31

 自分のベッドの上で、ぼくは考え込んでいた。


 なんだか、今日はいろんなことがありすぎた……


 でも、最後に川村先生の言った、「女の成長を妨げるような愛し方はするな」って言葉は、いつまでも心の中に残っていた。


 女の成長を妨げる愛し方って、具体的に、どんなことなんだろう。


 正直、よくわからない。


 だけど。


 少なくとも、彼女の邪魔はしないように、ってことだよな……


---


 次の日の朝。


 「おはよう」


 教室。高科さんの姿を見たぼくは、声をかける。


 「おはよう」


 いつもの高科さんだった。無表情で……だけど、ちょっとだけ、照れてる?


 そして彼女は、小さい声で、言った。


 「昨日は、ありがとう……」


 「……」


 どういたしまして、と言うように、ぼくは右手を振ってみせた。


---


 放課後。


 音楽室に向かおうとする高科さんに、ぼくは声をかけた。


「高科さん、ぼくも音楽室に行っていい?」


「……え?」きょとん、とした顔で、彼女はぼくを振り返る。


「久しぶりに、高科さんのピアノ、ちゃんと聴きたいから」


 そう言うと、心なしか恥ずかしそうな顔で、高科さんがうなずく。


「……いいよ」


---


 高科さんが弾いているのはコンクールの課題曲、ショパンの24の前奏曲プレリュードだった。


 相変わらず、見事な演奏だ。聴き惚れてしまう。


 しかし。


 なんだろう。以前の演奏と、どこか違う。


 まず、彼女の顔だ。いつもの無表情じゃなく、すごく柔らかい表情を浮かべて弾いている。


 そして。


 タッチも、どことなく柔らかくなったような……


 ピアノの正式名はピアノフォルテだって聞いたことがある。弱い音ピアノ強い音フォルテも、どちらも出せるから。今までの彼女は、強い音は強く、弱い音は弱く、という感じで、割とメリハリの利いた演奏だった。でも……今の彼女の演奏には、強くも弱くもない、微妙な感じの音が増えている気がする。そして、それがなぜか、心地よく響く。


 だけど。


 8曲目に差し掛かったところで、いきなり、高科さんの手が止まった。


「どうしたの?」


「ミスっちゃった……どうも、調子狂うなあ……」


 全然気づかなかったけど、ミスしたんだ……珍しい。全くミスタッチのない演奏が彼女の得意技だったのに……


 少し恨めしそうな顔で、彼女はぼくを見る。


「翔太君に見られてると……なんだか、すごく緊張するんだけど……」


「え、ぼくのせい?」


「……わかんない」


 彼女は目を伏せてうつむく。


 うーん。


 ぼくが見てると、ダメなのか……


 その時、川村先生の言葉が、ぼくの脳裏に閃く。


 "女の成長を妨げるような愛し方はするな"


 ……げ。


 まさか……これがそれなのか?


「ご、ごめん。ぼく、後ろ向いてるから!」


 ぼくは慌てて後ろを向く。


「……いいよ、見てても」


「え?」


 ぼくが振り返ると、高科さんが、あからさまに苦笑を浮かべていた。


「そうね、ちょっと気分転換しようか。ジャズ、弾いていい?」


「別に……ぼくの許可がいることでもないと思うけど……」


「翔太君、前にわたしのジャズピアノを聴いてみたいって言ったの、覚えてる?」


 あ……!


