悪魔は深淵に巣食う

阿賀沢 隼尾

第1話 悪魔は深淵に巣食う

 人は誰でも悪魔になれる。

 悪魔になる人間は特別な人間にだという人が多いが、それは大きな間違いだ。


 悪魔になるのはなんてことない、普通の人間。

 その辺で普通に暮らしている人間だ。


 僕らは僕らのことを一番知らない。

 知らずに、知らないように生きている。


 しかし、その巨悪たる魔人が悪魔を刺激し、悪魔は伝染し、社会を覆いつくす。

 人々が悪魔を意識することは無い。

 人々は誰もが悪魔を所有するが、意識することは出来ず、故に彼らに使役されることさえ気づくことは無い。


 そうして、人々は――――社会は――――悪魔に、暴力に、差別に支配される。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――


『今日も暴動が起きています。現在、池袋では――――』

 テレビの中のアナウンサーが喋っている。


 僕はそれを外観する。

 テレビの外では世界は自分とは何の関わりのないもののように思える。

 ガラスの外にいるように思える。


 テレビの中では、『NO INFECTION』というセリフが書かれたガスマスクや服を着けている人たちが、暴動やデモを起こしているシーンが映し出されている。

「お茶を持ってきました」

「ああ、ありがとう」


 台所から、ジョーン・ダルシコフが紅茶を持ってきてくれた。

「聖夜さん、レモン要りますかね?」

「ああ。ありがとう」


 レモンを受け取り、紅茶の中に入れる。

 ダルシコフは机を境に、ソファに座る。


 座ってもその巨体から溢れ出すオーラや知性を消し去ることは出来ない。

 コップが豆粒のようにしか見えない。


 一口、紅茶を口の中に流し込む。


「テレビですか。今、大変なことになっていますねぇ。トランスウイルスでしたっけ?」

「ああ。そうだ。体が豹変するウイルス。今までのウイルスとはわけが違う。『自分』が『自分』では無くなるのだからね。まぁ、直接触れなかったら良いらしいけれど、それは難しいだろうね」

「ですね。暴れているらしいですからね。一種の肉体の強化のようなものでしょうか。中には、銃弾を撃っても効かない者がいたとか」

「ああ。らしいね。それにデマも出回っているらしいじゃないか」

「そうなんです。Tueeeter等のSNSに流れているんですけれどね。『知能が低くなる』、『体が変化する前に火を付けるとウイルスを退治できる』、『消火器、殺虫剤が効くらしい』等々。どれも根拠のない噂ばかりです。その性で、店がデモ集団に襲われたりする事件も多発しているそうです」

「そうか」


 ということは、作戦は成功だったわけだ。

 一人を隔離し、人工ウイルスを植え付け野に放つ。


 この国は『平和』に包まれすぎている。

 虚栄なる優しさに満ちた、他人に思いやる世界に浸りすぎた。


「ダルシコフ。君はこう思うことはないかい? 我々は自分達のことを知っている振りをしている、とね」

「それはどういうことでしょう?」

「本国は『平和持続宣言』により、鎖国をし、他国と干渉せず、自分たちだけで経済成長を続けてきた。まぁ、不法入国をしている人間は当然いるだろうけれどね。それは本当の平和と言えるだろうか? 確かに、異なる文化、思想、宗教が異なれば争いが起きる。人々はそれを幾度となく繰り返してきた。歴史はいつ何時も繰り返される。人々は『反省』はしても『反復』をしてしまう生き物だ。そこで、本国は自分たちだけの国を作り出したのさ。自分達だけの、雑菌のいない消毒された社会を」

「しかし、その消毒されていた社会に再び雑菌が紛れ込んだと」

「ああ。そうだ。雑菌はどんなところにも出てくる。僕らに逃げ場なんて無いのさ」


 そうだ。

 滅菌状態であった人々は非常に脆い。

 一度感染が始まれば、直ぐに本国全土を覆い尽くす。


「二対立するだけじゃ、暴動は起きない。今の暴動の要因は三つ存在しているんだ」

「ほう。と、言いますと?」

「一つは、情報不足による不安。人は未知の存在に対しては臆病であるからね。二つ目は国家に対する不安。今回の場合は、直接触れなければいけないということもあるだろうが、自宅待機を国民にさせることによって、逆に彼らの不安を煽ってしまうことになった。三つめはトランスウイルスに罹った患者を見下している。それは見た目の異様さや理性の崩壊によるものが大きい。それによって、今の人々は自分たちを二層化し、没個性化した」


「没個性化ですか」

「ああ。非感染者は『NO INFECTION』というセリフを付けた仮面や服を着ているだろう? あれは彼らにとってシンボルなんだよ。自分たちは感染していないというね。同じ仮面を付けることによって、一体感が生まれる。それが彼らのアイデンティティになっているのさ。暴動が起きている理由は三つ目の理由が大きい。三つ目の要因は他の二つの要因を促進させているんだ」


 そう。

 僕は人々の中に眠る悪魔を呼び覚ましただけ。

 刺激させただけだ。


 普段は殺人なんて起こらない善人しかいない世界。

 それなのに、今はこんなにも暴力と差別で世界が溢れている。


 人々は不安に怯え、正常な判断をしにくくなっている。

 だからこそ、自分の中に眠る悪魔を引き出すのは容易なのだ。


 彼は喋らない。

 というか、無表情になっている。


 それもそのはず。

 先ほど、レモンを受け取るときに筋肉硬直剤を紅茶の中に入れていたのだから。

 彼は全身を動かすことが出来ない。

 表情筋さえも微動だにしない。


 彼に寄り添い、彼の艶やかな頬を撫でる。

「君が公安の人間だということは最初から気が付いていたよ。最初は仲間にしようと思っていたんだけれどね。でも、建物内で感染者が出たとなれば、今までの常識を覆すことになるからね。これでどこにいても安全な場所は無くなる。さて、君達はこれからどうする。僕はね、君たちの英姿を見たいんだよ。人々が悪魔に変わっているこの状況で、彼等はどうこれからの未来を進むのか。僕はそれを知りたいんだ」


 鞄から金属ケースを取り出し、保存していた注射器を彼の首筋にある頸動脈に突き刺す。


「これで君も彼らの仲間だ。おめでとう。十分後に君の体に異変が起こる。三十分後から君の体は動くようになる。君が君でいられる十分間を存分に味わうといい」


 それだけ言って、部屋に出る。


 国民は今回の件で『本当の自由』と『自分の中に潜む悪魔』に気づくだろう。

 さあ、これからどうする。


 僕が捕まるのが先か。

 それとも、トランスウイルスが国民全員を変えるのが先か。


 胸が躍る気分だ。

 これほどの高揚感を感じたことは無い。


 僕を存分に楽しませてくれよ。

 刑事さん達。

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