薔薇の茶会

吾妻栄子

薔薇の茶会

「皆さん、楽になさって」


 馥郁としたローズティーの香りが漂う中、シンプルだが一見して質の良いベージュのワンピースに輝く栗色の髪を垂らしたノンカは私たちに穏やかに微笑んだ。


「今日はお茶を飲みながらざっくばらんにお話しましょう」


 いよいよ大変な所に来た。


 私は腰掛けた深紅のビロード張りのソファの上で縮こまる。


 そうすると、新調したばかりのスーツのジャケットの背中がいっそうきつく感じた。


 足元に目を落とすと、フカフカした緋色の絨緞に載った自分の黒いエナメルの靴がいかにも安っぽく粗雑に映った。


 母さんがわざわざ買い揃えてくれたスーツも靴も高級ブランドではないが、一般には決して安物ではない。


 しかし、この「薔薇の宮殿」で若き女王と首相と隣国の亡命王女と同じテーブルを囲む状況においてはいかにも貧賎の身なりに思えた。


 実際、特待生として女王と同じ大学に入学したというだけで、私はこの国の平均よりやや貧しい母子家庭の庶民に過ぎない。


「こんなに若く美しい方々と過ごせるのは光栄です」


 ホッジャ首相はテレビで見掛ける通りのブルドックじみた弛んだ頬に笑いを浮かべどこか舌足らずな口調で続ける。


「普段の仕事で顔を合わせるのは自分と同じように年取った男ばかりですから」


「他人の容姿や年齢をあれこれ言うのは失礼ですよ」


 低いが澄んだ声で制したのはナディアだ。こちらは漆黒の髪を切り揃えてエメラルド色の軍服を纏った、一見すると華奢な美青年じみた麗人だ。


 幼くして隣国のワラキアからクーデターを逃れて亡命した王女である彼女はノンカや私より一つ上で大学では先輩に当たる。


「それはそうでしたね」


 首相は垂れ下がった頬に浮かべた笑いを苦くしつつ、飽くまで穏やかな声で頷いた。


 これが独裁者と評される指導者なのだとは信じがたいような温和な物腰の老人だ。


 もっとも、名だたる独裁者に実際に会った人の記録などを見ると「とても穏やかな優しい人だった」というものが少なくないし、今、私の目の前にいる彼もそうした例に漏れないのかもしれないが。


「この国の男性たちは、女性に対して敬意が無さ過ぎる」


 ナディアは中性的な低い声で述べると、首を静かに横に振る。


 そんな風に動作が加わると、断髪の軍服姿であるにも関わらず、むしろ、それ故に、鴉の羽じみた艶のある黒髪や華奢な肩から不思議と女らしさが浮かび上がった。


「女と見ればすぐ、美人だ、ブスだ、若い、もうばあさんだと大騒ぎ」


 辛辣に語るこの「男装の亡命王女」にはトランス男性とかレズビアンとかはたまた両性愛者バイセクシャルとか様々な風評がある。


 だが、実際に間近に眺めると、高貴な身分からも若く美しい女性の体からも自由になろうとして、却って両方に縛り付けられている痛々しさをいつも覚えるのだ。


「これは厳しいお言葉ですね」


 首相は弛んだ頬をいっそう崩して笑いながら薔薇の紋章の入ったカップを口に運ぶ。


「しかしながら、この度の陛下のご即位は我がトラキアの女性躍進の象徴ではありませんか」


 ノンカとナディアの、異なっていながら同等に端麗な二つの面に強張りが走った。


 その様を目にする私の背も寒々しくなる。


「そこの方も、母一人娘一人の家庭から苦労されて首席で大学合格されたということで」


 独裁者のにこやかな顔がこちらに向けられた。


「あ……」


 自分に話題が移ったらしい。


「先にもお伝えしたかと思われますが、マリア・ペトロフさんは私たちの大切な友人です」


 薔薇の柔らかに香る中、静かだが、厳しい声が響いた。


「だからこそ、今日もわざわざこちらに来ていただいたのです」


 若き女王の厳かに澄んだ声を耳にすると、普段キャンパスで顔を合わせているノンカではないように感じられるし、私ではなくもっと高貴な人について語られているように思える。


