010 恥の搔き初め

 完全な無と化した脳内異世界を、まさしく無我の境地で漂う私。

 目を覚ますことができそうな呪文を知らない私は、しばらくこのままでいることになるのだろう。

 

 今、私にこの完全な無の脳内異世界をもたらしたのは、くどいけれども、仮想現実支援機器リアリティ・クリエイターリアリテス。

 国際共同治験が始まるこの機器を、


 ☆


 それはそうと、私は何時になったら目を覚ますことができるのだろうか?


 仮想現実支援機器リアリティ・クリエイターリアリテスには、標準機能として、タイマー機能がある。

 何しろ、網膜へのレーザー照射により、異世界的な脳内光景リアリティを作り出すのだ。そのリアリティに囚われている使用者がなかなか目を覚まさないということは当然にありうる。現に今の私はグッスリと眠ってしまっているわけだし。

 

 私はタイマーを1時間に設定していた。第Ⅰ相治験を前に国内初のリアリテスへの本格ダイブとしては、けっこう思い切った長さだ。だが、私は明日のサチとの面接を前に、リアリテスの持つ力をこの身でしっかりと見極めたかったのだ。先程のプラナリアもどきたちとのバトルを通じ、もう十二分にリアリティは味わったし、この無我の境地体験もかなり長いことしている気がする。もしかすると、リアリテスがもたらす異世界的な脳内光景リアリティの中では、私たちが過ごす普通の世界とは時間経過がかなり異なるのというだろうか?


 ありうることだった。リアリテスによる脳内光景リアリティでの時間経過については、まだ十分な研究蓄積がないのである。

 

 網膜へのレーザー照射を通じ、リアリテスが主に刺激を与える箇所は、脳の後部皮質領域、人の脳の空間認知機能の「ホットゾーン」と呼ばれるあたり。「ホットゾーン」の空間認知機能を亢進こうしんした脳が、頭の中に脳内光景リアリティを作り出すというわけだ。この「ホットゾーン」は、2015年頃に、夢の内容を定める皮質領域として脳科学者チームたちによって見出された。それこそフルダイブもののアニメが盛り上がっていた2020年頃には、既に、ホットゾーンを刺激することで夢のようなフルダイブ経験ができる可能性の検討が始まっていたのだという。その頃から現在にいたるまで、ホットゾーンとレム睡眠と夢とは関係について、いくつもの研究の積み重ねはあったものの、脳内光景リアリティの時間経過が、現実世界や夢とどう異なるのかということは、定説がないのだった。

 

 ☆

 

 とにもかくにも困ったのである。

 ここまで遅くなったので、もともと今晩は女子当直室でお休みする予定だった。シャワーと着替えと朝一に済ませれば良い。

 徒歩10分の距離に自宅があるとこんなときに便利なものだ。

 

 しかし、である。私はいっこうに目を覚まさない。タイマーをセットし忘れたのかもしれない。何しろ、今日の日中は何かと忙しかった。満足な食事は夕飯だけで12時間以上は働いていた。タイマーなしでは朝までぐっすりなのかもしれない。

 それはちょっとまずい。いくら、お胸にバスタオルをかけ、介護用オムツを身につきているとはいえ、他は白衣だけである。もちろん、リアリテスが設置された研究室は施錠している。そして、鍵を持っているのは、研究管理者である私と、学外の研究協力者にして、リアリテスの物理工学的設定を行ってくれた先端医療研の坂口先生のみ。学外の坂口先生は精神病棟自体の入館用ICカードを持っていない。だから、夜の間に、この室に入ってくる者はいない。

 

 のだが、朝の巡回があるのである。おそらくは朝の6時半ころ。この研究室は警備員さんによって一回内部の確認を受ける。まぁ、研究管理者の私が研究機器のべットの上で寝ていたら、警備員さんはそっと扉を閉めてくれそうなものだが、とはいえ、研究管理者にして大学教員である今の姿を誰かに見られるのはよろしくない。今、室内に横たわる現実世界の私は、ゴーグルをかけアフロ姿の黒い巨大帽子みたいなのかをかぶったままに、おフランスなブラジャーも外してしまって、ボン・キュッ・ボンな私のボディを全力披露中なのだ。何らかの原因で、警備員さん以外の人に見られた場合、研究管理上の問題に発展してしまう可能性だってある。そうなれば、国内のゲーム依存症患者さんたちへの希望を与えるはずのリアリテスの第Ⅰ相治験はどうなってしまうのだろうか。


 それから、私は打開策を考え続けた。しかし、何も浮かばないので、疲れてしまった。もういいや、寝てしまえと思うのだが、この完全に無我の境地の空間では睡眠という概念すら消失してしまっているのかもしれない。夢の中にいるはずの私はまったく眠気を感じない。まさか、『Windeln für die Pflege』の詠唱により、時間そのものまで消失してしまった...などということは、いくらなんでもないだろう。

 

 ☆

 

 その後しばらくして、私は、もう少し現実的な脳内光景リアリティを考え始めていた。私の脳はしょせんは有限。その外の世界だってある。そう、この脳内光景リアリティを丸ごと飲み込んでしまえそうなのは、異世界で魔王になったあの、スライムだ。私はスライムを呼び出そうとした。しかし暴風竜とかではない今の私はドラゴンブレスを吐く力もなければ、羽ばたく力もない。

 

 いや、違う。あの異世界では、暴風竜は自らの力でスライムを呼び出したのではない。スライムの方が勝手に現れ、間近まで来てからはじめて暴風竜が気づいたのだ。そのことに思い至った。私は正解であろう言葉を思いついていた。


 私、サイトウハルヒは、脳外の全てに向かって言った。ただし、来てほしいのはそのうち、ただ一人。そう、

 「ただの人間には興味ありません。異世界人が居たら私の所に来なさい。以上!」

 と一気に言ったのだった。

 そして、名作アニメの方のハルヒにではなく、精神科医サイトウハルヒの方に、その異世界人は、私の無我の空間を越えてスッと現れた。

 

 その異世界人は、わらいを浮かべる悪い方のスライムだった。その口角を上げたままに固まったわらいに慄然りつぜんとした私は、リアリテスが呼び起こした脳内光景リアリティの中ではじめて、お漏らしをしてしまった。

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リトル、アイドル、リアリティ ~アイデンティティ拡張型共感覚技術が招く多軸の未来~ 十夜永ソフィア零 @e-a-st

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