32

 土曜日は、初雪がちらほら舞うほどの寒さだった。やっぱりちょっとバスが遅れて、ぼくは予定していた時間より少し遅刻して市民会館に着いた。


 しまった。この時間じゃ、高科さんはもう舞台袖に引っ込んでるな……


 昨日、彼女は放課後さっさと川村先生のピアノ教室の方に行ってしまったので、彼女の「宿題」の答え合わせが出来なかったのだ。もちろん学校の教室では顔を合わせることは出来たけど……ちょっと、この宿題の答えは、クラスのみんながいるようなところでは言いづらかった。


 いいや。発表会が終わったら、答え合わせ、やることにしよう。


 小ホールに向かうと、ロビーでいきなり、意外な二人の人物に出くわした。


「中田先生……瀬川さん……」


「翔太君」


 二人はぼくに気づくと、同時に笑顔になる。


「そっか。そりゃ、来るよねえ。彼氏だもんねえ」からかうような調子で、先生が言う。


「え、ええ……一応は……」ぼくの頬が熱くなる。それ以上先生に追及させないために、ぼくは瀬川さんに視線を移す。


「瀬川さんは、どうして来たの?」


「当然でしょ。彼女に呼ばれたの。私は、瑞貴の友だちなんだから」


「そうか……」


 友だち、か。そうだな。高科さんの一番の友だちになれそうな生徒は、やっぱり瀬川さんだよな。


「それに、私も昔ここの教室に通ってたからさ。先生もよく知ってるし」


「ああ、そう言えば、そんなこと言ってたね」


「……あ、そろそろ始まりそうだわ。行きましょう」と、中田先生。


「はい」


---


 会場は半分以上の席が埋まっていた。やはり運指が見える、入り口から向かって左側の席が人気のようだ。別にぼくらは運指が見えなくても構わないので、右側の空いている席に、先生、瀬川さん、ぼくの順番で並んで腰掛けた。


 発表会は、幼児の部、小学校低学年の部、小学校高学年の部、中学生の部、高校生以上の部に分かれていた。一番発表者数が多いのが、小学校高学年の部だった。


 だけど、プログラムを見たぼくは、おかしな事に気づいた。


「あれ?」


 中学生の部の発表者の中に、高科さんの名前がないのだ。


「どうしたの?」と、瀬川さん。


「高科さんの名前が、発表者の中にないよ」


「そりゃそうよ。だって彼女は特別ゲストなんだもの」


「ええっ!」ぼくは目を丸くする。


「あの子はね、もうこの発表会で発表するようなレベルじゃないの。なんたって全国レベルのコンクールのファイナリストなんだからね」


「でも、高校生以上の部、っていうのもあるよ? そこで発表する人の中に、彼女より上手い人はいないの?」


「たぶん、いないわね」瀬川さんは、あっさりと言い切った。


「……マジで?」


「マジ」


 ……。


 やっぱ、高科さんって、すごい人なんだ……


---


 壇上に川村先生が登場すると、大きな拍手がわき起こった。やっぱり美人だ。この人には花がある。

 開会の挨拶。そして、審査員の紹介。この発表会はちょっとしたコンクールにもなっていて、ただピアノの演奏を発表するだけの場ではないようだ。審査員は、市民オーケストラのピアニストとして知られている人とか、大学の教育学部のピアノの教授とか、大手ピアノスクールの先生とか、すごい人たちばかりだった。みな川村先生の知り合いらしい。


 ふとぼくは、瀬川さんの向こうから、何か殺気のようなものが漂ってくるのに気づく。


「……!」


 中田先生の顔が、険しくなっていた。これは……戦闘モードだ。ぼくの背筋に冷たいものが走る。なんでこの人、こんなところで戦闘モードに入ってるんだ……?


