黄色の本を買う話

戯男

第1話


 タンスを居間から寝室へ移動させる手伝いをしたら、「お駄賃や」と言って父が三百五十円くれた。金額にさしたる意味はなかった。たばこ屋帰りの父のポケットに入っていた小銭がたまたまそうだったというだけのことだ。

 ともあれ、タカシは喜んだ。三歳のタカシには毎月支給されるお小遣いなどない「おやつ買いたいんやけど」などという母への申告によって小銭を手にすることはできたが、それは母の機嫌によって結果が大きく変わる不安定な手段だった。そんなタカシにとって、この降って湧いた三百五十円は、普段できない買い物をする千載一遇の機会だった。

「本を買おう」

 四枚の小銭を右手に握って、タカシは決心した。

 タカシは本が好きだった。最近のお気に入りは『ガンジー』だ。トイレに行くときも布団に入るときも、タカシは『ガンジー』を携えて行った。

 でもごはんの時だけは別だ。かつて本――そのときは『マザーテレサ』だった――を持ったまま夕食の席についたところ、「ごはんの時はちゃんとごはん食べなさい」と母から非常に怒られたことがあった。以来、タカシは食事と入浴の時だけは本を棚に戻すようになったのだ。


 タカシはまだ字が読めなかった。平仮名だけなら何とかなるが、漢字となると自分の名前のほかはさっぱりである。『ガンジー』の表紙の、タイトルの斜め上あたりに書いてある文字が読めないから母に解読を頼んだところ、「小学校高学年向き、って書いてあるのよ」と教えてくれた。ならば三歳のタカシに読めなくても無理はない。

 しかし。字が読めないことなど些細な問題に過ぎなかった。たとえ書いてあることが解らなくとも、タカシは本が大好きだったのだ。

 開いたときに匂い立つ古い紙の香りや、日焼けした紙が重なる古びた色合いや、指先にざらざら残る埃の感触がタカシは好きだった。持っているだけで自分の頭がずっと立派になったような、まるでその本と同じくらい昔からずっと生きていて、いろんなことを知っているみたいな気になれるのが、なにより堪らなく好きだった。

 タカシは書店に並んでいる、インクの匂いが鮮やかに残っているような若い本には少しも興味が無かった。タカシは無理に開くとばらばらになるような古い本を好んだ。


 正直なところ、『ガンジー』には少し物足りないところがあった。タカシは古びた布張りの表紙が擦り切れてざらざらになった手触りが好きなのだが、『ガンジー』の表紙はツルツルの厚紙だったのだ。表紙もデザインも、『ガンジー』の赤文字と横顔のイラストが大きくあるだけで面白味に欠ける。

 何より、タカシに言わせれば、その本はまだ若過ぎた。『ガンジー』はタカシが買ってもらった本ではない。父の本棚にあったものだ。父の本棚の中では一番古い一冊だったのだが、父は子供の頃からあまり本を読まない人だったらしく、『ガンジー』と『マザーテレサ』の他には『ツルピカハゲ丸』『おそ松くん』『めぞん一刻』などといったコミックスしかなかった。しっかりした装丁の本は『ガンジー』と『マザーテレサ』だけで、訊けばそれも父が買ったものではなく、祖父母から買い与えたものらしい。


 だからタカシはこのまとまったお金で、自分のぴったり気に入る理想の一冊を買おうと決めたのである。

 それはどんな本なのか、タカシの中ではずいぶん前から決まっていた。

 なによりもまずは、なるたけ古い本。古ければ古いほどいい。日に焼けた紙は擦り切れてぺらぺらで、何人もの指に撫でられた腹は手垢で黒光りしているとなおいい。そして表紙は黄色。いくら古くてもこの色だけは鮮やかな方が嬉しい。できれば布張りがいいけれど、革張りでもまあ我慢する。そして表紙にはなるべく綺麗な文字か模様がならんでいること。

 三百五十円握った手をポケットに入れて、タカシは近所の古本屋に行った。タカシは時々ここへ一人で来ては、みっしり並ぶ背表紙や、高く積み上がった本の横腹を眺め、店中に満ちる古い紙の匂いを楽しんだりしていた。

「ようタカちゃん、今日は『ガンジー』持ってないのか」

 店に入るなり、カウンターの向こうで吉田のおじさんが手を上げた。おじさんは右手の指に短い煙草を挟んで、左手で和綴じの本を繰っていた。

 タカシは早速、おじさんに理想の本のことを伝えた。古く、黄色で、綺麗な模様のある本。

 するとおじさんは困ったように煙草を吸って、

「えー、なんやそれ。タイトルとかわからんの?」

 首を横に振る。タイトルなんてわかるはずがなかった。それどころか見たことさえないのだ。なんせそれはタカシの頭の中で作り上げた理想の本なのだから。

「困ったな。そんなん言われたことないわ。緑と赤の本やったら知ってるけど……あれはたいして古ないし……」

 煙草を消したおじさんはカウンターから出て、店の中をうろうろ歩きまわった。タカシも後について本棚を見上げたり、積み上がった本をのぞき込んだりした。

「こんなんどや」

 おじさんはそう言って一冊の本を示したが、それはタカシの理想からはほど遠いものだった。続いて何冊も「どや」と引っ張り出してくれたが、ただ黄ばんでいるだけだったり、裏表紙がもぎ取れていたり……。タカシは黙って首を横に振り続けた。

