第15話 誤解
容子は膨れ上がる怒りで身を震わせた。理解した長吉は
天邪鬼は急に軽い足取りとなった。長い黒髪を弾ませる。容子との距離が縮まると赤い目でちらりと見た。
一言もなく、天邪鬼は通り過ぎた。
瞬間、容子は目を剥いた。
「お前も裏切ったのか!」
声を荒げて振り返ると天邪鬼がニヤニヤと笑いながら立っていた。
「誰かと思ったら、目付きの悪い妖狐ちゃんじゃないの。いきなり怒鳴ってどうかした?」
天邪鬼はわざとらしく目を丸くした。本心を抑え切れず、嘲るような表情となる。
容子は怒りで震えながらも喉から声を絞り出す。
「……我らの世界は、二百万の悪鬼共によって滅ぼされた。同胞も、散り散りとなって、存亡の危機にあると言うのに、玉藻と同じ臆病風に吹かれ……我らを裏切るつもりか!」
「話が全然、わからないわ。二百万ってなによ? それにマリモならいるけど、玉藻様は亡くなったんじゃないの?」
「……どういうこと、ですか」
相手の態度に容子は毒気を抜かれた。
「だから、お姉様のところにマリモはいるわよ! 鳥居タマモとか言うんだけど! それと裏切るもなにもないわ! 玉藻様は一対一の勝負に負けたの! 二百万ってどこから出た与太話なのよ!」
「……その話は、本当なのですか。あの玉藻様が、たった一人に負けたと? そのような相手が、この世にいるのですか?」
「いるわよ。アンタじゃないの? マリモに手を出そうとして、お姉様に怒られた保護者とか言うのは」
天邪鬼は燃える双眸で容子を睨み付ける。
「……アレ、ですか。確かに力はあると思いますが、あの程度で玉藻様の相手になるはずがありません」
容子は目を細めた。相手の虚勢と受け取ったのか。微かな笑みが浮かぶ。側で遣り取りを見ていた長吉は長々と息を吐いた。肩凝りを解すかのように小さく腕を回す。
知らないのね、と一言。天邪鬼は放心した。とろんとした目で言葉を紡ぐ。
「お姉様はとても凛々しく……底知れない力を持ち……とても舌使いが巧み……」
「舌使いってなんだ?」
長吉が口を挟むが、天邪鬼の耳には入っていないのか。陶酔の極みで言葉を続ける。
「
「あの化け物は大妖怪なのですか?」
「化け物じゃない! 玉藻なんかと一緒にするな! 天を貫く姿は神なの! 二百万の数なんて、話にならないわ。アタシはそのお姉様の、そうね、
天邪鬼は執拗に自身の下唇を舐め回す。やや内股となり、太腿をそれとなく擦り合わせた。目から理性の光が失われ、やや息遣いが荒くなった。
容子は嫌悪感を募らせた。隣にいた長吉はスーツの袖を引っ張る。
「どうしました?」
中腰になると長吉が耳に口を寄せてきた。
「九尾は例の化け物に捕まっているだけじゃねぇのか」
「……裏切りではなくて、偽りの言葉を言わされていると?」
「そこまでわからねぇよ。九尾と面識のある天邪鬼が事情を知らないのは妙だが。来る途中に聞いた九尾の行動は、あれだ。容ちゃんを逃がす為の芝居だったとは考えられねぇか?」
長吉の話に容子は、なるほど、と短く返した。姿勢を正し、瞼を閉じる。唇を微かに動かし、頭の中の考えを纏めているようだった。
「……思い当たる節はあります」
「良かったじゃないか」
「そうですね。長吉さん、丸薬はありますか」
「用心の為、二人分は持ってきた」
「わかりました。そうなりますと、玉藻様にはもう一度、会わないといけませんね」
二人の背後で砂利を強く踏み締めるような音がした。同時に目をやるとパンツスーツの時田翠子が一歩を踏み出した格好で前屈みになっている。上体を起こすと歪な笑みを見せた。
「懲りてないみたいね」
「玉藻様に会わせて貰えませんか」
「命を狙っておいて、よく言えるわね」
「玉藻様を飼い殺しにするつもりですか」
容子は引き下がらない。身体は震えていたが、決して視線は逸らさなかった。
「タマモちゃんの全身を見たわ。酷い傷を負っていた。あんたの非道な行いを私が知らないとでも?」
「少し待ってくれないか。話によると、アンタさんがしたんじゃないのかい?」
長吉が口を挟んだ。翠子は、はあ? と気の抜けた声を返す。
