魔煙の匣

開匣

 19世紀、ロンドン東部の下町、とある安アパートの一室。


 開け放した窓から吹き込む煙混じりの風は、テーブルに置かれた新聞紙を動かす。

『Serial murder』『Don't open the window!!』などの文言が並ぶ紙面は裏返り、床に落ちて濡れた。

 赤い血溜まり、モルタル壁に迸る飛沫。横たわった娼婦の女の眼に光は無く、呼吸を止めてただの肉塊と化している。喉を掻き切られ、臓腑を抜かれているのだ。

 娼婦が同じ手口で殺されたのは、これで三例目だ。先週は街角の裏路地で、一昨日は住宅地の庭で。


 〈魔煙〉が見えたら、窓を開けてはいけない。

 ロンドンを賑わせる連続殺人事件について、人々はやがてそのような噂をするようになった。

 近頃、民家の煙突や工場から吐き出される煙が空を覆う日が存在した。不吉の予兆か、その日に人が殺されるのだ。

 紫の煙が霧のように街角を囲う時、闇に乗じて殺人を犯す者がいるのか? 人々は疑心暗鬼に陥り、やがて自衛策は共通見解へ変わっていく。その日は外に出ず、家を完全に閉じて明日を待つのだ。

 皆が煙の日に往来を歩くことを避けた。それが自殺行為であることは自明だからだ。たとえ、それが高所作業をしている煙突掃除夫の少年だったとしても、本来なら仕事をすぐに終えるべき事態だったのだ。


    *    *    *


 粗く組まれた煉瓦を掴み、ジャレドは自らの腕に力を込めた。背負ったブラシが狭い煙突内に引っかかり、背中を擦る。命綱代わりになってはいるものの、やはりそれだけでは心許ないのだ。彼は腕力で身体を支えつつ、空いた片方の腕で煙突内の煤を払い落とした。

 手足の傷はとうに痛みを感じなくなった。親方に擦り込まれた塩水によって痛みに耐えうる皮膚になっていたし、何度も煙突に入りながらも大きな怪我をしてこなかったからだ。ジャレドは手慣れた仕草で煉瓦を移り、煤を落とし続ける。


「旦那ァ、申し訳ないですねェ。銅貨だけじゃなく、メシまでご馳走になるとは思いませんで……」

「構いませんよ。ちょうど聴きたいお話もありますし、ゆっくりしていただいて……」


 足元から響く家主と親方の談笑を耳にしながら、ジャレドは空に向かって深く息を吐いた。空腹を忘れるには、ロンドンの空気は汚れすぎている。肺に入りそうになる煤を咳で払いながら、厚い雲を静かに睨む。


 今回ジャレドが煙突掃除をする家は、一人暮らしの紳士が暮らす邸宅だった。家主を名乗る没個性なスーツを着た痩せぎすの男は、仮面のような作り物の表情が特徴的だ。山高帽を浅く被り、豪奢な意匠の施された匣を背負っている。

 新聞広告を見て依頼をしたというその紳士は、にこやかな声色で報酬の前払いを約束した。親方が媚びだしたのは、そこからだ。


「彼、とても手際が良いですね。高所に挑む上でのおそれがない。かなり場数を踏んでいると見受けられますが……」

「当然でしょう、あいつがガキの頃から俺がシゴいてますので。孤児だったあいつの育ての親みたいなものですから……」


 当時のロンドンで児童労働は当たり前の出来事で、数年前に出来た救貧院ワークハウスで強制的な労働奉仕をするか、命の危険のある煙突掃除をするか、貧しい児童に選択の余地はなかった。

 親に売られ、幼い頃に親方に引き取られたジャレドにも選択権はなく、日々の仕事で日銭を稼ぎながら生活するしかない。搾取されている、という自覚は心のどこかにあったが、生活の為には仕方のないことだ。ジャレドはそう自らを納得させ、次の煉瓦を掴んだ。


