003 入院初日の面談

 私は院内の食堂で、白衣のまま、海老天ぷら蕎麦をすすっていた。年越しそばにはまだ早かったが。

 午前の関係者2名への精神科的診断面接に、というか、後半のイープからのヒアリングに、私はどっと疲れていた。ゲーム依存症と診断された女子中高生たちの診断や治療にこれまで多くあたってきた私だったが、今回のサチのように家庭内に共犯者的な存在を複数抱える症例ケースは経験がない。国外を含めてもこんな症例ケースはほとんどないだろうな、と思いつつ、私は海老天をかじる。うまく中学校に復帰させてあげて世に彼女の居場所を見つけることのお手伝いができれば、学会での症例報告ケーススタディがひとつできそうなものではあるが、入院後初となる午後のサチとの面接を前に私は方向性を定められないでいた。前回の面接をした限りでは、サチは幸いにもリストカット等の自傷は起こしていないようだったので、切迫した治療的介入の必要性がなさそうなことが救いだったが。

 

 ☆

 

 国立大学法人第二女子医科大学附属病院、略称、二女医にじょい病院の精神科病棟の入院患者は、すべて個室への入院となる。国立大学法人とはいえ個室では1日あたりの入院代はけっして安くはないのだが、先程の執事の山田の言うところが本当だとすれば、入院料金の支払いは何も問題ないのだろう。サチへの治療的介入が長期戦となることを覚悟しつつある私は、お家の事情が入院を許しそうなことにプラスの点を与えていた。

 

 自傷の懸念が少ないと診断しているサチの病室は、いわゆる開放病棟にあり、内科等の病室と概ね違いはない。また、日中の面談についてもほぼ他の診療科と同様の扱いとなる。そのことを私から伝えられたイープは、翌日以降、サチの病室を見舞いたいと申し入れた。「主治医である私の許可が必要となりますが、1日か2日おきであれば問題ないかと。」と、私はイープに答え、一回の受付で予約の申し出をするように伝えておいた。


 サチの病室に向かう廊下を歩く私は、そんなことを思い出しながら、イープと何度か言葉を交わす機会があることは良いことだと考えていた。今のところ、鴨志田家において、サチとイープとの関係が、イープが語ったような謎の主従関係に由来するものなのかどうかは分からない。しかし、自らをちんと語るサチの多重人格症状に、イープが何らかの形で関わっていることは間違いがないのだ。

 

 コンコン、とノックをして私は、サチの病室の戸を開けた。

 「サチさん、午後の面接のお時間です。」

 と、私は、机に座ってノートを開いていたサチに向かって話しかけた。

 

 サチは、私に向かって

 「はじめまして、先生。」

 と言った。先日とは別人のように落ち着いた声色だった。

 

 なるほど。

 サチのように若年のDID患者の場合、そこそこ高い確率で入院初日に別人格が発症することがある。私はそのことを思い、目の前に座るサチの精神状態に合致した話をしていこうと思う。

 「今日から、冬休みの間、10日ほどのお付き合いになるけれど、改めてよろしくね、サチさん。

 午前中に、看護師さんにあなたに病棟と病室のことを案内してもらっている間にね、執事の山田さんとメイドのイープさんからあなたのことを少し聞かせてもらいました。幼い頃は京都で過ごしたのですってね?」

 私は、サチが鴨志田家に来る前に京都にいたという、山田の言を確認するところから面接を進めようとした。

 

 「はい、そうらしいのですが、私には京都での記憶はごくわずかしかないのです。」

 この人格の時は朕でないのね、と思いつつ、サチに質問を続ける。

 「そうですか。でも、京都での記憶はあるということね。おねえさんに覚えているあたりを聞かせてくれる?」

 と、一人称をおねえさんにする戦略が、今のサチにも有効かどうかを私は確かめる。

 

 「はい。私の初めての記憶は、ちょうど今と同じ頃の冬の京都でした。その日、私は筋肉痛と共に目覚めたのです。」

 今回のサチはかなり優等生口調だ。もちろん、顔つきは初診の時のサチと同じく幼さが少し残る中学1年生のものなのだが、表情はもっと年上のものだった。


 「私は前世から筋肉痛がなぜか苦手でして。どうやら、朕の方が初めて近場の剣道場で竹刀を思い切り奮って筋肉痛になったことで私が目醒めたものと思います。」

 

 「なるほど、あなたは、私が前回お話させてもらった朕ちゃんの方の認識もあるのですね。」

 前回のサチは、《ちゃん付け》で呼びたくなる雰囲気満々だったが、今日のサチは普通の優等生美少女風になっていて、《さん付け》したくなる。ほんとうに、前世の鴨志田コウの18歳を彷彿させる風である。


 「はい。プシ国で、姫王閣下と呼ばれる朕のことを見ていた記憶は少しですが、ありますもので。」

 おっと、優等生さんの方もプシ国は知っているらしい。

 

