贖罪
島 まこ
贖罪
目が覚めると、男は見知らぬ場所にいた。起きると同時に、きっと身を刺すような寒さで身体が震えた。辺りを見回しても荒れ果てた広野だけが坦々と目に映るばかりで他には何もない。空には太陽が低いながらも昇っている。どうやら男は名も知らぬ土地に放り出されたらしかった。
どうすべきか分からなかったので、男は日の差す方角へ歩き始めた。幸い靴は履いていたが、底には所々穴が開いていたため、度々そこから入る小石との格闘を強いられた。しばらく歩くと、最初の興奮はやや収まって多少冷静になれる余地ができた。それにしても男は、自分が何故こんな場所にいるのか信じられなかった。目が覚める前の記憶では、仕事を終えた後に数人連れ立って酒場で一杯やっていたはずだった。相変わらずぬるい酒をだらだらと飲みながら、仲間と共に仕事の愚痴を言い合い鬱憤を晴らしていた。全くの日常を過ごしていたはずだった。そういえばその後の記憶がない。おそらくその後、このような辺鄙な場所に連れてこられたのだろうか。しかし何故?考えても仕方がなかった。
太陽がちょうど男の頭上に昇った頃、遠くにうっすらと、いくつかの小屋のようなものが見えた。近づくにつれ、どうやら小屋には生活の跡があるようだった。それらを見出した男は、喜びのあまり言葉と呼べないような文言を叫んだ後、小屋の群れに向かって走り出し、その前で大声を出して助けを呼んだ。
「すみません、誰かおりませんか!?」
辺り一面に男の声が響いた。すると、いくつかの小屋の中の一つから、1人の老人が出てきた。縮毛の白髪で、顔の皮膚は赤黒くヒビが入ったような深い皺が刻まれ、まるで荒野の厳しさを体現したような老人であった。それに、男を訝しむような表情で目を細めており、その顔は余計に荒れているようだった。老人は初め、男の様子を伺うように小屋の扉の辺りでじっとしていたが、何かを察したのか男の方へ近づいてきた。驚くべきことに、近づくにつれその老人の表情が一変しだした。その渇いた顔には潤いが満ちていた。白い眉は八の字に歪んでいる。老人は涙を流し慈悲の表情を浮かべていたのだった。
老人は男の前まで来ると、地べたに座るなり首を垂れた。地に頭を擦り付けながら、身体の奥から響いてくるような、一種の哀しさを感じさせるような声で何かを必死に唱えだした。
老人の予想もできない行動に、男は困惑した。どうしていいかわからず、老人に話しかけるもまるで聞こえていないようで、己のことに必死な様子だった。歳のはるかに上であろう面識もない老人に出会ってすぐに拝まれる理由を男は自己に見出せず、ただ立っていることしかできなかった。
しばらくすると、他の小屋からも人が出てきた。それらの人々も、地に伏す老人とその前に立つ男の姿を見るや否や、老人の見せたあの憐むような表情と共に近づいてきた。
目にしたことのない光景に男は突然怖くなった。今すぐにこの奇妙な場所から逃れなければならないという考えで頭がいっぱいになった。男は一目散に走り出した。後ろは振り返らなかった。ただ、前だけを向いて懸命に走った。
しばらく彷徨ったのち、男は足を止めた。自分がどの方角に向かっているのか分からなくなるほど走り回り、先程の恐怖感は和らいだが、別の新たな恐怖が男の前に現れていた。広野の表面を巨人が荒く削り掘り返したかような険しい崖が立ちはだかっていた。
何故だか分からないが、男はこの崖を降りなければならないと思った。一歩足元が緩めば即座に落ちてしまいそうな急峻な崖である。正気ではないと分かっていたが、頭の中に残る老人の、祈りとも呻きとも分からぬ声が、自分をこのような危険な行為に突き動かしているような気がしてならなかった。
渇いて脆く見える岩肌を手で触ると、意外にも固くしっかりとしていた。面から突き出た岩を手で掴みながら、足場の確かさを何度も何度も確認して慎重に降りていく中で、男は記憶に残る最後の酒場の光景を思い出していた。通い慣れた酒場には、蝋燭の黄色い明かりが至るところに満ち溢れていた。その灯りの下で、自分と同じような大勢の男どもがその豪腕に似合う不格好な容器に酒を並々と満たし、大声で何かを言い合っている。思い返せばまるで祭りのような騒がしさだった。それは男にとっての日常だったのだ。何がいけなかったのだろう。朝から始まったこの理不尽な状況を振り返るにつけ、毎日のように酒に溺れた自分の愚かさを悔いた。後悔しても何らこの状況は変わらないという救いのない事実の受け入れ難さを、幾らかでも気付いていたためか、それを振り払うように一心に後悔した。
その瞬間、足元がよろけた。その衝撃で足場にしていた岩が脆く崩れる感触が伝わってくる。思わず掴んでいた岩をさらに強く掴むと、これもまた手元で崩れた。支えを失った男の体は一瞬宙に浮いた。男は自己を責める後悔の中に落ちていく運命を悟った。
贖罪 島 まこ @OsanpoChannel
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