14
「ねえ、翔太君」
皆が帰った後で、先生がにこやかに言う。
「はい」
「どうやら君は今、人生の中でもかなりのモテ期に突入しているようね」
「そうなん……でしょうか?」
「瀬川さんの気持ち……気づいてる?」
「あ、ええと……その……まあ、なんとなく……」
といっても、気づいたの、今さっきなんだけど……
「そう……ま、私も、あんまり生徒のプライヴェートに立ち入るのもなんだなあ、とは思うんだけどね……でも、これだけは言っておくわ」
次の瞬間。
先生の表情が、すうっと般若のような顔に変わる。吊り上がった両眼が、まるでぼくを鋭く射貫いているかのようだ。ピン、と殺気が張りつめる。
「いいか、二股は絶対すんじゃねえぞ。ああ? 分かってんだろうなゴルァ!」
ドスの効いた低い声。思わずぼくは震え上がった。めったに見ないこの人の、戦闘モードだ……そう言えば、この人、合気道の有段者だって聞いたことがある……
「は……はい……」
「そう。いい子ね」あっという間に先生はいつもの声、いつもの笑顔に戻る。「それじゃ気をつけて、帰ってね」
「はい。先生、さようなら」
「はい、さよなら」
先生はにこやかに手を振った。ぼくはお辞儀をして、彼女に背を向ける。
怖かった……
絶対に、二股はやめよう……ていうか、そもそもぼくにそんな器用なこと、できるとも思えないけど。瀬川さんも決して魅力的でないわけじゃないが、ぼくはあくまで高科さん一筋だ。
それにしても……
中田先生、過去に彼氏に二股された経験でも、あるんだろうか……
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「なあ、翔太」隆司が言う。「おまえ、あの後先生と何話してたんだよ?」
帰り道。久々にぼくは隆司と一緒だった。高科さんは今日はピアノのレッスンがあるとかで、川村先生の教室に行っているのだ。
「別に。シナリオの解釈について、少し聞かれただけだよ。でも特に変更の必要はないってことだから」
ぼくは嘘をついた。さすがに彼にあんな話はできない。
「そうか」
隆司は短く応えた。あまり納得しているようには見えないが……ひょっとして、嘘がバレた?
それにしても、何で隆司がそんなことを気にしているんだろう。
ぼくは不意に、思い当たる。
そうか……
こいつは中田先生が好きなんだった。だからぼくが先生に呼ばれたことを気にしてたんだ。
ぼくはてっきり、先生に対する隆司の思いは、よくあるアイドルとかに対する憧れの気持ちみたいなものなのかと思っていた。だけど……こいつ、意外に本気で先生のこと、好きなのかも……
でも、中田先生は……さっきの一件もそうだけど、やっぱり、なんかいろいろ抱えているような気がする。そうだよな。ぼくらの2倍近く生きてる人なんだもんな……そりゃいろいろあってもおかしくないよな……
どう考えてもぼくらくらいの年代の子供がどうにかできるような感じじゃなさそうなんだけど……隆司、難しい人を好きになっちゃったな……
いつの間にか、彼の家とぼくの家の分かれ道に来ていた。
「明日から通し稽古していかないとな。頑張ろうぜ。じゃあな」
微笑みながら隆司はぼくに手を振る。
「ああ。じゃあな」
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文化祭まであと三日。瀬川さんの演技もかなり良くなり、通し稽古も十分できるようになった。だけど……ここでまた、問題が起きた。
ミュージカルだから歌ったりダンスしたりするシーンが当然あるわけだが、本番の伴奏はもちろん高科さんのピアノ生演奏になる。だけど、音楽室や体育館など、ピアノがあるところでいつも練習できるわけじゃない。なので、通し稽古の時は音源をCDラジカセで流しながら歌やダンスシーンの練習をすることにしていた。
でも、さすがに日が近くなってくると、高科さんの伴奏で同じようにできるかが心配になってくる。もちろん高科さんのピアノの腕前は信じているけど、音源と全く同じように弾けるかどうかは、分からない。
それに、歌う人のキーの問題もある。カラオケでもそうだけど、キーと演奏が合わないと上手くは歌えない。たぶん高科さんくらいの腕前なら、キーを変えた演奏もそんなに難しくはないと思う。でも、ぶっつけ本番ではさすがに彼女でもキーを変えるのは難しいだろう。だから、やっぱり高科さんの演奏も入れた形で何度か通し稽古をしておくべきだ。
これは隆司も中田先生も、キャストのみんなも同じ考えだった。だけど……体育館は本番と同じ環境なのでどのクラスもを使いたがるため、使える時間が厳密に決められている。実際のところ、文化祭前に通しで一回練習できるかどうか、くらいの時間しか使えないのだ。
音楽室は音楽室で、文化祭のもう一つの目玉である軽音楽部と吹奏楽部のコンサートのため、放課後はその二つの部活がずっと代わりばんこに独占して練習している状態だ。とてもぼくらが使える状態じゃない。
困った。どうしたらいいんだろう。
みんなでこの問題を考えよう、と放課後の教室に集まっていた、その時。
「別に、キーボードでもいいよ」
「!」
驚愕の表情で、みんながいっせいに高科さんの方に向く。教室での彼女との会話は、大抵話しかけられてから彼女が必要最小限の応答を返す、というのがいつものパターンで、彼女の方からいきなり話し出すなんて、まずありえないことだったのだ。
高科さんはさらに続ける。
「61鍵あれば十分だと思う。わたしは持ってないけど……誰かキーボード持ってる人、いない? いたら貸してもらえれば、この教室で演奏できるよ」
みんなが顔を見合わせる。
「49鍵のなら、あたしの家にあるけど」
そう言ったのは、大道具係の森川さんだ。
「うーん……49だと、ちょっと厳しいなあ……ほんとは61でも微妙なところなんだよね」
「そっかぁ……」
高科さんが顔をしかめながら言うと、森川さんも残念そうに目を伏せてしまう。
その時だった。ぼくの脳裏に、閃きが走る。
「あ、そうだ! 軽音にキーボードあったよね? それ、借りられないかな?」
ぼくは隆司に向かって言う。だけど、彼は横目でバカにしたような顔をしながら応える。
「あのなあ。お前、軽音が今それを使ってないとでも思ってるのかよ。練習で毎日使ってるに決まってるじゃねえか」
そうだった……よく考えれば、そりゃそうだよな……
ぼくが、がっくりと肩を落とした、その時。
「ん……待てよ」隆司が何かを思い出したように、首をかしげる。「そういや部室に、使ってない壊れた昔のキーボードが一つあったな。翔太、お前、直せるか?」
「え、ええっ?」
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