30.霹靂




その日は、小屋に泊まってちゃんと風呂に入ってから寝たから、大丈夫だと思っていた。

風の鳥を送って両親に、小屋に一泊することもちゃんと伝えた。お嬢の誕生日だったから、夕飯は厨房で分けてもらえて楽できた。小屋に入ってすぐに身体を拭いて着替えたし、俺としては対策は万全だった。

翌日、泊まることを伝えていたから親父が、小屋に来て、俺の寝室を覗いた。

俺は親父が来たことに気付いていたけど、ベッドに寝たまま起き上がれずにいた。本当は、今日の作業場所で親父を待ち構えていようと思ってたのに。

なんだか、頭がぼんやりする。不思議と全然寒さを感じないと思っていたら、親父が俺の顔を覗き込んだ。


「おや……」


ガシッ!!


「熱いな」


いきなり視界が暗くなったかと思ったら、頭の上半分を親父に鷲掴まれた。寝坊したから、このままアイアンクロウでも食らうんだろうか。

頭を掴まれたまま持ち上げられるかと思ったが、親父は掛け布団ごと俺を持ち上げて、肩に担いだ。担ぐ前に掛け布団で巻かれたから、俺は簀巻き状態でただの荷物みたいだ。

俺を担いだ親父は、小屋の二階から階段で降りていく。とんとんという階段を降りる音と、規則的な揺れのせいか眠くなってくる。


仕事、邪魔しちまったなぁ……


そんな申し訳ないやら悔しいやらの感情ですら眠気の波に押し負け、俺は意識を手放した。



次に眼を覚ましたときには、家の俺の部屋だった。馴染んだベッドの感触に安堵を覚えながら、どれぐらい時間が経ったのかが判らなくて首を傾げる。


「起きた?」


「母、さん……」


視線を天井から横にずらすと母さんがいた。ぼうっとする頭で口を開くと、喋りづらかった。


「のど、かわ……いた」


身体の水分が蒸発したみたいな感覚だ。口の中も乾いているせいで喋りづらいと気付いた。汗をかいたはずなのにべたべたしない。母さんが寝ている間に拭いてくれたのか。


「水あるわよ。飲む?」


「……飲む」


だるい身体を起こしてベッドに座ると、母さんが水差しからコップに水を入れて渡してくれた。コップに口をつけると、ぬるい水で飲みやすかった。こういうのを白湯さゆって言うんだっけ。

喉の渇きがなくなるまで水を飲んだ。俺が飲み終わるのを待って、コップを受け取りながら母さんが訊く。


「ご飯あったら食べる?」


「食べる」


食欲があるか確認されたから、問題ないと伝えると支度をしてくると母さんは微笑んだ。そして、頭を撫でられる。


「できたら起こすから、まだ寝てなさい」


「うん」


俺は素直に従って、また布団を被った。結構寝たと思うが、横になると、またまぶたが落ちそうになる。


「ザク。あんた無茶したでしょう」


叱るというより可笑しそうな声が降る。俺は微睡みの中でその指摘を否定をする。


「して、ない」


やれることしかしていない。体術の稽古はやりたくてしてるし、ダンスの練習相手も俺が決めたことだ。それに、師匠もエラ先生も無理のないスケジュールでしてくれている。


「昨日、お嬢様の誕生日だったんでしょ。鳥の前にも魔法使ったんじゃないの?」


「それ、は……」


だって、場所がよかったからできるだけ大きい虹を見せてやりたかった。結構ギリギリまで魔力を使ったけど、風の鳥を飛ばせたから大丈夫だと思った。MP切れの状態って、免疫力が落ちるんだろうか。


「ひとつひとつは大したことなくてもね、全部をちょっと頑張ったら、無茶になるの。ザクはいつもちょっとだけ頑張る性質たちでしょ」


頭を撫でられたまま、そんなところも父親似だと笑われる。


「あんた、もう働いてるのに、休みの日までたまに何かしてるでしょ」


レオの視察の案内のことか、それともダニエル様のとこでのバイトのことか、はたまた頼まれることがある子守りか。

レオとはチビたちを交えて遊んでるだけだし、バイトもお菓子を食べさせてもらえたり庭を見せてもらっているから半ば遊びに行っているようなものだ。子守りも少しの間のことで苦でもない。