「マリアさんですか」


 首相はにこやかに微笑んだ顔を改めてこちらに向けた。


 独裁者の中でも私は「どこかの女子学生、無名の一庶民」から「女王陛下のご学友のマリアさん」という名前の付いた存在に昇格したようだ。


「お目にかかれて嬉しいです」


 さっきまで名前も覚えてなかったのに?


「私も総理にお目にかかれたのが信じられません」


 どうしてこんな陰鬱な、卑屈な声しか出ないんだろう。


 舌打ちしたくなるのをぐっとこらえる。


「母子家庭というハンディキャップを乗り越えて男子より優秀な結果を出す。権利ばかり主張する女性が多い昨今において、あなたは我が国の若い女性の模範となる存在です」


 首相はテレビのニュースでお馴染みの、曖昧な笑顔と舌足らずな口調で語る。


 隣のナディアが華奢な軍服の肩をひょいと竦めるのが目に入った。


「私は確かに努力しましたが、一番の功労者は母です」


 怒りを抑えて話そうとすると声がこんなに濁るのだ。


「父の暴力から私を連れて逃げた母は養育費も受け取れず、母子共に貧しい暮らしを強いられました」


 私の言葉に独裁者は穏やかな笑顔で頷いている。


「世間では当然のように見られますが、本来はあってはならないことです」


 自分で聞いてすらゾッとするような恨みを含んだ声になった。


「子持ちで離婚した女は貧しく苦労する身の上になって当然、母子家庭はハンディキャップだなんていう社会はいけません」


 こちらを眺めるブルドッグの顔が鷹揚な微笑を作ったまま目だけが薄い氷の膜を張った風に虚ろになる。


「おっしゃる通り、女性が生きづらい社会は改善されるべきです」


 それは自分の取り組むべき仕事ではないという他人事の語調だ。


 この人には私のように今まで悪政への訴えをした民草をこんな風にあしらったことがそれこそ山ほどあるのだろう。


 どっと疲れが襲ってきて手元のティーカップを口元に運ぶ。


 甘い薔薇の匂いを放つお茶は程好く温かいが、香りから予想したよりもう少し苦い。


 ホッジャ首相は気を取り直した風に咳払いすると、白けた顔つきでクッキーを齧り始めたナディアに語り始めた。


「太后陛下やマリアさんのお母様のように艱難かんなんに耐え忍ぶのが我がトラキアの女性の伝統的な美徳でありまして」


 この人、何にも分かってない。いや、端から分かろうとする気がないのだ。


 傍で眺めている私の中にもサーッと暗い穴が口を開く。


 この独裁者は最初から自分の中で決めてある結論を通すことしか選択肢がないのだ。


 民草から寄せられるどんな苦言も現実もその結論に沿う形でしか彼には採用されない。


「そういうおためごかしでこの国の女性たちもずっと口を塞がれてきたんですよ」


 豪奢な王宮の壁を背景に浮かび上がる亡命の王女の横顔は寂しい。


「母も声を上げて変えていくことは大事だといつも申しております」


 ノンカは栗色の瞳で私たち全員を見渡すようにして語った。


 そんな風にすると、普段は父親である亡き先王に似た女王の面輪が母親の太后そっくりになる。


「首相もご存知でしょうが、外交官の母が皇太子妃になった時、好意的に見る人ばかりではありませんでした」


 並み居るお妃候補の中から皇太子が選んだのは、幼少期から諸国を歴訪し、外国の大学を首席で卒業し、数ヶ国語を操る才色兼備の外交官。


 それは三十年ほど前のこの国では羨望よりもむしろ反発を強く引き起こした。


――リザヴェータ様が皇太子妃になった時、私は高校生だったけど、こんなに綺麗でしかも賢い方が選ばれるんだと嬉しかったよ。


 今は太后になったその人について母さんは好意的にしか語らない。


