喫茶『勿忘草』の扉は、四年に一度だけ開く。
浜能来
第1話
喫茶『勿忘草』の扉は、四年に一度しか開かれない。
もとは、職を退いた偏屈な老人が、自分の独自に生み出したブレンドを自慢するための喫茶店だったという。八年前に初めて訪れた時、その息子だという還暦手前の店主から聞いたことだ。
私はそれを、非常に勿体のないことだと思っている。良いものとは、使うべき時、使われるべき時に在ってこそ、価値を持つのだから。
社会人になったばかり、慣れない自分の仕事ぶりに苛立ち、真面目一遍の上司に磨り潰されていた当時、私を救ったコーヒーの香り、その芳醇を。日々の癒しとして求めるのは、間違っているだろうか。
そう、理屈を立ててみたところで、所詮私は一介の客だった。
足を止め、見上げる。
私の中の『レトロ』を形作っている、小さなレンガ造りの喫茶店。四年に一度しか開かれないものだから、赤茶けていたはずのレンガは歳月に黒ずみ、茶色く節くれだった枝に覆われている。秋の寂しい風を受けながらでは、まるで廃墟のように感じてしまう一軒。
足元を見下ろすと、それだけはやけに小綺麗なブラックボードのスタンドが、唯一この喫茶店の営業を証明していた。
『コーヒー、あり〼』
相変わらず、飾り気がない文字。
別にオレはコーヒーなんて興味がないのだ。そう言っていた店主の渋い顔を思い出しながら、私はメッキの剥げたドアノブをひねる。
からん、ころん。
壁に取り付けられた白熱電球が、覆いを透かして柔らかく照らす店内。目を刺すLEDの光がないだけで、私はほっと息をついた。
まだ私が喫茶店など目にも止めない子供であった頃の世界が、そのままここに残っている。格調ある木製の椅子、机、インテリアとしての白黒写真が作り出す、博物館のような別世界。
陽気なジャズはその空気感に合わないように思うのだが、四年に一度の面倒事を受け継がされた現店主の、ささやかな抵抗なのかも知れなかった。
すでに来店していた数人を脇目に、私はカウンターへかける。しょりしょり、しょりしょりと手回しのミルを回していた店主が顔を上げた。
「あぁ、あんたかい。本当に今年も来たんだな」
「オリンピックと違って、高いお金も運も必要ないですからね。そりゃあ、来ますよ」
「来てくれない方が、オレは楽なんだがね」
「そんな殺生な。次も来させてください」
ふん、と鼻を鳴らす店主。まだ三度しか会っていないが、その三度に八年がかかっている。髪はすっかり白くなり、頬も少しずつ肉が落ちて、薄くなってきていた。
無愛想だが、話好きの彼の前に代金を置いて――この店にメニューは一つしかないので、注文の必要もない――私はその流れるような手つきを楽しむ。
「オレもそろそろおっ死ぬからな。倅に親父と同じ嫌がらせはしたくねぇから、四年後にはもう、店じまいよ」
「そんなこと言うと、他の常連さんたちも泣いてしまいますよ?」
「四年もあるんだ。その間に、別の喫茶店を探しゃあいい」
店主の言葉は、まるでお客への感謝など感じさせないのだが、わざわざこんな偏屈な店に来るお客だ、気にした風もない。
三十路の私が何を言うとは思うのだが、この、何か秘密結社じみた連帯感も、この店を気に入っている理由の一つだったりする。
それを味わうように、おぼろげに見覚えのある同志たちを見渡して、私は一人の女性に目を留めた。
「彼女……」
「あぁ、今年は一人みたいだな」
店主が私の心を読んで相槌を打ってくれる。
その女性は、おそらく二十代前半と思われる、目鼻の通った顔立ちをしていた。私の知っている顔はもう少しあどけなさを残していたはずだが、面影がある。
特に、大和撫子然として伸ばした、あの艶やかな黒髪を見間違えようはずもない。
彼女は、コーヒーの香気立ち上るカップをテーブルに置いて、一人小説を読んでいた。
「もしかして、別れちまったのかなぁ」
カウンターから身を乗り出した店主が、私に囁く。
たしかに、八年前に見たセーラー服の彼女は、平々凡々とした学ランを連れていたし。四年前に見た彼女もまた、何事かを原稿用紙に書きつける男を、あの緩やかな瞳で見つめていた。
「なぁ、あんた。オレも老いさらばえたが、あんな美人の子の恋愛遍歴が聞けるとあっちゃ、四年後も店を開かずにはいられない」
「なんですか、それ。性格の悪い……」
「知るかい。ここはオレの店だ」
そう言って、店主はまるで人質を見せるように、私の前でカップを見せびらかした。コーヒー一杯で見知らぬ女性の恋愛遍歴を探ってくるなど、法外な取引もいいところ。
……だけれど、四年後もまた店が在るというのなら。
ほんの少し、ほんの少しの自分の興味もありながら、私はコーヒーを受け取って席を立つ。
「すみません。相席させていただいても?」
「……え? 相席ですか」