いくつか可能性を考えてみたが、どれも違うと思った。否と返そうと口を開く前に、頬を指で突かれ喋れなくなる。


「それ。今浮かんだのは、ちょっと張り切ってるの」


候補が浮かんだこと自体を母さんに指摘されて、俺は眉を寄せる。瞼が落ちないように堪えているせいもあった。

遊んでるだけでも無茶になるなんて、俺に体力がないように感じて悔しくなる。筋トレしてるのに。

剥れた俺と眼を合わせて、母さんは優しく微笑む。


「なーに焦ってるの」


「……だって」


俺の中にある焦燥を言い当てられる。熱に浮かされているせいか、どうしてバレたのか疑問が湧かなかった。


「きっと、後悔する……」


お嬢がお稽古をして、日に日に令嬢として立派になってゆくのを傍らで見ているだけの俺は、そんなお嬢のためにできることがほとんどない。なら、せめて目の前のことをちゃんとやって、少しでも胸を張れる自分でいることしかできない。

早く一人前の庭師になる約束も、期限に間に合うか判らない。やれることを全部しておかないと、俺よりしっかりしているお嬢のことだ、きっとすぐに置いていかれる。

しなかったことを後悔するのは、前世で飽きた。


「大丈夫」


母さんが優しい声音で言う。語気が強い訳でもないのに、確信に近い響きがあった。


「大丈夫だから、治るまで何も考えずに寝てなさい」


そっか。


声にならず呟く。母さんが言うなら大丈夫だろうと、安心して俺は眠りに落ちた。



そして、丸二日の間、食事以外のときはほとんど寝ていた。近所の医者にも診てもらったが、休めば治るとのことだった。池に落ちたのが原因だと言うと、医者のじいちゃんは何故この時期にそんなことになったのかと何とも言えない表情カオをしていた。

三日目の朝、元気になったと主張したが、額に手を当てられ、微熱があるから今日も念のため休むように、と母さんに言われた。母さんがそう判断したから、親父は一人でエルンスト邸へ出勤していった。

寝込んでいたときならともかく、頭もはっきりして身体もダルくないから俺は暇で仕方がなかった。充分に寝たから、ベッドで横になる気にもならず、部屋で一人なのをいいことにストレッチしてから筋トレをする。


「あ」


筋トレをしている最中、ふと思い出した。少し前に、バイトでアニカ様に会ったときに顔色を心配された。

俺を病弱なエリアスと思っているからだ、と思っていたが、普通に俺が疲れていないか、母さんみたいに心配してくれていたのかもしれない。

そうとは気付かず、元気だから大丈夫だと突っぱねてしまった。


「悪いことしたな……」


今度会ったときに謝らないと、と思う。心配してくれたお礼も何か持っていこう。

師匠に決められたセットを終えた俺は、することがなくなったから下の階に降りて、母さんに声をかけた。


「母さん、何か手伝うことない?」


「ザク。やっぱりじっとしてなかったわね」


振り返り、呆れた声で母さんが言う。


「寝てばっかりは飽きた。身体がなまりそうだから何かしたい」


「仕方ないわねぇ」


俺が大人しくしていないと解っていたのだろう、母さんは食材のおつかいを頼んでくれた。

防寒着をちゃんと着て家を出ると、晴れていていい天気だった。太陽光を浴びながら一度伸びをして、歩き出す。二日も家に籠っていたから、冷たくても外の空気が気持ちよかった。

市場通りに入ると相変わらずの人の多さだった。まだ昼前だから歩きやすいが、昼になると人気の食堂に行列ができ、時間限定でサンドイッチとかの出店も出るから、人の流れに逆らって歩くのが困難になる。

確か、パン屋と精肉店と協同でサンドイッチ売ってるって、八百屋のおばさんが言っていたな。昼飯時限定でサンドイッチの出店を出しているのは、宣伝も兼ねているらしい。商魂たくましい限りだ。

おつかいのリストの中には、その八百屋にも用があるから早めに行って買おう。回る店の順番を決めて、進行方向を変える。


「ザク……っ」


聞き覚えのある声がして、俺は足を止めて、振り返る。

だが、振り返っても声の主らしき姿はなく、往来を行き交う人の波があるだけだ。


「…………お嬢……?」


こんな場所にいる訳がない。けど、俺がお嬢の声を聞き間違えるとも思えない。

声がしたのに、姿が見えない事実にぞわりと冷えた感覚が走った。

声がした方向を中心に、周囲を見渡す。すると、一瞬だが路地に入る辺りの空にいなずまが走った。

俺はすぐさま電が見えた辺りの路地に向かう。青天の霹靂なんて、冗談じゃない。お嬢はどんなに魔力が強くても人を攻撃なんてしたことがないのに、このタイミングで雷属性の魔法を感知するなんて最悪だ。

