキパキとこなされる料理を見ていて、どこか落ち着かない気持ちになる。


 「何か手伝いましょうか?」

 「いいのよ。あなたはお客さんなんだから、ゆっくり座っていて」


 つい申し出たお手伝いも断られ、手持ち無沙汰なのを紛らわすために家の中を見渡してみた。

 森の中にあるとはいえ、部屋は木漏れ日が燦々さんさんと降り注いで明るい。耳をすませてみると、木の葉が風にそよぐ音や鳥の鳴き声なんかが聞こえてくる。ともすればやかましいくらいの音なのに、全く気にならないのは環境に溶け込んだ音だからか。ゆっくりと流れる時間の中で、この森の息づかいにそっと耳を傾けているような、そんな心地がした。


「はい、お待たせ」


 そうしているうちに、彼女が持ってきてくれたのは、お皿に盛り付けられた料理ではなく木で編まれたランチボックスだった。開けてみると、そこには丁寧に切り分けられたサンドイッチが詰められていた。


 「綺麗……」

 「これなら簡単に食べられて、手軽だけどしっかり味わえるでしょう?」


 二人分、綺麗に詰められたサンドイッチを見て、「美味しそう」と素直に思った。いつもの冷凍のおかずやスーパーのお惣菜も不味まずくはないし、たまに食べるお母さんの手料理だって、まあ、悪くない。それでも、「食べたい」と思ったのなんていつ以来だろう。


 「……なんで、作ってくれるんですか? ここ、お店でもないのに……」

 「うーん、そうねぇ。食べてもらいたいから、かしら?」


 彼女は首をかしげてそう言った。


 「私はね、誰かに『美味しい』って言ってもらうのが好きなのよ。娘たちもとっくに家を出て、そう言ってくれる相手がいなくなってねぇ。だからこうして食べてもらえるのが嬉しくて」


 彼女の視線の先を振り返ると、若い頃の彼女と三人の娘さんらしき人たちが写っている写真があった。


 「だからね、遠慮せず食べてちょうだい?」


 今ここにも写真にも、お父さんが見当たらないのは気にならなくはないけれど……


 「……いただきます」

 「はい、どうぞ」


 余計なことを聞くのも悪いし、そのつもりもない。彼女が見守る中、わたしはただひと言そう言ってから、サンドイッチに手を伸ばした。

 まずは左端のタマゴサンド。出来たてのゆで卵をくずした卵サラダは、ふわふわホクホクで優しい味がする。


 「美味しい?」

 「うん……」

 「そう。ああよかった」


 ほっとしたように微笑んで、彼女もサンドイッチを手に取る。上品に食べながら、それでも一口ごとに幸せそうな笑みをこぼす。


 (お母さんとは違うな……)


 ふと、そんなことをわたしは思っていた。

 いつも仕事でバタバタしていて、食事もササッと済ませてしまうお母さん。洗い物なんかはわたしに丸投げされることも多い。そもそも最近は一緒にご飯を食べることもあんまり無いし……


 「どうしたの? やっぱりお口に合わなかったかしら」


 前からそう声を掛けられて、ハッと我に返った。


 「い、いえ。おいしいです」


 あわててタマゴサンドの残りをむしゃむしゃ頬張る。ちょっと甘くてふんわり広がる味わいが口の中に満たされた。


 「大丈夫よ、そんなに急がなくても逃げないから」


 そんなわたしの様子を見て彼女が笑い、わたしはちょっと気恥ずかしくなった。

 わたしもお婆ちゃんには久しく会っていないけど、会ったらこんな感じなのかな。お母さんが離婚してからというもの、お婆ちゃんともロクに会ってない気がする。どんな人だったっけ……お母さんとはよく言い合いをしていたような。

 わたしは今度はカツサンドを手に取った。ずっしり肉厚のトンカツが挟まれている。

 さくっ。

 意外にも口当たりは軽く、ソースもちょっとしか付いてないのに、じゅわっと味が広がってくる。


 「おいしい……」


 揚げ物はそもそもお惣菜でしか食べないから、いつも行くスーパーの味くらいしか知らない。あのザクザクした食感とは違って、これはさくっとしていて重くない。脂っこくないからだろうか? 「味」がしっかり分かるのだ。昔、お母さんが作ってくれたトンカツが、こんな風においしくてぱくぱく食べていたことを思い出す。


