ラブわからないぼくらのラブコメ

難波優輝

第1話:猫の気持ちわからない

大学生活にようやく慣れてきた頃、雨の降り続く季節がやってきた。


朝からの雨でどこか薄暗い構内を抜けて、ぼくは昼休みのお弁当を片手に傘を差しながら坂道を登る。坂の多い場所にあるこの大学には大小さまざまな坂がある、坂の大学だ。その坂のあいだを埋めるようにいろいろな場所がある。ぼくのお気に入りは、ちょうど誰も通らないような、道と道のあいだ、坂と坂のすれ違うちいさな木陰、そこにはたいてい何らかの猫がいて、猫といっしょに静かにご飯をたべる。


「あれ、先客がいる」


お気に入りのベンチの近くで赤い傘を背負ってしゃがんでいるひとがいた。


どうやら猫と戯れているようだった。


「そんなにこわがらなくていいですよ〜ほら、ツナ缶をもってきたんですから〜って痛っ!」


どうやら猫にかまおうとして威嚇されているようだった。


ぼくは話しかけようかためらって、しばし静観することにしてベンチに座った。

お弁当をあける。今日のご飯は昨日の残りだ。豆腐ハンバーグ。とはいえ、そんじゃそこらの豆腐ハンバーグではない。このハンバーグには肉が入っていないのだ。ぼくが近年もっともおどろいたことのひとつは、豆腐ハンバーグは豆腐100%ではないケースがほぼ全体を占めているという事実だった。


豆腐ハンバーグというからには少なくとも豆腐でできたハンバーグとみなすことは不合理じゃないはず。たとえば、魚肉ソーセージなら、魚肉でできているはずだろう。


「いい子ですね〜そうそう、ちょっと撫でさせてもらえればうれしいな~と思うんですが~あっ」


けど、豆腐ハンバーグは豆腐と肉の混合物なのだ。これは不合理だ。そこで、昨日は大豆ミートというものを試してみた。これで真正な豆腐ハンバーグがつくれる。もともと肉をあまり食べないのだが、一人暮らしをはじめるにあたってせっかくだから野菜を中心にどこまで生活できるのかを挑戦しはじめている。


「痛い痛い! ひっかかないでください!」


大学に入ったら、食べることについて考えようと思っていた。といっても料理の研究や栄養についてではなく、食べることの意味について。ぼくたちは生きているだけでほかのいきものを食べたり、他のいきものの場所を奪ったりしている。それはほんとうにしてよいことなのだろうか、もっとよりよいことはあるのだろうか。今日は思い切って生協で本を買ってきた。『動物からの倫理学入門』という本で、2800円(税抜き)。学生には高い。こういう値段の本をじぶんのお金で買うのあまり馴染みがなく、一世一代の気分だった。きつねのコン! のかたちの手の写真が表紙で、中身と関係あるんだかないんだかけっこうなぞなのがいい。


「あ! 持っていかないで! それはわたしのお昼ご飯!」


大学に入ったら、いろんなことを話す友だちもできるのかな、と淡い期待を抱いていた。とはいえ、ぼくはまだ大学で友人らしい友人と出会うことができないでいた。新歓で誘われて、いくつかのサークルに顔を出してみたものの、どれもピンとこない。文芸サークルでは、熱くすきな作家を語り意気投合する新入生と先輩に気圧されてしまい「映画のノベライズの微妙に完成度が高い作品を読むのがすき」だと言い出せなかったし、哲学サークルでは、熱くすきな哲学者を語り合うひとびとに圧倒されて馴染めずに帰った。


「わかりましたから! これはあげるのでそんなに怒らないでください!」


急に声に不安と緊張が混じった。ぼくは思わず顔をあげた。猫かまいさんはいつのまにか立ち上がっていた。どうやら猫の顰蹙を相当に買ってしまったらしい。いきりたった猫が口を開け、尾っぽと牙を立てて威嚇している。それにたじろいで、赤い傘を抱きしめるようにして身を引いている。


一歩、二歩、ぬかるんだ地面をすり足で後ずさる。この街は坂の街だ。この街では、どこも坂だと言える。どこも斜面で段差だらけの街だ。だから、猫かまいさんは何かにつまづいて、ゆら、とその身体はゆっくりとバランスを崩した。時間が急に遅くなった。ぼくはとっさに走り出した。


重いものがのしかかってくる感覚。衝撃。いやな感触。


気づくと、ぼくは猫かまいさんの下敷きになっていた。猫かまいさんの身体を受け止めるように、ぼくは地面とのあいだに滑り込んだ。最悪の事態は避けられたようだ。


「こけてしまった……ってあれ、こけてない?」猫かまいさんはまぬけな声を上げる。


「だいじょうぶ……ですか」ぼくはうめくように声をかける。


「あっ! あのすいません!」


猫かまいさんはばっと身を翻してぼくの上から退いてくれた。いっしゅん何が起こったのかわからないように口を開け、ぼくの方を見て、その顔がさあっと白くなった。すぐぼくのもとにしゃがみこんだ。