「私がタマモちゃんに会った時には、すでに傷だらけの状態だった。そこにいる自称保護者が虐待した事実は、酷い痣と同じで簡単に消えるものじゃない。そうよね?」
犬歯を覗かせた笑みで翠子は容子に問い掛ける。
「……そう、でしたか。全てがわかりました。今までタマモちゃんを預かっていただき、誠にありがとうございました。今後は我らでタマモちゃんをお守りして、また多くの同胞を呼び戻したあとにお礼に伺います」
容子は深々と一礼する。長吉は尻に目がいく。ちらちらと見ながら同じように頭を下げた。
「エロ河童、場所を
「だ、だってよ。尻を突き出されたら、本能的に触るもんだろ」
長吉は頭を下げたまま、容子の尻を片手で撫で回していた。
翠子は片方の眉を吊り上げた。冷めた目で二人を眺める。
「そんな話を私が信じるとでも」
「困りましたね」
容子は顔を上げた。軽く掌を合わせると長吉に目を向ける。
「提案があります。こちらの長吉と相撲を取っていただけないでしょうか。あり得ないとは思いますが、こちらが一勝を収めることが出来ましたら、タマモちゃんに会わせてください。もちろん、あなたの立ち合いの元で結構です。お時間は取らせません。数分で済みます」
「なんで相撲なのよ」
「素敵なお姉ちゃん、おいらと相撲を取ってよ!」
長吉は目を輝かせて言った。
「今頃、純真をアピールされてもねぇ。私に触りたいだけじゃないの? エロ河童らしいし」
「エロ河童じゃねぇ、ないです。おいらは相撲には至ってまじめで、本当にきれいなお姉ちゃんとしたいだけです」
「まあ、そこまで言うならいいけど。でも、どこでやるつもり?」
天邪鬼が興奮した顔で翠子に詰め寄る。
「アタシもお姉様と相撲をしたいです! 二人で抱き合って息を弾ませて、十分に堪能してから股の間にお互いの太腿を差し込んで」
「あんたのはなんか違うから断る。相撲はアパートの敷地を借りれば出来るかな」
翠子はワンルームマンションへと向かう。天邪鬼は拗ねたような顔で付いていく。
容子と長吉は目を合わせた。
「長吉さん、最初から全力でお願いします。あと丸薬を一つ、渡してください。玉藻様に飲ませれば、すぐに九尾の姿で復活するはずです」
「そうなのか? 九尾はそちらに任せた。相撲は俺に任せろ」
長吉は容子に丸薬を渡した。両腕を回しながら歩き出す。
先に着いていた翠子は二人が来ると敷地の隅を指差した。他と違ってコンクリートで舗装されていなかった。土が剥き出しになっていて相撲に適した平地でもあった。
「何年か前は桜の木があったそうだけど、立ち枯れして今は何もないわ」
「これなら相撲が取れるよ。今、用意するから」
長吉は慣れた様子で円を描く。中央に二本の仕切線を入れて一方で構えた。
「いつでもいいよ!」
「仕方ないわね」
翠子はパンプスを脱いだ。スーツのボタンを外して土俵に入る。
その背中を容子と天邪鬼が真剣な眼差しで見詰めていた。
「仕切線に両手を付いたら始まるからね」
「はいはい。ルールくらいは知っているから」
苦笑した翠子は仕切線に片手を付いた。表情から笑みが消えた。大きな二重の目は刃のように細くなる。間近で見た長吉は武者震いを起こす。呼吸を整え、挙げていた手を上下に動かした。
瞬間、二人は両手を付いた。
長吉は低い姿勢で飛び出した。乾いた音が辺りに響く。
土俵の二人は足を止めた。一方がぐらりと揺れる。地面に頭から突っ込むようにして長吉が倒れた。
翠子の後ろで見ていた容子は駆け出した。
「どうしたのですか!」
容子は見た。足元で長吉は眠るように倒れていた。背中に手を置いて揺すっても目を覚まさない。
側に突っ立っていた翠子に容子は噛み付く。
「どう言うことですか!」
「どうって。私が張り手で勝ったんだけど」
翠子は掌を前に向けてゆっくりと押し出す。
「これで気が済んだよね。私はタマモちゃんに夕飯を作らないといけないから」
「お姉様、お疲れ様でした!」
横手から飛び付いてきた天邪鬼の顔面を易々と掴む。翠子は引きずった状態で帰っていった。
「……相撲が得意な長吉でも、歯が立たないのですか」
二人を夕闇が包み込む。
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