涙は血のためにとっておけ(後)
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三号月一日
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計画決行の日、僕らはまずこれまでと変わらぬよう装った。三人で町へくり出し、にぎにぎしく騒ぐ。できる限り人出が多い場所が必要だった。
「大きな駅だね、道に迷いそうだ」
「いざとなれば駅員をつかまえましょう」
「おう、今日中に三つは美術館を回るぞ」
「ミル、君は体力もつかもしれないけれど、はしゃぎすぎ」
「美術館と博物館なら任せて下さい、僕は一日最高五件回りました」
「なんだとこの野郎。その倍回ってやる!」
「無理のある強行軍は、かえって予定が台無しになるよ」
街角のそこかしこで、雑踏にまぎれて、監視の目はいつだってあった。和やかに話しながら、僕らはこの六日間で目を付けた監視役の様子をうかがう。
ソムスキッラとウィトヤウィカが、推理物やスパイ物の小説を書くことに夢中になり、カズスムクとタミーラクが次から次へと新作を読まされた経験が役に立った。立ったと思う。とにかく僕らは、監視を出し抜くことにしたのだ。
ハジッシピユイとの取り引き通り、僕は二人の行動を日々報告した。それとは別に、ひそかにコガトラーサ家の者が周囲をいつも見張っている。
僕の役目は裏付けや保険程度のことに過ぎない。そのような監視を良しと受け容れるのも、高貴な身の上には致し方がないものかもしれない。
けれど、これは最後の旅行だった。カズスムクとタミーラクが本当に二人きりになれる時間を、僕はどうしても作りたかったから。少しばかり無茶をした。
いや、大したことはしていない。僕は監視の男にわざとぶつかり、何も知らない振りをして妨害。カズスムクたちはその間に逃げおおせる、という寸法だ。
二人が逃げた先に、別の監視役がいる可能性もあったが、少しはは他の眼がない時間を作れたのではないか? 走って行く二つの背中を見ながら、そう願わずにはいられなかった。バカなことをしたと、大トルバシド卿の怒りを買うかもしれない。
――二人がこのまま、ザデュイラルにも帰らず、行方をくらましたら。
少しだけ、僕はそんな空想をした。あり得ないことだとは分かっている、カズスムクは家を捨てることはないし、タミーラクも贄という立場を放り出さない。
決してそうなったりはしない。手をつないで、誰も二人を知らない場所へ走り出しても、しばらくしたら戻ってこなくてはいけないのだ。
旅とは、いつか終わらなくてはいけないものなのだから。
◆
深夜十一時、僕がふと眼を覚ますと、いつの間にかタミーラクがいた。彼が腰かけるベッドには、すでにカズスムクが寝息を立てている。
どうやら僕が寝ている間に帰ってきて休んでいたらしいが、彼だけ起きたらしい。
「お早いお帰りですね。せめて明日まで戻ってこないと思っていたのに……もしかして、向こうに見つかっちゃいました?」
「いや。これ以上のんびりしていたら、帰るのが嫌になるかもしれなくてさ」
「まさか」
僕があくび交じりに笑うと、灯りのない部屋で、タミーラクは少し悲しげに微笑んだ気がした。それが実際はどうだったのか、確認するすべを僕は持たない。
監視を逃れてから、二人がどう過ごしたかも。ただ、それは何であれ満足する時間だったのだろう。あえて訊く必要はない。
代わりに、タミーラクは話し出した。
「そういやお前、あいつから眼の話聞いたんだってな」
僕はええ、と肯定する。
「じゃあ、今は納得してんのか?」
「……あなたが生け贄になって死ぬ、そう割り切っていることを?」
「そうだ。茶話会の時、ひっどい顔してたんだぞお前」
そう指摘されて思わず頬が熱くなった。あの時、僕はぶしつけな同情を抱いていたのではなかろうか。いや、もしかしたら今でも。
「ま、他人だから気楽ってのはあるよな。みんなどっかしら、割り切るんだよ。贄に出す用の子ってのはさ。愛してるのも家族なのも嘘じゃない、でも後で悲しくならないよう、最初からちょっと距離を開けておく」