――あの頃でも、女はあまり賢くない方がいい、美人ならそれだけで玉の輿に乗れる、勉強して良い大学に行くような女はブスだなんて言う人が少なくなかったからね。


 母さんは高校でも成績優秀だったが、家が裕福でなかったせいもあり、大学進学を諦めて就職した。


――でも、女が綺麗で頭も良いとなると、どちらかが悪い場合よりも却って難癖を付けて貶す人が出るもんなんだ。


 今は一回り上の太后様より老け込んだ母さんはその当時の話になると声を落とす。


“リザヴェータ妃は一外交官としては優秀でも才気走った女性なので伝統あるトラキア王室の后妃には不適格”


“同じ平民出身で弟王子に嫁いだルイーザ妃と比べて言動や立ち居振る舞いに慎みが足りない”


“人前で喋り過ぎる、后妃は夫を立てて控えめにするものだ”


“姑であるエレオノーラ皇后からの覚えもめでたくない”


 三十年ほど前の王室関係の記事を見ると、華やかに微笑んだ皇太子妃の写真と共に些細な言動をあげつらって貶し、他の后妃と比べて資質が劣り嫌われているかのように書き立てるものが目立つ。


 加えて、高貴な立場の女性が互いに嫉妬や敵意を向け合う物語を好む空気は世間によく見られるが、リザヴェータ妃と他の后妃たちも内実はさておきそうした対立をむしろ期待して煽るような目線に最初から晒されていたと分かる(女性同士が陰湿な争いを繰り広げる話はこの国では娯楽なのだ)。


「母が心身を病んで人前に出られなくなった時も、鞭打つような言葉を投げ付ける動きが一部にはありました」


 しっとりと落ち着いた代わりにどこか冷めた薔薇の匂いが漂う中、若き女王は抑えた声で語った。


「母が立ち直ったのはもちろん父の支えもありますが」


 若き女王は自分の父親よりも年長の首相に臆せず語る。


「ブリタニア留学時代の学友だった方々のおかげでもあります」


“リザヴェータ妃の反乱――ご公務休務の蔭に三人の魔女”


 皇太子妃と同じ大国ブリタニアの名門大学を卒業し、それぞれ医師、外交官、弁護士になった三人の学友の女性たち。


 宮殿に出入りして心身を病んだリザヴェータ妃の相談に乗っていた彼女らもまるで史書に出てくる悪辣な寵臣か謀反人のようにメディアに晒された。


 この国では女性同士の対立は娯楽として消費される一方で、女性同士の本当に助け合おうとする結託は罪悪視されるのだ。


「確かに、ブリタニアは非常に女権の強い国家ではありますね」


 ホッジャ首相は弛んだ両の頬に追従じみた笑いを浮かべると、緋色の薔薇の紋章が入ったカップをまた口に運ぶ。


 ブリタニア帝国。今や世界に更なる覇権を拡大しつつある大国だ。


――帝国万歳! 女帝陛下万歳!


 半月前にテレビで目にしたアメリカ再併合の記念式典の光景が蘇る。


――長らく分断にあったアメリカの本土回帰を心より歓迎します。


 銀髪に海色の瞳をした、どこかおとぎ話の「雪の女王」を思わせる姿をした女帝は、そこだけは不思議と老いを感じさせない絹じみた柔らかな声で語った。


――私たちは永らく捩れた関係にありました。


 半世紀前までは植民地が次々独立し、“陽の沈む帝国”“栄えある孤島”と揶揄されたブリタニア。


 弱冠二十歳で即位したヴィクトリア二世は逆境の中から祖国をその名に相応しい“勝利ヴィクトリーの帝国”に返り咲かせた。


――しかし、家族は対立することはあっても互いを思う気持ちがあればこうしてまた歩み寄ることが出来るのです。


 アメリカ合衆国大統領からブリタニア帝国領アメリカ総督に肩書きを変えたナオミ・ジャクソンはミルクチョコレートじみた薄褐色の面にどこか凍った表情を浮かべて女帝のスピーチを聴いていた。


