魚座のリボン

宵澤ひいな

寄宿舎

 

 眠る目蓋まぶたひどく熱っぽく腫れているように見えた。淡闇うすくらがりに慣れたぼくの瞳は、眠りの最中にいるルナの様子を見ている。いつもながら、安息の気配のない眠りだ。


 ルナは、浮き出たくまことに目立つ白いほおに映るまつげかげを、仔鳥とりの心臓が小さく震えるみたいに驚愕おどろかせた後、奥歯をみ締めだした。夢の中で余程よほど、怖い目に遭って、うなされているというふうだ。


「……サ」


 ぼくは、すかさずルナの肩を揺すり起こした。ルナは、限りなく溜め息に近い呼吸いきかすかにらせる。


「サキ、ぼくは、また歯をみ締めていた?」


 覚醒したルナは、ここ数日の歯痛の原因が自分にあったことを認識したようだ。ぼくは、昨夜の残りのパルファンキャンドルにを点し、薫香かおり一呼吸ひといきに肺の中に充たして話す。


「今夜で連続一週間だ。やっぱり、ぼくが勧めた甘扁桃アーモンド焼菓子パルミエ所為せいじゃなかっただろう?」

 特に強く噛んだらしい右の頬に手を当てて、ルナはうなずく。


 ☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…


 七日前の午后ごごのこと、ぼくらは現在の住居である寄宿舎ドミトリィ十七號室トリカゴに、禁止されている菓子を無断で持ち込んだ。ぼくらは、と言ったがルナに非は無く、ぼくが一方的に規則を破ったのだけれど。


 寄宿舎ドミトリィの規則は、いずれも煩雑だ。適当に息を抜くところを見付けないと、続けていけそうにない。


此処ここでは、皆が隠れて、やっていることさ」


 規則違反におびえるようなルナの言葉無き反対を無視して、ぼくは寝台上に焼菓子パルミエの包みを開いた。温かく香ばしい菓子は久し振りだ。


「焼き立てだよ。半分ずつしよう。物分かりのいい伯父の、せっかくの好意。冷めないうちに」


 寄宿舎ドミトリィは試験終了一週間後、三者面談日の初日で、教師の気はそぞろだった。教師たちの気が、ぼくらの保護者に向いているうちが、好き勝手に振る舞える最大の好機だ。


 早々と面談を終えたぼくは、保護者である伯父の差し入れをありがたく受け取り、好機を活用しようとしている。しかし、同室のルナは気忙きぜわしく、内鍵の付いていない扉の近くを行き来した。


「ぼくは、いつ先生が入って来てもいいように、此処ここで見張っているよ」

「それ、余計に怪しまれると思う。だいたい、どんな言い訳をするつもりさ」

「それは……」

「考えるよりも、証拠を隠滅させるほうが賢明さ。早く食べて、歯を磨いてしまうんだ」

「包み紙は? この部屋から甘い香りのゴミが出るよ」

「大丈夫。ぼくは今日、校長室の掃除当番に当たっているから、すみやかに片付けることができるよ」


 とことんまで追求して、ようやく納得したらしいルナは、甘扁桃アーモンド焼菓子パルミエを賞味した。彼は、それを香ばしくて美味だと言った。


 甘扁桃アーモンドの香りの油紙をたなぞこに隠して、校長室の扉を開く。


「もう掃除の時間だったかね。ご苦労なことだが、よろしく頼んだよ」


 温和な笑顔の校長先生が、部屋を退いた。ぼくは、ひととおりの清掃をこなし、ゴミ袋を片手に友人の部屋をまわる。やはり、今日に面談を終えた幾人かが、菓子の包み紙の処理に困っていた。彼らの証拠隠滅もこぞって引き受ける。