 「なるほどね。それで、京都から、先程の山田さんのところにあなたが電話をかけたのだとか?」

 「はい。目覚めた私は、ちんであるサチが住んでいる尼寺がかなり困ったことになっていることを知りました。

 執事と父に連絡を取って応援してもらうことが良いと、その時の私は思ったのです。」

 「ということは、京都で目覚めたという、確か7歳だというあなたには、鴨志田家の頃の記憶があったということね?」

 「はい。鴨志田家まで18歳になる一週間前まで、コウとして過ごしていた記憶は、たぶんほぼ完全にあります。」

 

 なるほど。すっぱりと言い切ってくれた。とはいえ、これまでの3人からのヒアリングと合わせても、そもそもが7歳まで鴨志田家で過ごしているから鴨志田家の記憶が完全にあるって線はまったく否定できないんだけど、ね。そう思う私は「18歳になる一週間前」というフレーズに注目した。

 

 「18歳になるまでの記憶があるんだったら、去年の中学入試も楽勝だったわけね。」

 「はい。実は前世では中学入試は受けていなかったのですが、半月くらいの準備期間でなんとかなりました。」

 私は、OBとして(御三家なめんなや、私なんか受かっとるかほんまに自信なかったんやからな。)と心の中では腐立医大時代のエセ関西弁となりつつも、専門医としての口調で問いを続ける。

 「なるほど、すごいわね。もしかすると、高校の範囲のことも覚えているのね?」

 「はい。」

 「得意教科は何だったの?」

 「化学ばけがくです。」

 「そう、例えば、酢酸とエタノールからエステルができる時の反応式は覚えてる?」


 《ばけがく》と聞いて、私は化物ばけものの学の方を少し思いおこしつつ、サチに聞いた。お昼の天そばを食べる前に、先程のイープのわらいで少しちびってしまったおパンティの方は研究室でこっそりと履き替え済だ。もう一枚、替えが必要になる事態にはならないで欲しいと願う私の前で、サチは机の上のノートを開くと、酢酸とエタノールが脱水縮合して酢酸エチルになる時の反応式をさらさらと書いた。


 「これで良かったですよね。」

 (やばい。中1じゃ絶対にやってない反応式やつを知っている。)

 尿意は覚えなかったが、私は少しゾクリとした。

 「さすがね。本当に記憶が残っているように先生も思うわ。18歳、高校3年生だったということは、前世では大学への進学が決まっていたのかな?」

 「はい、推薦でポン女の数学科に行く予定でした。」

 「数学科?」

 「はい。ポン女の近くで、おしたいしていた先輩がゲーム会社のグラフィック描画のインターンをしていましたので、少しお手伝いができればな、と。」

 といいサチは顔を伏せた。(《おしたいしていた》なんて、おませなお嬢様言葉を口にしてポッと顔を赤らめてうつむく、なんてきょうび美少女ゲームくらいしかねぇよ。)、と心の中で、私は下卑げびたエロゲーオタクのような口調で心のつぶやきをしつつも、次の質問を出そうとした。


 その刹那、顔を上げたサチ=コウの表情に、私は凍りついた。

 美少女成分100%の表情のまま、コウは無言で涙を溜めていた。

 

 (やばい、やばいよ。これ、美少女ゲームだとしたら、私、絶対、萌えちゃうよ、これ。)、といいつつ既に一瞬で、今日のサチ=コウに萌えてしまっている私は、逆転移を戒める精神科の専門医失格ものである。いや、自らがプレイヤーとして参加している時点で腐女子としても失格かもしれない。

 

 サチ=コウは、スーッと涙を流しながら、

 「私は、このことを思い出す時は、涙が止まらなくなるのです。」

と、言った。


 入院初日に、精神科医が患者から強い感情を導いてしまうのは禁忌事項きんきじこうにあたる。ハッと、我に返った私は、そこからは、サチ=コウの涙が止まるのを待ち、朕についての記憶を差し支えのない範囲で聞くと、今日は夕方に臨床心理士の先生からの面談もあるからよろしくねと伝え、面談を終えた。臨床心理士には、特殊な症例と考えられることと、サチ=コウが持つという前世の記憶に踏み込む質問は避けるように伝えることにする。


 ☆

 

 今朝は早出していた私は、今日の報告書類レポートのまとめは部屋に帰ってからすることにして、早めに病院を出た。冬至の頃の短い夕陽が目に入る。

 歩きながらもぼうっとしつつ、

 (やっべー。レポート書いたら、久しぶりに美少女ゲーしちゃおっかなー。)


 そう、職場を離れた私は美男子同士がイチャイチャするゲームや漫画の鑑賞を本業とする傍ら、美少女ゲームだってしてきたのである。悲愛ものや秘愛ものから、精神科医の視線から見て、どうなのよ、と思うエログロナンセンスちゃんなものまで。腐女子仲間の間では、美少女同士の絡みから美男子同士の絡みのストーリーまでをも導き出す魔法じみた展開力を誇る私のイマジネーション力は、有名なのだった。

 

 そんな私は先程の面談でサチ=コウがスーッと流した涙に、ズキューンと心をたれて、あろうことか本日二度目のおしっこ漏らしをしてしまっていたのだった。さすがに日に二度も病院の売店でおパンティを買いに行くわけにはいかない。そう思う私は、明日からの勤務にあたりおパンティの下に介護用オムツを履くことはせずに、美少女ゲームへの耐性を強めておくことを当座の選択肢として選んだのだった。

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