けれど、カズスムクは違ったのだろう。
「他のみんなと同じように、見切りをつけて、あきらめちまえば良かったんだ。そうなったって俺たちは友達でいられた。なのに、あいつはそうしなかったんだよ」
「だって、伯爵はあなたを愛しています」
「そう、眼でも心臓でも差し出すぐらいに」
タミーラクの表情は、結婚式のアジガロと、ジアーカにも似ていた。
夏至祭礼の聖婚式で、ムーカルとコーオテーを演じた二人にも似ていた。
目鼻立ちも年齢も違うのに、その笑みにくるまれた諦めと安らぎは、そっくり同じ形をしている。綿の中の針のように、茶に潜む毒のように、刺激すれば間違いなくこちらを傷つける自我の棘。彼らはそれに触らせたくないから笑っている。
「父上だって俺を愛している、食べたくてたまらないって」
赤い名前の子供。彼がタミーラクと名乗れば、ああ、そうなのねと誰もが納得する。ミドルネームの〝ノルジヴ〟も、コガトラーサが出した先代贄、すなわちハジッシピユイの弟の名前だ。親の名の代わりに贄の名を代々与える。
僕は気持ちを落ち着けるため話を変えた。
「……なぜ士官学校に入られたのか、訊いてもいいですか?」
「そりゃ、俺だって外でやりたいことあるからな。贄になるのも、軍に入るのも、自分の身を捧げるって意味じゃ同じだ。俺を選んだのは父上だけど、どうせ同じことなら、自分で選んだって実感が欲しい。いつだって〝北〟の方はきなくさいしな」
〝北〟とはタルザーニスカ半島の奥、北アポリュダード大陸に広がる大国キリヤガンのことだ。ザデュイラルと隣接しているため、昔からいざこざが絶えない。
「あと二年かそこらで、戦争が起きますかね」
「ま、起きないならその方がいいんじゃねえの」
仮に開戦しても、ハジッシピユイがタミーラクの出征を許すはずがなかった。それは彼だって分かっているはずだ。
では、士官学校はただの〝軍人ごっこ〟にすぎないのかと言うと、それも違う。ここには贄候補という身分が抱える、切実な問題が反映されているのだ。
資格を失った元贄候補というものは、人生の選択肢が極端に狭い。これは失格した時の年齢が高ければ高いほど、その境遇は過酷なものとなる。
もし、角を赤く塗った正式な贄が不適格となったなら、『病死』と処理されるような不審な死を遂げることも少なくはない。タンタサリッサのように。
裕福な貴族であれば、幽閉して一生表へ出さないが、平民であれば表向き絶縁して、こっそり売り飛ばした事例もあった。
贄候補の子供は〝
[しかも、何らかの理由で贄候補から外されても、供出子の身分は生涯変わらないのである(他に男子がいなかったため、供出子から嫡子になったハジッシピユイのような例は極めて稀だ)。これは一三〇三年に即位された新皇帝の改革まで続いた。]
そして、社会から無視された
……つまり、名誉と賞賛を与えられるままに贄として死ぬか。恥さらしとして生きながらえながら、周囲に疎まれ、死を望まれるかの違いだ。
士官学校という選択は、彼自身が語った動機ももちろんあるだろう。
だが、それに加えて「万が一食べ残しになって生き延びた時のための用意」という面も皆無ではない。それに。家を出て別の環境で暮らす、唯一のチャンスだ。
「なあ、イオ」
僕が考えこんでいると、タミーラクは物柔らかに話しかけた。
「お前、ガラテヤにはもう帰らないのか」
「少なくとも、あと十年は戻れませんね」
たったそれだけで、僕の悪評が消えているかは疑わしいが。
「じゃあ、さ。その間ザデュイラルにいるなら、あいつを見ててやってくれよ。キュレーだっているけど、カズーにはもっと友達が必要だろ」
「お約束します。彼が、ちゃんと生きていてくれるように」
「なら、安心だ。約束破ったら、お前の角……は、ないんだったな。太陽から脳天一撃くらわせてやるからな!」
僕も彼も泣かなかった。涙を血に変えて、明日もまた笑って生きようと、言葉もなくそう誓った。その会話から間もなく、楽しい旅行も終わる。
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