 そのうちのひとりが、早くも教師の口かられたという事の真偽をたずねる。


「サキ、伯父様のもとに帰ってしまうって本当なの?」


 真実が流布していることに軽い驚きをおぼえる。できれば、目立たないように立ち去りたかった。


「先生たちが話しているのを聞いたんだ。ぼくは、サキを信頼していたのにな。本当だとしたら残念だよ。サキが十日後には帰ってしまうだなんて」

「……本当だよ。でも、決して他言しないで」

「やっぱり本当なんだ。噂に疎い、ぼくの耳にも入ってくるぐらいだものね。たぶん、この棟の生徒は皆、知っているよ。きっと、そのうち騒ぎ出す」


 彼の予告は的中して、ぼくは寄宿舎ドミトリィの廊下を歩いているあいだじゅう、質問攻めに遭遇したのだった。


 ようやく寄宿舎ドミトリィ十七號室トリカゴに戻ると、思い詰めた表情のルナが、ぼくを迎える。


「サキ、おかえりなさい。言えなくなる日が来るんだ。ぼくらは、もう一緒には、いられないんだね」


 その夜から、ルナの歯は痛み出した。


 ☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…


「ルナ、嫌な夢でも見ていたみたいだ」


 ぼくは、寝台上に身体を起こしたルナに、ぬるんだ常備水をたたえた洋杯コップを手渡した。小刻みに震えながら水を飲むルナの、返答を待つ。


 彼の沈黙は長い。傍付そばづいている者が、懸命に答えを導かなければならない。


「ずっとうなされている。確かに甘扁桃アーモンド焼菓子パルミエを口にした日から毎日……原因は、ぼくだね」


 ナイトテーブルに洋杯コップを置いたルナは、小さくくびを動かす。否定なのか肯定なのか、計り兼ねる動きだ。


「仕方ないよ。父親代わりの伯父が海外赴任しているあいだだけ。そんな約束で編入してきたんだから。ルナにも以前まえに話したよね?」

「そう。あの人はリボンを切りに来るんだ。いつも夢に見る」

「リボン?」

「魚座のリボンだよ。ぼくら、同じ魚座生まれだった」


 ルナは掛布団シィツに包まれた膝を抱き寄せ、その上におとがいを沈めて、ぼくを見た。ぼくは、ルナが膝を折ったぶん空間の生じた寝台の後方に深く腰掛けながら、理科の授業で習った魚座のカタチを思い出した。二体の魚が、リボンで尾をつないでいるカタチだ。


「ぼくは十二星座が十三星座に変わっても、魚座のまま変わらないんだ。だからかな? 本当にさみしいんだよ。リボンをつないだ人が、遠くへ行ってしまうと考えだただけで心苦しい」


 ☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…


 ぼくは、ルナと同室になった寄宿舎ドミトリィへの編入時、校長先生から聞かされた言葉を久々に反芻はんすうする。


「きみが同室になる生徒は、とにかく、おとなしくて、人を寄せ付けない感じさえすると教師間の話だが、今は其処そこしか空いていないんだ。我慢してくれるかね」

「そうなの? ぼくは、おしゃべりだから、ちょうどいいよ」


 目上の人に対して砕けた口調で答えたので、伯父に上膊じょうはくの裏を軽くつねられた。そうして同室に暮らし始める。

 ルナは、先生に聞かされたとおりに無口な少年だったけれど、ぼくは別段、不都合をおぼえるでもなかった。


 それにしても、いつから言葉で打ち解け始めたのだろう。

 ——魚座のリボン。

 不意に頭の中をルナのささやきがぎった。


「魚座とは、黄道十二星座のひとつです。黄道十二星座とは、一般的に星占いに登場する星座ですね。皆さんも御存知ごぞんじの星占いに用いられる、牡羊座から魚座までの十二星座。蛇遣い座を数えて、十三星座ととらえる場合もありますが少数派でしょう。さて、皆さんの中に魚座生まれの方は、どれぐらい、いらっしゃるでしょう?」


 ロイド眼鏡の先生の問いに、ぼくは元気いっぱいに挙手をした。ルナは、おずおずと片手を耳の辺りまで挙げた。


 先生がスライド表示する魚座。二体の魚が尾をリボンでつないでいる。その形は、ぼくの目に、英語の『V』にも『U』にも見えた。 


「今日の星座の授業、興味深かったよね。ぼくは、魚座の話が好きだけれど、きみは、どう?」


 理科教室から寄宿舎ドミトリィに戻る途中、答えを得られないと暗に領得して問いを投げ掛けたぼくに、ルナは初めて言葉を返したのだ。


「魚座のリボン」


 ☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆…


「ぼくも魚座だよ。だから、さみしいのは同じ」


 三日後に伯父が迎えに来る。ぼくは生まれ育った異国の地にUターンする。そろそろ荷物をまとめ始めるべきなのだけど、ルナの視線が気になって手付かずだ。


「ぼくらは、こどもだもの。抗えないことが自由になることと同じぐらいに、もしかしたら、それ以上にあると思う。でも、受け入れて、やっていくしかないんだ。きっと古来の魚座も、そうだよ。不可抗力に引き離されそうになったから、リボンでつなぎ止めたんだ」

「そのリボンが切れる夢ばかり見るんだ。引き離されて、もう戻らない」

「もういちど、リボンを結ぶために、歩み寄ればいいだけの話じゃないか」


 ぼくは、たいした思索も無しに言った。けれども、深く思った末の結論と一致している感じもした。おそらくルナの歯が痛み始めた一週間前から、無意識の思索を続けていたのだと思う。


「ねぇ、ルナは、この寄宿舎ドミトリィを出たら何処どこへ行くつもり?」


 ルナは、この先、どうやって生きていけばいいのか。分からなさに押しつぶされそうに見えた。そんな彼に、あえていた。彼が答えなかったので、ぼくは自分の未来の構図を伝える。


「ぼくは、これから新しい学校に馴染なじむよ。やらなければならないことを、やらされるんじゃなくて、自分の意思で、やり抜くんだ。そして必ず、大切に想う世界にかえってくるよ」

「何が大切なのか、分からなかったら?」

「分かるよ。アルファベットの『U』のカタチに結び付いているんだもの。ぼくはルナと過ごした時間を、心の故郷だと思って大切にしている。大切な場所にUターンする。そのときに、ぼくらは、再び逢えると信じるよ」


 還流する心の流れは、ゆるやかな『U』の軌跡を未来に描き出す力を持つ。

 しばらく離れて自由に泳いだとしても、互いを見失ったりしない。

 ぼくはルナの涙を指で拭う。そして、ふたりで帰郷の荷物をまとめた。


 ぼくらは、友情を解くことなく未来に踏み出す。

 水宙そらの魚座が、透明なリボンにつながれたカタチで遊泳している。

 それは、とても自由なきらめきだった。


                              -続-

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