 何分かして、おじさんはカウンターの向こうに戻って煙草に火をつけた。

「わからん。お手上げや」

 おじさんは煙を吐いて、人差し指でカウンターをこつこつ叩く。

「せや。いっぺん図書館行って訊いてきてみい。司書やったら本に詳しいしな。ほんで、なんちゅうタイトルの本か訊いてこい。それさえわかったらなんぼでも探したる」


 おじさんに礼を言って、タカシは図書館へ行った。図書館は古本屋の次に好きだが、タカシにいわせればそこにある本はどれもまだまだ若かった。時々良い具合に古いものもあったが、それは大抵書架の端の方にあった。みんなが借りたり読んだりしているのはどれもできたての本ばかりだ。

 来館者は誰もいないようだった。貸し出しカウンターの向こうで、もこもこの白いセーターを着た女の人がパソコンを操作していた。

「あ。タカシちゃん。こんにちは」

 タカシはその女の人とも知り合いだった。ヒトミさんという若い司書だ。

「黄色?古い?布張り?」

 タカシの注文にヒトミさんは首を捻った。

「タイトルは解らへんの?」

 ヒトミさんは吉田のおじさんと同じことを言った。

「面白い本の探し方するね。そんなこと訊かれたの初めてやわ」

 黄色黄色……と言いながら唸っていたヒトミさんは、やがてパソコンをかちかちやって、「ちょっと待っててね」と書架の間に入っていった。

 しばらくして、胸の前に本を抱えたヒトミさんが戻ってきた。そこにあるのはどれも黄色の本ばかりだった。

「こんなんどう?SF小説。面白いよ」

 見事に黄色かったが、しかしちょっと新しすぎた。

「じゃあこれは?箱入り。パラフィンかかってるけど。社会学の事典」

 まずまずの古さだが、箱入りは趣味じゃない。

 ヒトミさんは積み上げた本を上から順に紹介していったが、最後の一冊になっても、タカシの気に入る本はなかった。

「ほかは……ちょっと思いつかへんわ。電話帳は駄目?」

 ヒトミさんは机の下から分厚い雑誌みたいな本を出した。色は確かに鮮やかな黄色だが、表紙という表紙もないし、紙も安物の匂いがする。

「あかんかあ……」

 息をついて、ヒトミさんは椅子に背中を押し付けた。タカシも俯いてカウンターに額を押し付ける。

「あ」

 タカシが頭を上げると、ヒトミさんがどこを見てるのかわからない顔で、唇を小さく開いている。

「あれやったらたぶん」

 ヒトミさんはタカシの方を見ないまま、

「でも、今……」

 眉根に少し皺を寄せて、ヒトミさんがタカシに向き直る。

「タカシちゃん。駅前に内田屋あるやろ。ガムとか洗剤とか売ってる」

 タカシは頷く。

「ずっと前にあそこで見たことあるわ。黄色くて古くて、分厚い本。こんなん誰が買うねやねんと思ったけど……タカシちゃんの言ってるのにぴったりかも」


 内田屋は駅前にある雑貨屋だ。町の人は荒物屋と呼んでいる。駅を利用する人向けの雑誌や煙草や、近所の子供のおやつを扱っているほか、バケツや包丁、漬け物や食パンまで、生活に必要なものは大方ここで揃う。

 しかしその陳列は雑然としていて、どこに何があるかは店主のばあちゃんでさえ把握しきれていないらしい。売り場もやけにころころ変わって、噂では店自体が意志を持って毎日微妙に変容しているということだ。

 ポリバケツと竹箒に挟まれた店先を通って、タカシは入口の引き戸を開ける。店に入ってすぐ駄菓子コーナーがあったが、ついこの前まではここに雑誌が並んでいた。

「いらっしゃい。お菓子?」

 笑いかける内田のお婆ちゃんに、タカシは本のことを訊ねる。

「本?黄色の?そんなんあったかいな。雑誌やのうて?」

 橙色の火鉢にあたりながら、ばあちゃんは首を傾げる。タカシも近寄って火にあたる。ぶ厚い火鉢の縁はじんわり暖かく、細かい灰の表面にばあちゃんが吸った煙草の吸い殻が何本も刺さっている。

「ちょっとその辺探してみ。昔あったんやったら、たぶん今もあるやろ思うわ。そんなん売れたことないし」

 棚には色んなものが、何の脈絡もなく並べられていた。洗剤の横にアジシオがあり、植木鉢の中に助六が入っていたり……。それは通路にもところせましと置かれていて、天井からも何かしらがぶら下がっている。上から下から阻まれて、店の奥の方へはほとんど見通しがきかない。

 しばらく探し回るが、それらしい本は見あたらなかった。どのあたりで見たのかヒトミさんに地図でも書いて貰えばよかったと思うが、三日前のものでさえ置き場所が変わる店だ。地図なんて何にもならない。