 黒人と白人の血が相半ばする彼女が統治する領内では再独立を求める蜂起が早くも頻発しているのだ。


 彼女本人の中でも「再併合」という名の祖国の「再植民地化」が喜ぶべき話であるわけがない。


――私たちは共に歩んでいく家族です。


 ヴィクトリア二世のスピーチが終わった後に流れたブリタニア国歌の演奏。


 誇らしげに口を開けて歌うのはブリタニア側の人間ばかりで、アメリカ側はまるで葬列のように固く口を閉ざした面持ちが目についた。


「カリスマのもとにかつての覇権を取り戻す。我が国も是非とも見習いたいところではあります」


 馥郁とした薔薇の香りが漂う中、首相は弛んだ頬を幾ばくか紅潮させて言い切った。


 私は思わず我が国の女王と隣国の王女を見やる。


 一方は打ち沈んだ、他方は醒め切った眼差しをしていた。


「ブリタニアの女帝陛下は確かに傑出した方です」


 ノンカは皺も弛みも無い滑らかな小さな面の中で、そこだけが異様に老いてしまった風に沈んだ栗色の瞳で続ける。


「ですが、我がトラキアにおいては他国に侵出するような歴史は二度と繰り返されるべきではありません」


 ナディアも冷えて固まったエメラルドの目で言い添えた。


「祖国を奪われる悲しみは奪われた者にしか分からない」


「敗戦後も国の象徴として王位に留まった曾祖父について近隣諸国のみならず国内でも厳しく非難する声があったこと、その責務は子孫である自分が負う立場であることも私は知っています」


