第17話 それはまだスタバが珍しかった頃。

「ハコザキ君、のよりさんに、あんた達のことは……」

「言ったことは無いよ。だってあいつは、俺がそうだったように、ごくごくまともな奴なんだ。俺が男に抱かれてるなんて、想像もできないだろうさ。それが普通の女の子の反応って奴じゃない? 美咲ちゃん」

「普通の」

「そうやって言ってしまうと、美咲ちゃんには失礼かもしれないけどさ。それでも、俺だって、奴に会うまでは、奴にそうされるまでは、そんなこと、考えもしなかったし、訳判らなかったよ? だけどそれでも何か」


 彼は口を閉ざした。 

 私は言う言葉を無くした。

 ただ、兄貴が男ともそういう関係になれる、ということを認識して以来、私は別にそれを何とも思わなくなっていたことは確かだ。ああそう言えば、普通の子は、だいたい忌み嫌うか、好奇の目で見るんだよな。思い出した。

 だって。半分ほどコーヒーが残ったマグカップを持って、私は六畳の方へと移動する。南向きの部屋には、だんだん夜明けの光が斜めに射し込んでくる。

 音を消える寸前まで小さくして、TVを点ける。何処の局だろう。だらだらと空模様などを映しながら音楽が流れている。今日は一日、いい天気になりそうだ。

 そういえばさっきコーヒーを入れた時、豆がそろそろ無くなりそうだった。買い足しに行かなくては。ベリーの入ったスコーンも欲しい。サラダは今日は何するんだろう。誘ってもいい。そうだ誘おう。男との約束が無ければいいけど。

 そんなことを考えながら、ベッドに背をもたれさせてコーヒーをすする。時々ちらちら、とキッチンの方を見ると、背もたれに腕を掛けて、ぐったりともたれていた。ワゴンの上にマグカップは置かれたままだ。

 眠ってしまったのかな、と思ったら、私にもまた、眠気が少し襲ってきた。


 再び目覚めた時、時計の針は十時を指していた。あれ、と私は身体のあちこちが痛いのに気付いた。変な姿勢で寝付いてしまったから、下になった部分がややしびれている。既に太陽はかなり上にある。何処に行っても店は開いている時間だ。


「あ」


 キッチンの椅子の上には、まだ彼が同じ姿勢で眠っていた。大丈夫なのだろうか。おそるおそる近づいてみると、驚いたことに、ぐっすりと眠っていた。

 起こすべきか。少し迷う。しかしお出かけもしたい。とりあえず玄関に向かった。サラダに今日暇かどうか訊ねなくては。できるだけそうっと、扉を開けたつもりだった。

 ぴんぽんぴんぽん、とチャイムを鳴らす。


「あ、おはよー」


 あっさりと彼女は出てきた。頭にバンダナを、手には軍手をつけている。そして部屋の中のにおい。


「あんたまた、ペンキ塗りしてるの?」

「だって今日いい天気だしー。見て見て、こないだ、いい感じの椅子を拾ったんだー」


 驚いてはいけない。「大きなごみ」の日に彼女が何かと抱えてくることはある。それが部屋と趣味に微妙に合わずに、次の時にはまた出しに行くことも。どうやら今回持ってきたものは、彼女の趣味と、この部屋の広さにも釣り合ったらしい。


「へえ、結構がっちりしてるじゃない」

「うん。でもさすがに座るとこが汚れてたしねー。まあだから皮を張り直して、足と背白くしようと思ってさー」


 なるほど。私は塗り直された椅子をまじまじと見る。そう言えば私もその「大きなごみ」の前を通り過ぎた記憶がある。


「で、ミサキさんどしたの? 朝ご飯のお誘いにしては遅いし」

「ところがそれなんだよね」

「朝ご飯は食べちゃったよー」

「別に食わなくてもいいって。あそこのコーヒーショップにつきあって欲しいの。豆も切れたし。ついでに」


 ああ、と彼女はうなづいた。


「そぉいうことならいいよー。あたしも行きたい」

「じゃあ着替えてくるわ。あんたも五分で用意してよ」

「五分ーっ」

「一番近いとこだよ。いちいち顔作ってく?」

「じゃなくて、ペンキ」


 ああ、とうなづいたのは今度は私だった。


「三十分待って。そしたらいいとこまで塗ってしまうから」

「三十分ね。じゃあそしたらうちに来てよ」

「はーい」


 自分の部屋に戻ると、TVの音が聞こえてきた。音量が上がっている。


「お帰り」

「ただいま…… じゃなくて」


 六畳の方で、ハコザキ君はぼんやりとTVを眺めていた。

 土曜の朝の番組は、ローカルな情報番組だったりすることが多い。そんな他愛もないローカルな名所やらショップを、けたたましい女性アナウンサーが紹介している。彼はそれを見ているのか見ていないのか、どちらとも言えない視線で、ぼんやりと眺めていた。


「ねえ、ハコザキ君お腹空かない?」

「え?」

「もう少しして、隣の子が来るから、そしたらちょっと、朝ご飯食べに行こうよ」

「って俺、お金」

「だからあなた、借りに来たんでしょ? ついでよ。駅近くのコーヒーショップだから、ついでにそこから帰ればいいわ」


 ありがとう、と彼は言った。


「電車代だけ? 足りる?」

「うん。うちの最寄りの駅からは歩いてそう掛からないからね」

「なら良かった」


 本当に。


「で、ハコザキ君、兄貴には今日はもう、会わない気?」

「今日、というか」


 彼は苦笑する。


「俺はクビになったんだよ。ようするに。だったら、そうそう簡単に顔を合わさない方がいいよね」


 あっさりと言う。


「でも昨日そういうことがあったばかりじゃない」

「彼が俺をバンドに連れ込んだのも唐突だったよ。同じ勢いがあったもの。俺には予想がつく。のよりがどう出るかは判らないけれど…… ケンショーの勢いに、あいつが呑まれないなんて保証はないんだ」

「勢い、でそうなってしまうの?」

「美咲ちゃんは、あいつの勢いが絶対に掛からないひとだからさ、そう言えるんだよ」


 私は眉をしかめた。


「ケンショーにとってはさ、声なんだ。結局全部。声さえ気に入ったら、外見も性別も何も関係ないだろ。その声が欲しくてこれでもかとばかりに迫るんだ。だけど、手に入れられないのは困るから、無理強いはしない。手に入れることが、何よりも大切だから、それが駄目になってしまうようなことはしないんだ。あれは天性だよね」


 ……そう…… なんだろうか。私はそんな兄貴の姿は知らない。


「で、結局、ほだされてしまうのは、こっちなんだ。俺が、そうなってしまったんだぜ? のよりは女だ。男の俺すらそうなってしまう勢いだっていうのにさ、のよりがそれを拒めるとは思わないよ。別にケンショーは嫌いなタイプじゃないんだ。あいつ」

「そうなの?」

「だから、美咲ちゃんには絶対に掛からないから」


 だから判らないんだよ、とハコザキ君は続けた。それは、私が彼の妹だから、ということだろうか。それとも声が対象外、ということだろうか。

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