「血、出てます……」


「ほんとだ……いたい」


コンクリートの地面で膝をしたたかに擦ったようだ。気に入っていたパンツは破れ、大根おろしのおろし金で勢いよくガリっと擦ったように皮膚はびらびらしている。


「みるとよけいにいたい……」


「ああ! ごめんなさい! わたしのせいで……とりあえず……そうだ! 消毒! あの、これ!」


わたわたとビニール袋から取り出してくれたのはミネラルウォーターだった。まだ開けてないやつです。と言いながら、ぼくのひざにそっと傾けた。


「いた……いや、ありがとう」


鮮烈な痛みに目をつむりながら小さな声で感謝をした。



「ごめんなさい。ほんとうにありがとうございます。こけそうなのを助けてくださって」


「いや、いいよ。それより怪我はない?」


「おかげさまで。でも、ほんとにだいじょうぶですか? それに服……弁償します!」


「だいじょうぶ……」


といいながら、ベンチに座ったぼくは身体をエビのように曲げて小さくため息をついた。けっこう落ち込んでいた。もっとうまく助けられたろうに……。運動不足が祟ったのかもしれない。これ、同じサイズがあればいいけど……あと、お風呂入るとき痛そうだな……。というかお弁当の中身ぜんぶ落ちちゃった……真正な豆腐ハンバーグ……。


隣に座った猫かまいさんの申し訳なさそうな目線をひしひしと感じる。伏し目がちな目がこちらを心配そうに見ている。何か言わないと……。


「あの、だいじょうぶです。たしかにお気に入りの服だったし、すごく痛いんですが、きみのせいじゃなくて、ふがいなさに落ち込んでいるだけです」


「え? あのごめんなさ」


そっと手をやってその声を制した。


「だから、きみがわるいとか、そういうことはぜんぜん思っていないので、気にしないでください」


何か言おうとしたのか、猫かまいさんは小さく口を開いてもごもごしたあと。それからにっと笑った。


「わかりました! じゃあ、感謝させてください! 命の恩人ですからね!」


「あ、うん。どういたしまして……?」


予想外の反応に戸惑いながら、それから、猫かまいさんの名前をようやく訊いた。


「酒匂アキといいます! 酒に匂うと書いてサコウと読みます」


「ぼくは瀬戸ハル。瀬戸内の瀬戸」


「ハルなんですね。おもしろい。ハルとアキだ」


「そう……うん。ちょっとおもしろい」


ぼくは、さっきから、丸いかわいらしい眼鏡の奥から、好奇心旺盛なキラキラした目でこちらを見てくる隣の猫かまいさんにすこしたじろいでいた。あんまり会ったことのないタイプだ……。


「酒匂さんは」


「アキでお願いします」


「アキさんは」


「アキで」


「……アキは、どこの学部?」


ふふん、アキは満足そうな顔をした。


「哲学科です」


「あ、ぼくと一緒」


「あれ、ハルもそうなんですか。たしかに言われてみれば」


「言われてみれば哲学科って何」


「ふふ。何を研究してるんですか」


「いや、新入生」


「あ、そうなんだ。先輩だと思ってました」


「思ってたにしてはすごいフレンドリー」


そうですか? とアキは首を傾げ思案するように目をキョロっと上の方に動かした。そのままの姿勢でいっしゅん止まって、まあ、わたしはフレンドリーなので! とドヤ顔をする。


「ぜひ、これから四年間よろしくお願いしますね」


「うん、こちらこそよろしくお願いします」


深々とおじぎをして顔を上げると、彼女はさらに顔を近づけてきていた。


「ハル!」


「はい、なんでしょう」


「ハルはここでいつもご飯を食べてるんですね」


「そう。静かで、猫もいる。今日は静かじゃないし、猫もどっかいっちゃったけど」


「わたしじつは、ハルのことさきに知ってました。猫ちゃんを手なづけるネコマスターとして。いつもこの道を通るんですが、ちょくちょく見かけていました」


「そう」意外なところでみられてる。皮肉は通じない。というか、


「ネコマスターって何」


「ネコマスターハル」


「ネコマスターって何」


「ネコマスター兼命の恩人として頼みがあります」


アキの顔から笑みが消え、真剣な目でこちらを見てくる。


「……なんでしょう」


「わたしに猫の扱いを教えてください」


「いいよ」


「やったー!」


両手をあげてバンザイするアキをみて、この猫はどうも手なづけられそうにないな、と思った。

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