05 紅桃色の花弁
火の手はまだ見えないものの、煙は既に視界の八〇%ほどを覆っている。
身体はまだ動けないが、本能がまだ生を欲しているのか、右手はハンカチをぎゅっと握りしめ、しっかりと口元にあてられていた。そのため、煙でやられた目から涙が溢れてくること以外は、感覚機能は幸いにもやられていない。少しだけ足先や左手を動かしてみると正常に動くことから、骨も神経もやられていないらしい。
もし誰かが助けに来てくれさえすれば、すぐに逃げ出すことはできるだろう。
そう、誰かが来てくれさえすれば、だ。
それはおそらく絶望的だろう。
なぜならここは、
ましてや、あれほど言い聞かせた白羽がここまで来ることなどないだろうし、仏壇を持ち上げることなどできないだろう。
――――もう長くはない、かもしれませんね。
絶望が胸を覆う。まるで煙みたいに。
目の前を暗くして覆い隠そうとする。生きる希望を隠していく。
その薄暗い闇の中で、自分を嗤う声が聞こえた。
家の周りを人が囲い、嗤う幻覚が、幻聴がする。
あんな娘を庇ったからだ、あんな娘の願いを聞き入れたからだ。
――――あんな娘を愛したからだ。
そう、まだ一つの季節も過ぎゆかぬこの短い間に、晴寄の心には仄かな恋心が芽生えていた。それが本当に恋なのか、それとも生徒に対するただの愛情なのか、それは不確かであったが、その思いに晴寄が今生かされていると言っても過言ではなかった。
いつからだったか。意識を失う前にも感じた疑問。
いつからあの少女のためにこうも必死になるようになったのか。
晴寄にはとんと覚えがなかった。
祖母を思い出し切なく流された涙を拭った瞬間からだろうか。周りからの暴力に無言で耐える儚い姿を見たときからだろうか。桃の枝を折って欲しいと、奇妙な願いを聞かされたときからだろうか。
それとも、あの一目見た瞬間からだろうか。
なんでもいい。もう一度あの子に会いたい。
煙のせいではない涙が溢れ、嗚咽が漏れ始めた。
「白羽、……さんっ」
手を伸ばしても届かない。ぐっと力を入れて左腕を伸ばし、手に触れた畳に爪をガリガリと立てて身体を引き出そうとする。しかし、仏壇に押しつぶされた身体は数センチも進まない。
もう少し、と更に手を伸ばしたその先、桃色の花びらが舞い上がった。
その光景に、目を見張る。
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「晴寄せんせぃっ! ここですか!?」
よく響く声が和室の入り口から入ってきた。霞んだ視界に浮かんだ女性のシルエット。ヒールの高い靴を履いたまま、そのシルエットは慌てて駆け寄ってきた。
「晴寄先生!! あぁ、もう情けない、仏壇の下敷きですか!」
入ってくるなり彼女は大声で喚き散らし、晴寄の目の前に立った。
それから、大きなため息を吐いたかと思うと、スカートの端がプツリと音を立てるのも気にせずに両足で踏ん張った。そうして彼女は晴寄が答える前に、両腕に血管を浮き上がらせながら仏壇を跳ね上げる。
「動けますか!?」
「か、
ぼんやりとした晴寄の返答に、「はい! 川相です!」と叫び返した川相は、晴寄に勢いよく手を差し出した。
ぐっと握りしめたその手はずぶ濡れで、合わせた視線は涙で濡れていた。
「あ、あの、泣いて……」
「ないですっ! むしろ、
彼女があなたを呼ぶ声が聞こえていなければ、私はここに居ませんから!」
そうか、と晴寄は安堵の笑みを浮かべて川相と廊下を走った。それを見た川相は「こんなときに!」と怒りをあらわにしたが、それ以上何も言わなかった。
何かが崩れる音がすぐそばで鳴り響いている。ところどころで、天井の梁が崩れかけ始めているところがあった。
靴も履いていない晴寄の足は見えないガラスの破片を踏みつけるたびに血を流していたが、火事場の馬鹿力というやつだろうか、さほど痛みを感じずに走破する。
「晴寄せんせぇー!!」
玄関で外に出ることもできず震えて待っていた白羽がこちらを見て駆け寄ってきた。そんな白羽を骨壺ごと抱きとめて、私が守りますからと言い聞かせて外に出るように促す。
玄関のドアを開けて一気に外に飛び出すと、案の定周りの住人たちが野次馬に来ていた。
三人が姿を現すと、空気がざわりとどよめく。嫌な雰囲気を纏った言葉が、誰ともなく幾つもの口から静かに流れだした。
「生きていたのか」
言葉は違えど、内容はほとんどがそれであった。なんと運のいいものだ、などという不快な言葉の群衆が波のようにさざめいている。
「悪女の家だから燃えたのよ! これは神の裁きに違いないですわ」
ひと際甲高い声があがる。振り向くと、意地の悪い狐のような目がこちらを
白羽を虐める生徒の擁護をした女生徒 花宮
花宮の言葉にさらにざわめく周囲の大人たち。それはもう、蜂の巣をつついたような、広がりようであった。
「まことですか。
野次馬のなかに居た一人の男が唖然とした表情で花宮に問うた。
川相はため息を吐いた。晴寄は意味が分からなかった。白羽はカタカタと身を震わせ始めた。
村の北にある山の上に、大きな神社がそびえたっているのは、晴寄も知っていた。しかし、その神社の巫女がここまで村人に影響力があることなど知らなかったのだ。晴寄のなかで、少しずつ何かの糸が解けていく。
カァーンカーンカーン!!
その緊迫の線を塗り替えるように消防車両の音が鳴り響いた。
巫女の娘こと花宮の言葉を待っていた村人たちは、一瞬遅れてその場を避けて道を開ける。
晴寄たちを囲う嫌な空気が霧散していく。
そのすぐ側で消火作業が始まり、程なくしてから救急車も現れて酷く怪我を負った晴寄たち三人を車両のなかに乗せた。
しかしそのあいだも村人たちの視線は三人から外れることは無かった。流石に取り巻くような嫌味な言葉や、巫女の娘と呼ばれた花宮の言葉が浴びせられることは無かったが、真っ黒で鬱々とした視線がまるで「覚えていろ」と言わんばかりに伸ばされていた。
その狭間を、消防車と救急車の赤いランプが、風に吹かれて散り始めた紅桃色の花びらが、邪気を払わんと流れていく。
呪われているのはどちらだ、一人の女と孫娘を呪おうとしているのはそちらではないのか、そんな晴寄の義憤の思いは、楔のように深く心に刺さった。
しかし、その思いを行動に移す暇もなく、どっと疲労が押し寄せてきた。それを感じ取ってか、晴寄は苦笑する。
薄れゆく意識の端、骨壺を抱いた少女が眉を八の字に曲げながらも微睡んでいるのが見えた。
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