正確な位置は、雷属性の精霊が吸い寄せられる方向をたどって探った。


「お嬢!!」


裏路地の人気のない場所に、男五人に挟まれたお嬢とカトリンさんを見つける。

カトリンさんは前方の男三人からお嬢を守るように、震えながらも両手を広げて盾になっている。そのカトリンさんを更に守るように半円形の雷の膜が張っていた。カトリンさんの後ろに隠れながらも、お嬢が張ったのだろう。

男たちを怯えながらも睨みつけるカトリンさんもそうだが、お嬢は薄い青の瞳を潤ませながらも、涙一つ零さず気丈に相手を見据えている。

その、涙で滲みそうになる青を見た瞬間、俺の頭の中が真っ赤に染まった。


「ザ……」


「気を緩めるな! そのまま雷張ってろ!!」


俺を見つけたお嬢が、安堵で気を緩めそうになるのを叱咤する。現状打破できていない状態で、雷を解いては不味い。雷の膜のお陰で、男たちがお嬢たちから一定の距離を取っている。

怒鳴った俺に、びくりと怯えながらもお嬢は気を張り直して、雷の膜を維持した。

俺の前に三人、お嬢たちの向こうに二人。奥の一人は余裕を持った表情で、人を見下すのに慣れている眼をしているから、親玉か少なくともこのメンバーのリーダー格だろう。

かつあげでも人さらいでも、害意があるのは確かだ。全員体格もよく、人気のない場所に連れ込んでいるから身代金または人身売買目的の誘拐の可能性が高い。

まだ俺が子供だと油断している今でないと、逃げるのは難しい。


「なんだぁ、このガ……ッ!?」


道すがら拾っておいた手頃な大きさの石を、まず前の三人の眉間を狙って投擲とうてきする。子供の俺はリーチで不利だから、師匠が手近なものを武器にできるように教えてくれた。

顔を手で押さえてよろつく男たちの間を抜けて、お嬢たちの方へ駆け寄る。


「カトリンさん、お嬢、伏せて!」


カトリンさんはすぐにお嬢を庇うように、抱え込みながらしゃがんだ。

俺は駆けた勢いのまま、奥の二人の眉間にも石を投げる。


「ぐぁっ!!」


「う゛っ!?」


ちょうどお嬢の雷の膜を通過したから、石が雷を纏ってスタンガンの効果を得たらしい。衝撃を受けたような声をあげて、男二人が倒れた。


「……イザークさん」


「カトリンさん、お嬢を抱えて走れますか?」


カタカタと震えるカトリンさんに、酷なことを言っていると判っていたが、俺は膝を突き、目線を合わせて頼んだ。

カトリンさんは震える手を握り、一つ深呼吸をして震えを抑え込んだ。


「はい……っ」


強く頷いて、カトリンさんは失礼します、とお嬢を抱き上げた。お嬢もぎゅっとカトリンさんに掴まる。


「お嬢、まだソレ解くなよ」


先に念を押してから、カトリンさんに手を差し出す。当然、間にある雷の膜を通ると痺れるよりも強い刺すような痛みが走った。


「ザク、手が……っ!?」


「……っいいから! カトリンさん、ちょっと感覚ないんで俺の手掴んでもらえますか」


お嬢が悲鳴をあげるように反応したが、魔法を解かないように釘を刺して、カトリンさんに手を取るように頼む。感覚がないから俺が掴んだら、力加減を間違うかもしれない。まぁ、痺れた感覚があるから力が入るか怪しいが、お互い手袋を嵌めているから感電の心配はないだろう。


「人がいる場所まで案内するんで、それまで離さないでください」


「はいっ」


カトリンさんが俺の手を掴んだのを視認して、三人で来た道を戻る。お嬢の雷の膜のお陰で、通り過ぎたときに男たちが感電して動きが鈍くなった。

他に仲間がいるか判らないから、男たちの追手がないとはいえ安心できない。カトリンさんがつまずかないよう注意した速度で走る。お嬢を抱えているから速度はあまり上がらないが急がないよりはマシだろう。