 「ふふふ。なんだか、すごく顔が明るくなったわね」

 「えっ……?」

 「美味しいって言ってもらえて、それで笑顔になってもらえるのが、私は一番好き」


 そう言われて、ついとっさに自分の顔に触れる。食べることなんて、どうでもいいと思っていたのに。

 そんなわたしをじっと静かにみつめる彼女の視線に、恥ずかしくてつい目を逸らしてしまった。


 「料理ってね、不思議なのよ。誰かのことを考えて作った料理って、まっすぐ相手に届くの」


 ふと、彼女がゆったりした口調で話し始めた。


 「美味しいものを食べているときって、誰でも自然と素直におおらかになっちゃうのよね」

 「お腹いっぱいだと、油断しちゃうから?」

 「そうね。それに、食べることは、生きることだから。立派に育ったお野菜とか、大切に育てられた動物とか、作った人がかけた手間だとか。そういう大事なものを受け取って、自分の中に取り入れる大切な時間だから。心も、食事の時にはあるがままを受け入れるのよ」


 話しながら、次の野菜サンドを手に取る彼女につられて、わたしも同じものを掴んだ。シャキシャキしたレタスとピクルスの食感が楽しい。瑞々みずみずしい野菜の立てる音で、話にも小気味良いリズムが生まれる。


 「だから私は、誰かと一緒に食べる食事が好き。みんな心が素直になるから、相手のことがよく分かって、“一緒にいる”と思えるのよね。それは何よりも大事で、楽しいことだと思うわ」


 最近、食事を楽しんだことってあっただろうか。帰りが遅いお母さんに、ひとり文句を呟きながら何か口に入れるくらいしかしていなかった。「何か買ってきて食べなさい」なんて言われても、何を食べたいって気持ちも起きなくて、家にあるカップ麺とかで済ませたり。この頃は食欲もあまり湧かないし、何も無かった時はいっそ食べなかったりもしたのに。誰かと一緒に食べるご飯って、こんなにおいしかったっけ……?


 「それに食事の時って、思ってることが表情にもよく現れるしね。さっきのあなた、誰かを思い浮かべているみたいだった」

 「あ……」


 図星を突かれて俯いてしまった。見透かされているみたいで、気恥ずかしい。


 「きっと、大事な人のことを思い出しているのね。いつも一緒にご飯を食べている人かしら」

 「……お母さん。でも最近、一緒に食べることってあんまり無くって。」


 お母さんとも、一緒にご飯を食べることは最近少ない。仕事で遅くなることもしょっちゅうだし、夜中に帰ってきた次の日なんかは、逆に朝わたしが出かける時間も寝ていたり。仕事で疲れ切って、やつれたお母さんと顔を合わせるのが嫌で、わざわざ食べる時間をずらすことも多かった気がする。


 「そう……やっぱり、寂しいわね?」

 「でも、お母さんはわたしのために働いて遅くなってるから、仕方ないんです」

 「……でも、できるならやっぱり一緒にいて、遊んだり話したりしたいでしょう?」

 「……うん」


 2年前、お母さんは離婚した。

 元々お父さんとは別々に暮らしていたから、思うところはあっても仕方ないことだと受け入れていた。でも、お母さんは私を育てるために仕事を増やすしかなくて。気づけば家には誰もいなくて、わたしは世界から取り残されているような気持ちになっていた。


 「それでいいのよ。家族と一緒に過ごしたいっていうのは、誰でも思うことなんだから」


 そう言って、彼女は最後のフルーツサンドを勧めてきた。

 甘いクリームにキウイやブドウやオレンジが紛れている。ほんわかとした甘さに包まれるような感覚。いつの間にか彼女が淹れてくれていた紅茶の香りが、ふっと心を満たしてくれる気がした。

