襷の檜舞台
@manokai800
第1話
1月3日。真冬の芦ノ湖周辺の歩道は人で埋め尽くされている。
箱根駅伝の復路のスタートする選手たちは続々とその人で出来たコースを駆け抜けている。
「スタート3分前!」
往路優勝したチームがスタートしてから7分が過ぎた。
学生連合―自分のチームがスタートするまで3分を切った。
俺―長良 誠はベンチコートを脱いで付き添いをしてくれているチームメイトに渡す。
気温は2度くらい。天気は快晴。ランシャツではなく寒さ対策に半袖Tシャツを着て、さらにアームウォーマーと手袋を着用しての完全防備ですら防ぎきれない程の寒さだ。
「スタート1分前!!」
復路スタートから9分と少しを過ぎ、前のチームがスタートした。
繰り上げスタートのチームが自分含めて10チームがスタートラインに着いた。
頭の上にかけていたサングラスをかけなおす。視界が薄い赤色のかかった世界に変わる。
箱根駅伝。その舞台に自分が立てるとは夢にも思わなかった。
高校はケガと故障で大舞台には立てず、お山の大将にすらなれなかった。
浪人して、それから大学に入学した頃は楽しんで陸上が出来れば良いと思っていた。
楽しめればいいやと思っていざ練習を再開すると、60分のジョグすら息も絶え絶えになる始末だった。
そんな状態から約3年。よくこんな舞台に立てたもんだ。我ながらそう思う。
そんな大舞台で、俺を陸上の世界に誘ってくれた張本人である親友―成田 暁と一緒に走れるなんて神の悪戯としか思えない。
「誠」
「暁?」
隣に立つその張本人が俺に話しかけてきた。
茶色いレンズのサングラスから透けて見える表情は、まるで昔と変わらなかった。
「こんな舞台でまた走れるとはな」
「こっちこそ」
「ま、楽しもうか」
「そうだね」
「走り終わったらラーメンでも食べようぜ、寒いからコショウ沢山かけたやつ」
「おいおい、あれは人間が食べるもんじゃないよ」
「スタート10秒前!」
二言三言、やり取りをした後、左足を前に出してやや前傾姿勢を取る。
「5、4、3、2、1、スタート!」
審判の掛け声とともに芦ノ湖をスタートした。
スタート直後は一塊の集団だったのが、箱根の大鳥居をくぐる頃にはバラバラになった。
それもそのはず、繰り上げスタートをしたチームはみんな10位以内の順位―来年無条件で出るためのシード権が欲しいからだ。無理を承知で序盤から皆ペースを上げているのだ。
オープン参加の学生連合で走る自分には関係ない話だが。
バラバラになった集団の前の方に位置して、国道一号線の最高点を超えて下りに入る。当然ながらその中に暁も居る。
下りに入った瞬間。隣で走る暁がペースを上げた。
ペースアップの瞬間、一瞬こちらに視線を向けた。なるほど、「来い」という事か。
暁の誘いに乗るようにペースを上げる。
大舞台で親友と同じ区間を走れるのだ、良いだろう、その誘いに乗ってやる。ここを走るのは4回目だろう?しっかり俺をエスコートしてくれよ?暁。
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とんでもないスピードで国道1号線の最高点から2人で駆け下る。
キロ2分30秒を切るようなスピード。時速にするとおよそ25㎞。一般人が全力疾走するようなスピードだ。
そんなスピードを出しつつ、右に左にコーナーを最短距離を舐めるように走り、時には観客のほんの1mほどの距離をすり抜けて行く。尋常じゃない。
恵明学園前を過ぎる頃、ふと前を見ると、情報伝達係であろう暁の大学のウインドブレーカーを着た人影が見えた。
その横を通り過ぎるとき、思いもよらない一言が聞こえた。
「成田!!このまま行くと区間賞が見えて来るぞ!!!」
時計を確認すると、設定より速いペースでここまで駆け下ってきたようだ。このまま行くと自滅するのは火を見るより明らかだ。
だが、不思議とこのまま行ける気がした。いつまで持つかはわからないが。
小涌園前の少し手前、また前の選手を1人抜いた。
ああ、毎年ここは定点観測の地点だからちょうどこの先の右カーブを曲がる瞬間でトップとの差を計測したり、通過タイムをとっているんだろうか。などとぼんやりと考えていたら、出迎えてくれたのは大声援だった。
早朝にも拘わらず大勢の人だかり。その中をとんでもないペースで駆け下っていく。
吐く息は白く、Tシャツや手袋の上からも寒さが襲ってくる。じっとしていると凍えるような寒さの中を走り、タスキを渡した選手たちは足を地面に付けられないくらいひどいダメージになるそうだ。
まったく、6区のコースを考えた奴は人間じゃない。
小涌園から宮ノ下の間は坂もキツくなり、スピードが乗る。
そんな中でも暁との並走は続いていた。
コイツとここまで一緒に走るのは中学生ぶりかもしれない。高校生の頃は同じレースに出ることはあったが競り合うようなレベルじゃなかった。大学生になってもそれは同じだった。