元の市場通りに出た瞬間、俺は叫ぶ。


「人拐いだ、誰か兵士呼んでくれ!!」


人々の半数ほどが俺の声に反応して、こちらを見る。お嬢は俺が叫んだのにびっくりして雷の膜を解いていた。

それからは早かった。店の人も何人か出てきて、誰かが兵士を呼びに行き、男手数名が縄を手に俺が説明した路地の奥へ捕縛に向かった。通りがかりのおばさんが、カトリンさんやお嬢を心配して兵士が到着するまで付いていてくれた。

逃げるまでは焦りで時間がかかったように感じたが、きっと十数分の出来事だったんだろう。俺は安堵で気が抜けて、兵士が来るまでその場に座り込んでいた。

兵士が到着すると、お嬢とカトリンさんは保護するため一番近い兵士の詰所に案内された。俺も事情聴取で一緒につれて行かれた。

事情聴取で腕の負傷を心配した兵士のおじさんが、衛生兵にせてくれた。手首近くの火傷は結構な水脹みずぶくれになるから潰さないように注意された。どうしよう、見ると潰したくてうずうずしそうだ。頑張って、我慢しよう。手の痺れはしばらくすれば治まるらしい。念のため、後日もう一度診察を受けにくるように言われた。

事情聴取のとき、ただの通りすがりにしようか迷ったが、母さんにも連絡したかったので正直に身元を明かした。兵士のおじさんは、子供が無茶するな、と俺を叱ってから、母さんに報せてくれると約束してくれた。

お嬢たちは迎えが来るまで詰所で待つことになり、仕える家の使用人の俺も心配だろうと兵士のおじさんが会わせてくれた。

こじんまりとしているが応接室らしい部屋で、お嬢たちは温かい飲み物を飲んでいた。漂う甘い匂いからしてココアだろう。


「ザク……っ」


俺が部屋に入ると、お嬢が瞠目してココアのコップを音を立てて置き、こちらに駆け寄ってきた。


「大丈夫ですの!? 手は……っ」


「平気。ちょっと痺れただけだって」


袖で包帯が見えないのをいいことに、俺はへらりと笑って、手を振って見せる。防御の魔法に自分から手を突っ込んだから、ただの自業自得だ。だから、お嬢には気にしないでほしい。