「あったか?」

 竿竹の林の向こうからばあちゃんの声がする。その小ささから考えると、タカシはずいぶん店の奥の方まで入り込んでいたらしい。棚の間を縫う通路は不規則に折れ曲がって、店先の方はもう見えなかった。

 タカシは竿竹の向こうに返事をしたが、それに対する答えは返ってこなかった。

 立ち止まってじっとしていると、静けさがやけに気になった。自分の息づかいをのぞいて、まわりには何の音もなかった。火鉢の炭がはぜる音も、店の前を通る単車の音も、タカシのいるところまでは届いてこなかった。あまりの静けさに、タカシは耳が痛くなってくるような気がした。

 少し怖くなってきて、タカシは道を引き返しはじめた。替えモップ、シュウ酸銅の薬缶、船のオール、木刀、鉋、蒸し器、米びつ。それでも行く前は薄暗いままで、店先のガラス戸へはちっとも行き当たらない。火鉢の音も聞こえない。じょうろ、ハンガー掛け、掃除機、布団叩き、石臼、出刃包丁。駄菓子コーナーの前を通り過ぎながら、タカシは段々大きくなっていく自分の息の音を聞いた。

 ちょうどタカシと同じくらいの背丈の、子供のマネキンが置いてあった。タカシはなるべくそっちを見ないように早足で前を通り過ぎた。

 不意に、シャツの裾が後ろに引っぱられた。

 タカシは立ち止まった。あまりの驚きで声も出なかったが、タカシは振り返らなかった。

 きっと裾が何かに引っかかっただけに違いない。タカシはおそるおそる右手を後ろに回す。前を向いたまま、手探りで、シャツに引っかかっているだろうものを外そうとする。

 すると柔らかい、しかし冷たいものが右手に触った。

 悲鳴を上げそうになった瞬間、いきなり何かが背中に伸し掛かってきて、タカシはうつぶせに倒れた。頭上で何かが激しく打ち鳴らされた。思わず頭を抱えると、その上から何か堅いものが落ちてきた。


「こら。何ほたえてますねや」

 声に顔を上げると、内田のばあちゃんが仁王立ちでタカシを見下ろしていた。

「こんなめちゃめちゃにして」

 そう言うと、ばあちゃんはタカシの上にのしかかっていたものを取り除けてくれた。それは黒光りした古い衝立だった。その後ろの棚から落ちてきたのだろう、大きな鍋や釜や金だらいなどが、タカシの周りの床に散らばっている。

「何も壊れへんかったからええけど、壊れてたら弁償やで」

 タカシは謝って、鍋や釜を拾い集めた。大きな釜はずっしり重く、もしこれが頭に落ちてきていたらひどいことになっていただろう。

「でも、ちゃんと見つかったんやな」

 片付けを終えたばあちゃんは、タカシの足下のあたりを指さした。

 そこには黄色い古い本があった。頭に落ちてきたのはこれだったのだ。

 本の値段を聞いくと、

「えらい前のやっちゃな。もうわからんわ。なんぼでもええよ」

 タカシはばあちゃんに三百五十円をそっくり渡した。


 タカシは満足だった。それはまさしく理想通りの本だった。布張りの黄色は鮮やかで、紙は古びた茶色、活字はインクが滲むように褪せている。開いたときの匂いも申し分ない。

 表紙を撫で、ページをぱらぱらめくるだけでも充分だったが、せっかく初めて買った本だ。まだ読めないにせよ、せめて何の本かくらいは知っておきたい。

 家に帰ったタカシは、早速その本を母に見せた。

「英語やないね。フランス語?違うかな」

 散々首を捻った挙げ句、母は「わからん」と言って、「お父さんに見せてみ」

 縁側で煙草を吸っていた父に、タカシは本を見せた。

「何やこれ。こんなんどこで買うたんや」

 内田屋で、もらった三百五十円で買ったと言うと、

「おやつでも買うたらええのに」

 父は表紙を少し眺めたあと、丁寧な手つきでページをめくり、

「ラテン語か?邪魔くさいのう」

 そう言って物置へ行くと、何やらぶ厚い本を持って戻ってきた。黒っぽい装丁に金文字が光る古い本で、父がそんな本を持っていただなんて、タカシはちっとも知らなかった。

 父は分厚い本と黄色い本を見比べながら、広告の裏に何かを書きはじめた。タカシは父が本を開いているところを初めて見た。

 しばらくして、母が夕食に呼びに来たが、父はそのまま作業を続けた。タカシは母と二人で夕食を食べた。夕食を済ませて風呂に入っても、父は本の前から動かなかった。

 寝巻に着替え、そろそろ寝ようかと思っているとき、「終わった」と父が分厚い本を閉じた。そして黄色い本をタカシに渡した。

 どんなことが書いてあったのか、タカシが訊ねると、

「せやなあ。簡単に言うたら……」

 父は眼を擦りながら、

「黄色い古い本を探しに行く男の子の話や」

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黄色の本を買う話 戯男 @tawareo

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