 トラキア王国現女王ノンカの曾祖父、ボリス三世。


 今から七十年余り前にこの国はゲルマニア、ヴァティカニアといった西側の軍事独裁国家と同盟して近隣諸国に侵攻し、世界大戦を引き起こした。


 国王ボリス三世はトラキア陸海空軍の大元帥でもあった。


「ボリス三世は偉大な君主でした」


 ホッジャ首相は晴れやかな笑顔で頷いた。


 まるで今まで私たちが現女王の曾祖父を称える話をしていたかのように。


「戦前のトラキアの誇り高い社会を見直す動きも強くあります」


 私たちは茫然と独裁者を見詰めた。


 薔薇の匂いが応接間全体に重く堆積していく。


「戦前に戻すなんてとんでもない」


 吹き散らすように鋭く言い放ったのはナディアだ。


「ワラキア、モルドヴァ、ハンガリア」


 振り絞るようなナディアの声を耳にするノンカの面に痛みが走った。


 その様を間近に目にするこちらも痛ましくなる。


「悪の枢軸国に加わったトラキアの侵略にどれほど踏みにじられ、苦しめられたか。今もその傷痕に悩まされているか」


 身動ぎする代わりに私は拳を握り締めた。


 この緋色のビロード張りのソファは庶民の身には柔らかな血の底なし沼にゆっくり体が吸い込まれていくように感じるのだ。


「『薔薇の騎士』と言われたトラキア兵たちが占領地で何をしたか」


 ワラキアでもモルドヴァでもハンガリアでもトラキア兵による現地民の虐殺、収奪が起きた。


 トラキア兵に強姦されたり騙されて慰安婦にされたりした女性も各地で出た。


 今のこの国ではそうした加害の歴史は矮小化され、ともすると偽りの申し立てのようにすら扱われる。


 が、当時の資料を少しでも紐解けば、私のような終戦後半世紀以上を経て生まれた人間にも何故この国が近隣から非難され続けてきたか良く分かる。


 私は知らず知らず自分の皿の上に盛られたクッキーに目を移した。


 薔薇、向日葵ひまわり、チューリップ……。


 これは周辺諸国の国花だと今更ながら気付く。


 ほのかに甘い匂いを放つクッキーは一つ一つは綺麗で完全な形に焼き上がっているのに、並ぶといかにも不揃いでバラバラな欠片を寄せ集めたように見えた。


「トランシルヴァニアでは今でも占領地時代のトラキア兵を吸血鬼と呼んでいるんです」


 流浪の王女はまるで自らが責められる立場であるかのように華奢な軍服の肩を落とす。


「曾祖父も『トランシルヴァニア城で傀儡として暮らしていた頃が一番辛かった』と繰り返し語っていたそうです」


 男装のナディアの曾祖父、ヴラド二世。幼くしてワラキア国王に即位した彼は、しかし、政変で退位、隠棲を余儀なくされていた。


 ワラキア侵出を狙っていたトラキア軍部はこの若き廃王に王政復古を持ちかけ、王家発祥の地であるトランシルヴァニアに廃王一家を連れ出した。


「自分はあまりにも軽率で愚かだったのだと」


 こうして新たに成立したトランシルヴァニア王国の国王として即位したヴラド二世(トランシルヴァニア王国の国王としては『ヴラド一世』)だが、彼にも付き従ってきたワラキア人の臣下たちにも実権などはもちろんなくトラキア軍部の傀儡に過ぎなかった。


「ずっと、トラキア人に用済みとして殺されるのを怯える日々だったと」


 トラキア軍部は廃墟だったトランシルヴァニア城を豪壮に改築し、国王一家はそこに住んだが、それは華麗な監獄のようなものだった。


「王妃も殺されたようなものだと」


 アヘンに溺れた王妃は夫と幼い子供たちを遺して若くして病死した。


 これも当時から「トラキア人に毒殺された」という噂が絶えなかったそうだ。


「今のワラキア政府はあのばかでかい城を『国恥記念館』として一般公開、そこでは曾祖父夫妻の写真を『傀儡国王夫妻』として展示しているそうです」


 流浪の王女の視線の先では、庭園のアーモンドの木々が細い裸の枝を微かに揺らしていた。


 この部屋はこんなに暖かいけれど、ガラス戸越しに見える外にまだ春は来ていない。


「現行のワラキア政府は国内統一のために反トラキアを利用していますからね。それは王女殿下も良くご存知とは思いますが」


 首相はどこか嘲る風な冷たい笑いを亡命の王女に向ける。


「『五族協和』という戦前のトラキアが掲げた理想そのものは誤りではなかったと私は認識しております」


 トラキア、ワラキア、モルドヴァ、ハンガリア、そしてロマ。


 それぞれの民族衣装を着た少女たちが手を繋いで薔薇の花園で舞い踊る。


 そんな戦前のプロパガンダポスターが脳裏を過る。


「五族協和」とは言いながら、中央のトラキア人の少女が女王然と一番豪奢な衣装を纏っているのだ。


 ふと見やると、上質なベージュのワンピースを着たノンカはまるで覚悟を決めて刑場に引かれていく人のように青ざめて唇を噛み締めていた。


「五族協和なら何故、トランシルヴァニアのトラキア兵たちはワラキア人を『丸太』などと呼んで人体実験をしたんですか?」


 まるで撃たれた兵士のようにナディアは黒い断髪の頭を伏せる。


「おぞましい虐殺を働いた連中は戦後も罰せられるどころか大学教授や製薬会社の経営者になってこの国の医療を主導する立場になった」


「戦後、我が国の医療は世界をリードする程になりました」


 独裁者は誇らしげな笑顔で述べた。


 流浪の王女の怒声が薔薇の香りに満ちた部屋に響き渡った。


「殺されたワラキア人たちはトラキアが躍進するための教材だったというのか!」


 遮断されたガラス戸の向こうでは風が凪いだ代わりに陽がちょうど陰ったらしく、揺れを止めたアーモンドの裸木の枝が黒々とした影絵になっている。


「我が国と周辺諸国の歴史については様々な議論が為されるべきではありますね」


 首相は氷の張ったような、濁った皮膜そのもののような目を細めて緩やかに脚を組み替えた。


「この……」


 拳を握り締めて震える軍服の王女に私が思わずソファから手を差し伸べたところでまた別な方から声が届く。


「ナディア」


 うら若い女王は血の気の引いた唇から重い、苦い声で呼び掛けていた。


――カツ! カツ!