お嬢は真意を探るように俺の手と眼を交互に見た。そして、若干腑に落ちないようだったが、俺の無事に安堵する。

カトリンさんの方を見ると、泣き張らしたのか目元が赤かった。


「カトリンさん、よく頑張りましたね。カッコよかったです」


「……っいえ、そんな」


女の子に無茶な頼みをしたのに、カトリンさんはお嬢のために頑張ってくれた。彼女は、臆病なように見えて強い。あの場面で、竦まれていたら逃げられなかった。

カトリンさんは、少し眼を潤ませて謙遜する。その表情は申し訳なさも滲んでいた。

彼女の申し訳なさの原因は、俺が予想している通りだろう。お嬢に視線を戻して、真面目に訊いた。


「で、お嬢はなんであんなトコにいたんだ?」


お嬢は俺を見て、びくりと肩を震わせた。


「…………わ、わたくし、ザクのお見舞いに行こう、と……」


「誰にも言わず、護衛も付けずに?」


「……っだって、ロイ様も下町に来たことがあるんでしょう!?」


お嬢は異を唱えるが、俺は静かに返す。


「レオは黙ってじゃないし、護衛も付けてる。アイツ自身も護身がある程度できるから来てるんだ」


ぐっと黙り込むお嬢の後ろで、カトリンさんが弁護しようとしたが、視線で黙っていてもらうように頼んだ。

堪えるように黙って俯くお嬢と眼を合わせるために、膝を突く。拳を作っている両手をそっと包んだ。


「お嬢」


呼ぶと、恐る恐るだが眼を合わせてくれた。薄い青の瞳を見返して、伝える。


「お嬢は、自分が綺麗で可愛い自覚を持ってくれ」


「……っな!?」


「聞いて」


茶化されたと誤解して、頬を朱に染めるお嬢に、真面目な話だと眼で伝える。


「お嬢を知ってる俺やカトリンさんは、中身も含めてお嬢が綺麗で可愛いって解ってる。けど、知らない人から見てもお嬢は綺麗で可愛いんだ」


意図が解らないお嬢は、怪訝になる。


「綺麗で可愛いモノを、価値のあるモノだと思う奴らには、お嬢は宝石とかと同じただのモノだ。今日の奴らの眼、こわかっただろ?」


相手を同じ人間として見ない眼を思い出したのか、お嬢は一度震え、小さく頷いた。


「お嬢を知らない奴の中には、お嬢が同じ人間と解らない奴がいるんだ。だから、自分を大事にしてくれ」


「……もう、軽率な真似はしませんわ」


「うん。ありがとう」


きゅっと一度下唇を噛んでから、お嬢は決意したように言った。その答えを聞けて、俺は安心して笑った。

ちょうどいいから、ついでにバラしておこう。


「あのな、お嬢。俺、ずっと前から下町にお嬢を誘いたかったんだ」


「え……」


「でも、安全を保証できないだろ。とりあえず、俺が強くなればどうにかなるかと思って、し……ハインツさんに鍛えてもらってたんだ」


安直バカだろう、と笑うと、寝耳に水だったお嬢はびっくりして固まった。


「けど、それじゃ足りなかった。お嬢にちゃんと話して一緒に考えればよかった……、恐い想いさせてごめんな」


先に俺の考えを話しておけば、お嬢はこんな無茶をしなかっただろう。物騒な話をわざわざお嬢の耳に入れるのを避けていたツケがこれだ。情けなさすぎて、うまく笑えていない気がする。

お嬢は、ぶんぶんと首を横に振って否定する。きっと自分のせいだと責めている。

手の痺れが弱まったのに気付いて、俺は包んでいたお嬢の両手を痛くない程度に強く掴む。じわりと体温が伝わる。


「鍛えていたけど、ほんとは……、そんなことなければいいと思ってた」


鍛えていたのは部活みたいな感覚で、実際に役に立たなくてよかった。得た能力を活かしたいなんて欠片も思わなかった。役立つ場面なんて一生なくてよかったんだ。

お嬢にどんな表情カオをすればいいか、判らなくなって、お嬢の肩口に額を付けて顔を見られないようにする。


「恐かった」


お嬢がいなくなるかと思った。それが、とても恐かった。

お嬢を見つけたとき、男たちに対する殺意に近い怒りで頭が真っ赤になったが、それは恐怖を払拭するためだ。

今、この手の中にある温もりを失うかもしれなかったんだ。

もうこんな恐い想いはしたくない。


「……っごめんなさい。ごめんなさい、ザク」


額越しに振動が伝わる。震える声に、俺が顔をあげると泣きじゃくるお嬢の表情カオがあった。


「もう二度とザクを泣かせたりしませんわ……っ」


涙でぼろぼろの表情カオで、しゃくりあげながらえらく男前なことを言う。


「泣いてるのは、お嬢じゃん」


なんだか笑ってしまう。

今まで堪えていた分があったにしても、泣かせてしまったのが申し訳なくて、お嬢の頭を撫でた。


「お嬢も、恐かったよな」


「こわ、かったですわ……」


落ち着かせたかったが、逆効果だったらしく、更に涙を眼に溜めて、お嬢はそれを決壊させた。そして、俺の胸に額を押し付け、わんわんと泣き出す。

俺がいるのを確かめるように、ぎゅっと服を掴んでくるから、大丈夫だと伝えたくて背中をぽんぽんと叩いて宥めた。

お嬢が落ち着くまで、と付き合っていたらお嬢は泣き疲れて眠ってしまった。服を掴んで離さないから、抱えて元々お嬢が座っていたソファに一緒に座る。カトリンさんが、ハンカチを濡らしてお嬢の目元を冷やした。

どうしたものかと弱っていたところで、ドアが開いて案内の兵士の後に見知った人が現れる。


「遅くなって、すまなかったね」


「公爵様」


公爵様が師匠こと執事のハインツさんを連れて、お嬢の迎えにきた。カトリンさんは、すぐさま立ち上がりソファの脇に控えて頭を下げる。けど、お嬢にしがみつかれている俺は動けなくてどうしたらいいのか判らない。

流れるような歩みで近付いてきた公爵様は、片膝を突き、眠るお嬢の顔の輪郭を掌でなぞった。


「可哀想に……、余程恐かったんだね」


労るように、泣き腫れたお嬢の目元に公爵様は唇を寄せる。

公爵様の言葉に、ずしりと罪悪感が胸にのしかかった。ぐっと唇を噛んで、口を引き結ぶ。


「イザークも無事でよかった。よく逃げたね」


「え……」


叱られると腹を括っていた俺は、頭を撫でられぽかんとしてしまう。

俺の反応を不思議そうに、公爵様は微笑む。


「カトリンもイザークも、我が家の大事な使用人だ。無事を喜ばない訳がないだろう?」


俺の心配をされるなんて思ってもみなかったから、びっくりした。公爵様はただ優しく微笑んでいるだけなのに、ひどく頼もしく見えた。同時に、ああ自分は子供なんだと思い知って恥ずかしくなる。