「どうしたの?」


 ぼくが顔を見つめているのに気づいたのか、先生がガラリと雰囲気を変えて、にこやかにぼくに問いかける。


「い、いえ……何でもありません」


 うーん。


 今のは、見間違えだったのかな……


---


 発表はどんどん進んでいった。正直、みんな素人だから、これはちょっとなあ、というような演奏もあった。でも、学年が進むにつれ、やっぱり技術は上がっていっている気がする。


 ぼくの隣で、瀬川さんはしきりに「懐かしい……」を連発していた。


「私もあんなドレス着てたなあ……でも、いきなり破れちゃってさ……」


「高科さんに縫ってもらったんだろ?」


「そうそう。彼女、今でも裁縫しているのかな」


「わかんないけど、去年の演劇では衣装係してたよ」


「へえ、そうなんだ。だったら、まだやってるのかもね」


---


 途中10分の休憩を挟んで、発表会の全ての演奏が終わった。ここから審査員の先生方による話し合いが行われるのだが、その間、特別ゲストがステージで演奏することになっていた。もちろん、高科さんだ。


 あの時と同じ、白いドレスを身につけお団子頭の高科さんが壇上に登場すると、拍手がわき起こった。彼女はそれに、笑顔で応える。


「あれ……」瀬川さんが驚いた顔になる。「あの子、あんな表情、するんだ……」


 ぼくもびっくりだった。この前のリサイタルの時は無表情だったのに。変われば変わるものだ。だけど……


 無表情な高科さんもいいけど、ぼくはやっぱり今の彼女の方が好きだなあ。ずっと魅力的だ。


 彼女が椅子に座ると、一気に会場が静かになる。彼女は早速演奏を始めた。


 最初は、全然聞いたことのない曲だった。すごくシンプルで簡単そうだけど……優しくて、綺麗なメロディ。


「ぐすっ……」


 鼻をすする音に、思わずぼくは隣の瀬川さんの顔をのぞき込む。


「『野ばらに』……だ……」涙声で、瀬川さんが言う。


「え、野ばら?」


 確かに「野ばら」って、いくつかメロディがあったよな。一番有名なのはシューベルトだ。♪わ、ら、べ、は見ーたーりー、ってヤツ。あと、ヴェルナーだったっけ? ♪わーらべーは見―たりー、ってヤツ。これも有名だ。でも、どちらとも全然違うメロディなんだけど……


「違うよ」と、瀬川さん。「正確に言うと、『野ばらに寄せてTo a Wild Rose』、だよ。マクダウェルの。これ、私が怪我して、発表会で弾けなかった曲なの……私がとても好きだった曲……瑞貴、覚えてたんだ……」


 そう言って、瀬川さんはハンカチを取り出して、両眼を拭う。

 そうか……二人の、思い出の曲だったんだね……

 

 続いて、ショパンの24の前奏曲の、第7番。とても短いけど、割といろんなところで良く聞く曲だ。


「この曲、昔、胃薬のCMに使われてたわよね」中田先生だった。「私にはそのイメージが強烈で……なんか、聞いただけで、胸焼けしてきそう……」


 それを聞いて、ぼくと瀬川さんは苦笑する。


 そして、第8番。この前の練習の時はトチってた曲だけど、今回は見事にノーミスで弾きこなした。


「彼女、ほんと、いい顔でピアノ弾くようになったわね」中田先生が、ぼくらの方に向きながら言う。「前は無表情で、ただ機械のように正確に弾いていた、って感じだったのに。今は、心の底から楽しそうに弾いてる」


「そうですね」


 全く先生の言うとおりだ、とぼくも思う。本当に、彼女は変わった。彼女の演奏自体も、変わったような気がする。なんて言うんだろう、音の響きが以前と違う、というか……


「なんて言うか、君たち二人とも、ほんと難しい子を好きになっちゃったわね」と、中田先生。


「「え?」」ぼくらは思わず先生を振り返る。


「ほら、あの子の彼氏とか親友って、どうみてもピアノだよね。君たちにとっての一番のライバルは、ピアノなのよ。太刀打ちできる相手かしら?」


「「いいんです」」


 ぼくと瀬川さんの声が揃う。


「!?」思わずぼくらは顔を見合わせる。


「え、いいの?」中田先生が、キョトンとした顔でこちらを見る。


「ええ」ぼくは微笑みながら応える。「ぼくは彼女のそういうところが、一番好きなんですから」


 そうそう、と言わんばかりに、隣で瀬川さんが何度もうなずいていた。


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