2人で先頭を交代しながら同じリズムで走り続ける。不思議と心地よい感覚がする。心臓の鼓動は早くなってきたし、脚にダメージを感じ始めて誤魔化しながら走っている。なんな状態なのに、この時間がずっと続けばいいのにとさえ思う。
大平台のペアピンカーブでまた前の選手を捉えて1人抜いた。止まってるかの如く後ろに過ぎ去っていった。
もしかして、とんでもないペースで進んでいるんじゃないか?そう思い時計を見ると明らかにオーバーペースだ。啓明学園前で確認した時と変わらず、設定よりも早いペースでここまで下ってきた。
このランデブーもあと30分ほどで終わってしまう。そう考えると、1メートル1メートルを噛みしめるように走りたくなる。
けどこれはレースだ。速く走ることが自分に課せられた使命。無視するわけにはいかない。
そして、何よりも暁と出来る限り一緒に走りたい―
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函嶺洞門を過ぎて、箱根湯本まで下ってきた。小田原中継所まであと3㎞程。厳密にはまだ下りは続いているらしいが今までのような急な下りはもうおしまい。ここからは選手には上り坂に感じる―最もタイム差の出るところだ。
箱根湯本駅前の人垣の中を走り、駅の入り口に差し掛かった瞬間。まるで止まったかのような感覚に襲われた。
明らかに進まない。腕を振り、脚を動かす。体をよじり、前傾姿勢になりながらどうにか速度を維持する。
前を走る暁も同じようにもがくように走っている。サングラスで表情は見えないが、きっと俺と同じように苦しい顔をしているのだろう。
ここまで来たのなら、負けたくない。なんとしても勝ちたい。
大歓声が飛び交い、自分の呼吸すらよく聞こえない。息は荒く、サングラス越しに見える赤みのかかった世界は狭く、前しか見えない。
心拍数は上がり切って、酸素の供給が追い付かない。脚もボロボロで、1度動きを止めたら2度と動きそうにはないだろう。
足裏が伝えてくる感触は痛みだ。下り坂で衝撃を受け続けたせいか、1歩1歩着地するたびに痛い。きっとシューズの中では足の爪が死んでいるか、もしくはマメでもできているのだろう。
この日のために作ったオーダーメイドのシューズは恐らくミッドソールはボロボロ。アウトソールも擦り切れて走り終えたら二度と使い物にならないだろう。
満身創痍。その言葉がぴったりだ。
ラスト1㎞。監督車から声が聞こえる。聞きなれない声。暁の大学の監督だろう。声は聞こえているのにそれを言葉として認識できない。頭が上手く働いていないのを自覚した。
そんな中でも、ある一言だけは聞こえた‘区間賞ペースだぞ’。
そうか、区間賞ペースなのか。芦ノ湖ではスタートが同じだったから、きっと俺もそうなのだろう。
仲間のため、チームのため、大学のため。そんなことは今はどうでもいい。ただ暁に勝ちたい―!
白くて馬鹿でかい建物―鈴廣かまぼこ博物館が見えてきた。あそこが中継所だ。その瞬間。暁がタスキを肩から外して手に持った。続いて自分も同じようにタスキを手に取る。
暁の動きが変わった。ラストスパートだ。
体で染みついた動きで反応してついていく。切り替えろ。切り替えろ。余ったエネルギーをすべて使え。
あごは上がり、脚は後ろに流れてフォームはぐちゃぐちゃ。なりふり構わずついていく。中継ラインまで残り100m。暁が半歩前に出る。ダメだ、追いつけない。いや、諦めるな、最後の1mまで出し切れ。
どうにかこうにか並走状態に持って行けた。そのまま中継所までのスパート合戦。意地の張り合いだ。
中継ラインに次のランナーが見えた、暁の大学と、学生連合チーム。
上下緑のユニフォームの7区の選手の元へ全力で走って、タスキを両手で広げる。広げたタスキを取って駆けていく姿を見ながら地面に倒れこんだ。
肩から足の先まで全て痛い。地面に足を付けて立てない。
ふと横を見ると、暁も同じように地面に倒れこんでいた。
チームメイトが駆け寄って来て、肩を担がれるようにして待機場所まで運ばれた。
ビニールシートの上に下ろされたとき、肩を担いでくれていたチームメイトが思いもよらない一言を言った「やった!区間賞ですよ!!」
「嘘だろう?だって暁が前に」
「同タイムだけど、着差あり。お前の勝ちだよ。誠」
暁の声が聞こえた。
声のする方を向くと、そこにはビニールシートの上で仰向けになった彼の姿があった。
「あーあ、負けたよ。すげえな」
「ひっさしぶりに勝てたわ。俺が勝ったんだしラーメンおごってくれよ」
「しっかたねえなあ」
2人揃って精も根も尽き果てて、ビニールシートで立てずに仰向けになって交わす会話の内容もリズムも昔と相変わらず。
心地よいやり取りをしながら、何よりも楽しく興奮した20.9㎞を反芻するのであった。
襷の檜舞台 @manokai800
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