 応接間の、丈高いドアを叩く音が沈んだ空気に杭を打つように響いてくる。


 私は思わずビクリと身を起こしてから、それが静かだが確かに響くように良く調節した叩き方だと思い当たった。


「お入り下さい」


 嘘のようにいつもの穏やかさを取り戻したノンカの声が応える。


 ギイッと棺の蓋じみた音を立てて扉が開いた。


「総理、そろそろお時間です」


 三十半ばの高過ぎも安過ぎもしないスーツにきっちり髪を纏めた男が静かに入ってきて穏やかな笑顔で声を掛けた。


 秘書とかSPとか正確な肩書きは不明だが、ホッジャ首相のような立場になれば常日頃からこんなおとぎ話に出てくる執事みたいなよく訓練された人たちに仕えられるのだ。


 独裁者も一転して柔和な笑顔で述べる。


「それでは、皆さん、楽しいお茶会に招いていただき、本当にありがとうございました」


 初老の総理が一礼して立ち上がると、身に付けたポマードやコロンの混ざった匂いがこちらにまでツンと鼻についた。


「お先に失礼します」


 二人の男が出ていった後には、醒めたカップの茶に口も着けずに座した三人の若い女が残った。


 *****


「あの爺さんには何を言っても馬耳東風だとは知ってたよ」


 後部座席のナディアはエメラルド色の軍服の肩を竦める。


 横から見ると、正面から臨むより肩の薄さがいっそう目立った。


 亡命者とはいえこの人は幼い頃から良い生活をしているはずなのに、貧乏育ちで中肉中背の私よりも小柄で痩せ細った体つきをしている。


「あそこまで恥知らずだとは予想外だったけど」


 二十歳のこの人の顔のどこにも皺や弛みなど無いのに、奇妙に疲れて老いた悲しい笑いを浮かべた。


 車窓越しに広がる日暮れの街の灯りが漆黒の瞳に点って揺れる。


 さっき宮殿を辞した時にはまだ十分に明るかったはずなのに、冬の日暮れはこんなにも早いのだ。


「私ももっとはっきり意見が言えたら」


 結局の所、独裁者を前にすれば萎縮するしかなかった。


 理不尽な目に遭わされた母さんの労苦を訴えられたのがせめてもの抵抗だ。


「いや、君は気にしなくていいんだよ」


 ナディアは白く小さな手を振った。


 夕暮れの薄暗がりの中では蒼白くほそい手指の形が浮かび上がって見える。


 高級車とはいえ車特有のどこか金臭い匂いに混じって微かに清新な香りが届く。


 これはこの人がいつも着けているロータスの匂いだ。


「薔薇の宮殿」のあの部屋にいる時は部屋いっぱいに満たされた薔薇の香りに紛れて気付かなかった。


 ホッとするのと同時に、自分がいかにこの人を頼っているか改めて思い知る。


「端から聞く耳など持たない相手だから」


 静かに苦く語る彼女に私の方では何も返せていない。


 車窓は全体としては暗くなる代わりに間隔を置いて灯った明かりが鮮やかに煌めく景色を映し出しながら緩やかに流れていく。


「一番辛いのはノンカだよ」


 流浪の王女は鏡でも覗くように開いた自らの両の掌を眺める。


「自分の希望でもない時に玉座に就かされて、辛くても降りることはもう許されない」


 父親の先王が癌で余命半年と宣告され、叔父の大公はその以前から病気の後遺症で公務はおろか普段の生活もままならない、従弟の王子はまだ小学生でさすがに王位に就かせるには幼すぎる。