 そうして、最後の一口までおいしくいただいた後。彼女はふと、わたしの方を見て言った。


 「ね。ひとつ、お料理を教えてあげましょうか」






 あれから半日もすぐに過ぎ去り、今は夜の10時。定時でお母さんが帰ってくる時間はとっくに過ぎていて、今日も残業で忙しいのだろう。目の前のテーブルには、昼間作ってきたポテトサラダとキッシュのお皿が置いてある。


 『お母さんに、美味しいものを食べさせてあげたいとは思わない?』


 そんな風に言われて、わたしはそれからあの人にキッシュの焼き方を教えてもらった。タルト生地に卵と生クリームに、ほうれん草とベーコンを混ぜた上にチーズを乗せて、オーブンで焼き上げる。正直、料理は調理実習くらいでしかしたことがなかったけれど、包丁の使い方からじゃがいもの茹で方から、色々教えてもらった。


 (ほんとに、不思議な人だったな)


 そう思い出しているうちに、お母さんが帰ってきた。


 「ただいま。遅くなってごめんね」

 「お、おかえり」


 何週間ぶりかと思うくらい久しぶりに、玄関口でお母さんを出迎える。


 「……どうしたの、これ?」

 「えっと……」


 居間に上がってテーブルの上を見た途端、お母さんの疲れた顔色がふっと消えて、目を丸くしたのが分かった。

 昼間にあったことを話しながら、わたしたちは二人で食卓を囲む。


 「何事かと思ったわよ。優しい人と会えてよかったじゃない」

 「うん。学校も休んでみるものだなって」

 「はぁ。出席日数は気をつけなさいよね」


 ため息をつきながらも、お母さんの表情は穏やかだった。


 「じゃあ、いただきます」

 「う、うん……」


 六つに切り分けたキッシュを、二人のお皿に半分ずつよそってある。まず最初の一口をお母さんが口に運ぶのを、固唾を飲んで見守った。


 「……うん。これ、すごく美味しいじゃない!」

 「そう? よかったぁ……」

 「すごいわ、これ。卵もふわふわだし、味付けもしっかりしてるし」

 「よかった。昼間に作って温め直したものだから、大丈夫かなって思ってたから」


 お母さんの感想にほっと胸を撫で下ろして、わたしも一口頬ばってみる。やわらかな卵とチーズの中から、噛むとジュワッと旨味が溢れてきた。


 「ホントだ、おいしい」


 この味を、手伝ってもらってとはいえ自分で作ったことに感動しながら、昼間に話したことを思い出す。


 「お母さんと食べられて、よかった」

 「亜季……」


 ふと口をついて出た言葉。思いもよらないで言ったことだったが、お母さんは少しの間うつむいてから言った。


 「いつも遅くなって、ごめんね」

 「ううん。それも、わたしの為なんだって分かってるから。美味しいって言ってくれて、嬉しい」


 わたしはあの人、「紗雪」さんの言っていたことを思い出していた。


 「今度お礼に行かないとね」


 食べ終わった後、二人で洗い物をしている時にお母さんは言った。


 「そうだね。本人は『わざわざいらない』って言ってたけど。……それとね、これからも料理を教えてくれるって」

 「教えてもらいに行くの?」

 「うん。お母さんが仕事で頑張ってる分、わたしは家で頑張ろうって。作りたい料理もいっぱいあるんだよね」


 昼間、自分の手で夕食を作りながら、お母さんと食べたいろんなものを思い出していた。


 「ハンバーグとか、角煮とか……お母さんが昔作ってくれてて美味しかったの思い出してたの。わたしも作れるようになりたいなって」


 ふと、お母さんが何も言わずわたしを抱きしめた。


 「亜季」

 「お母さん」


 わたしもそっとお母さんの肩を抱きしめる。きっと、わたしが探していたものは、これだったんだって。


 「とりあえず、今度の週末のお昼に何か作ってみせるね」

 「楽しみ。私もそのうち、あなたに得意料理を教えてあげないとね」

 「ん」


 ありがとう、お母さん。わたしは心の中でそっとそう呟いた。




 「ねえ。お母さんの好きなランチは、なに?」


 わたしが訊ねると、お母さんはしばらく逡巡してから答えてくれた。


 「そうねぇ……やっぱり、キッシュかしら」


 わたしは噴き出してしまった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

森の家のランチボックス 室太刀 @tambour

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る