「あ……ありがとうございます。心配かけて、すみませんでした」


頬が熱くなりながらもどうにか礼を言った。熱の理由には嬉しさもあった。エルンスト家に仕えれてよかった、と胸が熱くなった。

俺の返事に満足そうに微笑むと、公爵様はどうやって手をほどいたのか、あっさり俺からお嬢を離し横抱きにして立ち上がった。


「さて、今はディアを最優先にしたいから帰るよ」


俺は立ち上がって、ぴしっと直立する。


「はいっ、よろしくお願いします!」


直角に身体を折ると、公爵様の可笑しそうな笑い声が降った。


「じゃあ、イザークも気を付けて帰るんだよ」


「あの、公爵様……っ」


俺が焦って呼び止めると、公爵様は優雅な動きで振り返った。


「なんだい?」


「お忙しいとは思うんですが、今度お時間をいただけないでしょうか? お話したいことがあります」


「わかった。では、また後日」


了承してもらえた安堵で、公爵様たちが去ったあと、俺はそっと息をいた。



公爵様は意外に早く都合をつけてくれ、翌日出勤した夕方には呼び出された。

師匠に案内され、公爵様の書斎に通される。雰囲気が学校の校長室みたいで緊張する。校長室なんて凄いことした奴か、余程ヤバいことした奴しか呼ばれない印象だからなぁ。前世はどちらでもなかったから入ったことはないけど。

挨拶をして入ると、公爵様が緊張しなくていいと笑った。キラキラした公爵様を見て、こんな若い校長いないよなと思ったら、なんだが少し気が抜けた。室内でも公爵様の金髪は眩しかった。


「それで、話とはなんだい?」


書斎机の向こうで、公爵様がにこやかに問う。


「その前に、昨日の件はすみませんでした!」


深く頭を下げて俺は謝る。


「そもそも俺が、働かせてもらっているのに体調管理怠ったのが原因みたいなものだし、ちゃんと下町が危ないこともあるって事前に話していなかったから……っ」


申し訳なくて頭を下げたまま言い募っていたら、ぶはっと吹き出す音が聞こえた。

なんだ、と顔をあげると喉を鳴らして可笑しげに笑う公爵様がいた。意味が解らなくて俺は首を傾げる。


「あの……?」


「いや、すまない。良い子だなぁ、と思って」


笑いを堪えながら言われても、褒められている気がしない。


「イザークと共にいるのを是としたのは、私だ。むしろ、謝るのは私の方だ。危機管理はが教えるべきだからね。ヴィアには私の悪いところが似たと怒られたよ」


そう公爵様は苦笑する。そんな風に言われてしまえば、これ以上謝罪を重ねる訳にはいかない。

この件はここまで、と言うように公爵様は話を切り出した。


「さて、話というのは何かな?」


「お嬢……リュディア様に護衛を付けてください」


多忙な公爵様に時間を割いてもらっているから、俺は端的に要望を伝える。

公爵様は、お嬢と同じ薄い青の瞳を丸くした。


「どうしてだい?」


「し……ハインツさんに、護衛を付ける予定だと聞きました。もう、昨日みたいなことがあったら嫌なんで、その時期をなるべく早めてほしいんです」


「嫌?」


「はい、嫌です」


俺は難しく考えられない。だから、単純に嫌なことを避けたいから、一人で無理だったことは一人でしなければいいと思った。それだけだ。


「そうか……、嫌か」


俺が言った言葉を繰り返して、公爵様はまた可笑しそうに笑った。俺が馬鹿をするとお嬢は怒るけど、公爵様には可笑しいものなんだろうか。俺、割と真面目に話したつもりなんだけど。

一頻ひとしきり笑ったあと、公爵様は口を開いた。


「いいだろう。検討しよう。といっても、私も時期を早めないと、とは思ってたからね」


「ありがとうございますっ!」


公爵様の答えに、俺は表情を輝かせる。


「……自分が守る、とは言わないんだね」


「へ? お嬢が笑っていられる方が大事です」


質問というより呟きに近かったが、何を言っているんだ、と思わず返してしまった。

きょとんとした俺に、公爵様は眼を丸くして、また笑った。そして、良い子だね、と同じ評価を俺に下したのだった。



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