 そこで「王位継承権は男子のみ」とされてきた憲法は急遽改正され、先王崩御に伴って十九歳のノンカが即位する運びになった。


「それまで散々『お前は女だから伝統ある王室の跡は継げない、年頃になったら然るべき相手と結婚して王家を出ろ』とあの子も周りに言われてきたのに」


 空の掌を見詰めながらナディアは寂しく笑った。


 ワラキアの王室も継承権は男子のみで数年間にナディアの父王が亡命の身のまま亡くなった際には「ワラキア最後の国王死去」と報じられたのを思い出す。


「女というだけで無用にされたかと思えば、今度は男の後始末を押し付けられる」


 ゆっくりとナディアの顔が再びこちらに向けられた瞬間、思わず息を飲んだ。


 漆黒の瞳の片方からは透き通った粒が流れ落ちていく所だった。


「死んだ父はよく言った。祖国の宮殿にいた頃、自由な平民の身に生まれたかったと幾度嘆いたか知れない、と」


 言葉に反してナディアはおっとりした優しい口調で語る。


 私は会ったことのない「ワラキア最後の国王」は恐らくそうした物腰の人だったのだろう。


「祖国を追われ、もう王ではなくなったが、どこへ行っても好奇や憎悪、あるいは畏怖の目に囲まれる」


 オレンジ色の街灯の光が亡命の王女の顔を一瞬、カッと燃やすように照らし出してまた薄闇に沈む。


「玉座を降ろされても、死ぬまでまっさらな平民の身になどなれはしないのだ、と」


 ナディアは黒い断髪の頭を静かに振った。


「先の国王陛下は、父の亡骸を特例でこの国の王室ゆかりの墓地には入れてくれたけれど」


 ゴーッと深く水に潜るのに似た音が鳴り響いてきて、トンネルに入ったと知れた。


「ちょっと、建国庭園けんこくていえん方面は通行止めになっているので迂回しますが、マリアさんはお時間、大丈夫ですか?」


 不意に運転席から声が飛んだ。


「あ、私は大丈夫です」


 母さんは今日も遅いはずだと思い出しつつ、何とはなしに貰った箱包みを胸に抱き締める。


――よろしければお宅でご家族と召し上がって下さい。


 宮殿を辞す際に中年の女官らしい人から品の良い笑顔と声で告げられ渡された。


 重さからして恐らくはお菓子の類いだろう。今日、お茶会の席で出されたのと同じ国花を象ったクッキーだろうか?


 動かしても物音一つ立てない箱の中身はまだ窺い知れない。


「またデモか?」


 私の思いをよそにナディアが運転手に尋ねた。


「ええ」


 運転手はオレンジ色の灯りが照らし出すトンネルの車道の前方を見据えたまま白髪の混ざった頭を頷けた。


「今日はブリタニア大使館に火炎瓶が投げ込まれて機動隊が出動したそうです」


 アメリカ再併合に反対する動きはこの国でも起きている。


 その根底にはブリタニアの覇権主義に迎合する現行政府への反発があるのだ。


「そうか」


 隣国の王女は影になった軍服の肩を仔細に眺めて僅かにそれと分かる程度に落とした。


「あの爺さんにまた口実を与えてしまったな」


 トンネルを抜けると、完全に夜の闇に染まった外に出た。


 この道はどうやら灯りもトンネルに入る前の道と比べて疎らなようだ。


 黒い闇に浸された高級車の中ではビロード張りの座席の柔らかに沈んでいくような感触が一ミリずつ体を溺死させていく底無し沼のそれに思えてくる。


 早く、私と母さんの住む、宮殿や大使館とは比べ物にならないほど小さくてみすぼらしい、しかし、どこよりも温かなアパートの部屋に辿り着かないか。


 夜空に遠く煌めく星に祈るような思いで私は行く手に目を凝らす。

(了)

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