本を読んでいた女性ははっと目をあげて、ぱちくりとさせる。辺りを見回すのは当然だろう。だって、相席する必要などない。
「えぇと、その」
私は嫌な汗をかきながら、十年に届こうとする社会人としての経験をひっくり返す。そして、彼女の手元に足掛かりを見つけた。
「その本です。最近、流行りでしょう。話題として、私も買っておこうか迷っていまして」
「あら、そうなんですか?」
早口に捲し立てると、途端、怪訝だった彼女の顔がぱっと和らいだ。テーブルの真ん中に置いていた自分のカップを引き寄せて、たおやかな仕草で席を進めてくれる。
私は内心ひどく安堵して、会釈一つ席についた。
「ふふ、嬉しいです。この本、いろんな人に読んでほしいと思っていて」
「読んでほしい、ですか。そこまで言わせるなんて、短編集と言っても侮れないのですね」
「えぇ、そうですよ? ただ、私の場合ちょっと、不純な『読んでほしい』なんですけどね」
彼女が照れ臭そうにはにかみながら差し出したのは、短編集の中でもアンソロジーと呼ばれるものだった。
近頃よく聞く、可処分時間の減少だとか、若者の活字離れだとか。そういったものを考慮してか、短時間で読めることを強調した一冊だ。
泣ける。心温まる。スッとする。なにがしかの方向性でもって纏められているらしいのだが。
彼女が両手を添えてテーブルに置いた、その一冊の表紙は目を落とす。どうやら、『心がキュンとする』らしい。
私はそこから、どう話を広げようか頭を回転させながら、コーヒーで口を湿らせる。まずは、打ち解けなくては。
「心がキュンとする……ですか。あまりそう言うのは読まないのですが、例えばどういったお話があるんですか?」
「どういった、ですか……」
私としては無難な話題を投げてみたのだが、予想外、彼女は言葉に困ったように俯いた。形の良い指先が、カップのつるをなぞる。
「実は私、一作品しか読んでいないんです」
「一作品」
「えぇ、その、わたる君のしか、読んでなくて」
首をかしげる私の前で、彼女の指がおずおずと表紙の一点を指さした。
『渡良瀬 航』
わたらせわたる。そう読むのだろう。つまり『わたる君』とは、このアンソロジーの作者の一人。
「わたる君の、えと、その、友達の、最初で最後の作品なんです。だから、そう、身内びいきでは、あるんですけどね」
彼女は、短く言葉を切りながら、選んで濁しながら、教えてくれた。
私の頭の中では、それだけで符合する。
あの少年が原稿用紙に書きつけていたのは、きっと小説か何かであって。
今彼女の目の前にいない、彼の小説を。彼女は大事に大事に読んでいるのだ。
◇◆◇
「なんだそりゃ、大事なとこは全然わからないし、わかってることもあんたの推測じゃないか」
「えぇ。そもそも、初対面でそんなプライベートな話、出来るわけないんです。次に期待しておいてください」
「次って言ったって、四年も経てばそりゃ、初対面に逆戻りだ」
はぁ、と肩を落として。店主はカップを拭う肩を落とした。
すでに日も落ち、客はそぞろ。あの女性も帰ってしまった。
結局あの後、出来たのは小説の内容の話だけ。何度も開かれたのか、その部分だけページがへたっているなと思いながら、内容は至って王道のもの。もしや二人の恋愛をなぞっているのかと思ったのだが、そうであったのならやはり、初対面の相手に聞かせはしないだろう。
口ぶりから、『わたる君』とはあまり会えていないのだろうなと察せたくらいが、収穫だった。
「やっぱり、別れちまったのかなぁ」
「そもそも、付き合ってなかったのかもしれませんよ。それか、『最後の』と言ってましたから、死別かも」
「おいおい。他人事だと思えないから、止めてくれ」
「大丈夫ですよ。店主はまだお若いですから」
なんともまぁ、下世話な会話だ。
カップの底に薄く残ったコーヒーをすする。いかに思い出深い味も、冷めてしまえば苦味が強い。
ぼんやりと、彼女が鞄に小説をしまう際の、丁寧な手つきを思い出し。
「会えない方が、深まるものもあるんでしょうか」
「……オレに言ったのか?」
「いいえ? 店主に言いたいのは、いつもこの店を開けておいてくれ、という一事だけです」
「言うだけなら、好きにしろい」
四年後、彼女はまたやってくるだろうか。その時、彼女はあの小説を持っているだろうか。新しい話を聞けるだろうか。
言葉とは裏腹。そう考えると、四年という期間は存外楽しみなのかもしれない。
このコーヒーの深みもまた、四年間という時間が作っているのかもしれないと考えて、いささか格好をつけすぎているなと自嘲した。
喫茶『勿忘草』の扉は、四年に一度だけ開く。 浜能来 @hama_yoshiki
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