 そう言えば、そんなこと、あったなあ……忘れてた。確か、通算二回目のデート、初めてキスした時のことだ。


 高科さん、覚えててくれたんだ。


「そうだったね。じゃ、お願いします」


 ぼくがそう言うと、すぐに彼女は弾き始めた。


 全然知らない曲だ。なんか、あんまりジャズっぽくないような気もする。でも、ロマンチックで綺麗な曲だ。


 演奏が終わった。


「いい曲だね。なんて言うの?」


「これはね、バド・パウエルの……やめた」


「え?」


「宿題。曲名、調べてきて。それが、今の……わたしの気持ちだから」


「???」


 ぼくは首をひねる。


---


 久々に、ぼくは高科さんと並んで帰り道を歩いた。吐く息が白い。もうすぐ冬が来るんだな。


「美玖ちゃんと、今日、話したよ」


 いきなり高科さんが口を開いた。


「ええっ?」


 いつだろう。あ、でも、そう言えば昼休み、彼女が教室にいなかった時があったな。彼女が昼休みに教室以外の場所にいるのは珍しいことなのだ。


「彼女、昨日わたしが倒れたこと、今日初めて知ったんだって。すごく心配してた。それで……また昔みたいに話しよう、って言われた。わたしもね、いいよ、って言ったんだ」


「そっか」


 よかった。


 彼女は、どんどん変わっていく。ぼくも頑張らないとな。


 あっという間に彼女の家についてしまった。もっと一緒にいたかったけど、仕方ない。


「ねえ、翔太君」足を止め、彼女がぼくを見上げる。


「な、なに?」


 いきなり、ペコリ、と彼女が頭を下げる。


「ごめんなさい。わたし、翔太君にすごくひどいこと言ってしまいました」


 でも、すぐに彼女は姿勢を戻し、少しバツの悪そうな顔で……そして、懇願するような目で、ぼくを見つめる。


「だけど……こんなわたしで良ければ……また、よりを戻してくれますか?」


「……」


 よりを戻す、なんて……恋愛に疎そうなのに、そういう言葉は知ってるんだな。


「戻すも何も……ぼくは最初から、よりがほどけたとは思ってないから……」


「よかった」心底ほっとしたように、彼女は息をつく。「これからもよろしくね」


 そう言って微笑んだ彼女に、ぼくも笑顔を返す。


「ああ。こちらこそ」


 ふと、高科さんが何かを思い出したような顔になる。


「あ、それと……川村先生の教室の発表会、今週の土曜日なんだけど……翔太君、来るって、約束したよね?」


「あ、ああ……そうだったね」


 やばい。忘れてた。


「場所は、この前の先生のリサイタルと同じところ。わかるよね?」


「ああ」


「じゃ、また現地集合って事で。よろしくね」


「うん。わかったよ」


「それじゃ、バイバイ。また明日」


「ああ。またね」


 彼女が、また明日、って言ってくれる。それだけで、こんなに嬉しいとは……


 ぼくに背を向けて玄関に入ろうとした彼女が、急にまた振り返る。


「あ、宿題。忘れちゃだめだよ」


「ああ、分かってるよ」


---


 家に帰って、ぼくはパソコンに向かい、ひたすら動画サイトでバド・パウエルが演奏した楽曲を検索した。


「Cleopatra's Dream」……違う。「A Night in Tunisia」……違う。「Tea for Two」……違う。「April in Paris」……う、ちょっと似てるかも……だけど、多分違う。「Un Poco Loco」……全然違う。


 ダメだ……全然見つからないよ……せめて録音できてればなあ。そしたら楽曲検索ですぐ見つかったかもしれないのに……あ、でもそれじゃカンニングになっちゃうか。「宿題」だもんな。ズルしちゃいけない。


 何曲再生したのか、もう忘れた頃だった。少し休もう、と思ってそのままパソコンを放置していた、その時。


 突然スピーカーから、高科さんが弾いたあの曲が流れてきた。自動再生をオンにしていたので、自動的に「次の動画」が再生されたのだ。


「!」


 これだ! 間違いない。このロマンチックなメロディ……美しく響く和音。とうとう見つけたぞ!


 へぇ。ピアノ以外の音が聞こえてこない。オリジナルもピアノソロなんだ。


 これ、何て曲なんだ?


 タイトルを見た瞬間、ぼくは息を飲んだ。


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