「……最近じゃあ、ここいらの治安も悪いですからねェ。〈魔煙〉でしたっけ」

「あぁ、例の娼婦が連続で怪死したとかいう。やはり、煙突掃除の仕事に影響はあるんですね?」

「へへ、良い影響ならいいんですが……! ただ、あの煙に当たれば望みが叶うなんて噂も有りまして。あやかりたいものですねェ……!」

「……〈金喰い〉の話ですね。マンチェスターの工場主が、胃に金貨を詰めて死んだとか。倹約家で有名な人でしたね」

「魔煙が出てから急に儲けだしたんですよ? 俺は何か、悪魔にでも魂を……」


 ジャレドは自らの身体の震えに気付き、息を整えた。そんなはずはない。あれが望みを叶える代物なら、あんな事態は起こらないはずだ。自分には関係ない。娼婦など、なにも知らない。

 ブラシを振って脳内で巡る不安を誤魔化し、ジャレドは上へ上へと渡り歩いていく。早鐘を打つ鼓動をなんとか鎮め、閉塞感から脱しようと煙突から首を出す。視界に広がる一面の暗い煉瓦屋根と灰色の石畳が、彼の昂った気分を一瞬だけ落ち着けた。


 遠くの教会で鐘が鳴る。短いストロークで何度も叩かれ続けるのは、危険を知らせるサイレンだ。視界の端にある邸宅やアパートから順番に窓が閉まっていき、歩道を歩く人々は逃げるように家に飛び込んでいく。

 例の〈魔煙〉だ。テムズ川を挟んだ工場や邸宅の煙突から紫の煙が昇り、空を覆いはじめる。


「親方ァ! 煙が……魔煙が出ました! 降りていいですか!?」


 親方の返事はない。仕事を続けなければならないという事だろう。ジャレドはそう判断した。自らの意思で降りようものなら、仕事を投げ出したと見做されて食事抜きの罰が待っている。

 ただ、不吉なだけだ。何も考えずに仕事に没頭すれば、煙はすぐに晴れる。それなら、初めて見た日と同じように煙突掃除を黙々と行えばいい。ジャレドはブラシの柄を握り、タータンチェックのシャツの襟で頬の煤を拭った。


 数分後、煙は既にジャレドの頭上に広がっていた。彼は息を止め、黙々と煙突の内壁をブラシで擦り続けている。

 既に煤が落ちているのはわかっていた。それでも腕を動かし、時間を過ごさなければならない。ジャレドは不安を心の奥に閉じ込め、変化が起きるのを待った。


 直後、彼は変化を望んだことを後悔した。

 獣の猛るような咆哮が響き、暴風めいて翼をはためかせる音が耳をつんざく!


 思わずジャレドが見上げた空に、巨大な体軀が映る。

 厳しい顔相は尖った鱗や棘に覆われ、獰猛な牙は凡ゆる生命を屠りうるほどに鋭い。その下に伸びる頸椎は強靭で、くびを支える巨大な四肢は彼が目を見張るほど大きく、肥えていた。

 ドラゴンである。伝承や御伽話で幾度となく語られた虚構の存在を、ジャレドはその眼で目撃しているのだ。

 魔煙から頸を出すドラゴンは煙の奥の地面を睨め付け、喉を鳴らす。煙突の中に人間が入っていることなど気にしていないのだろう。ジャレドはなるべく気配を消し、突如として現れた異物の様子を窺った。


「なるほど。古来から財宝を守るのはドラゴンだ、と。その割には、随分と宿主に可愛がられていたんですね……!」


 それは煙の奥から響く、聞き覚えのある声だった。地鳴りのようなドラゴンの呼吸音に遮られても不思議ではない人間の声が、魔煙越しに垣間見ているジャレドの耳にしっかりと届く。

「生憎、此方こちらは強欲で悪食な新世代でして……。なぁ、メフィストフェレス。奪えקח משם


 眼をギラギラと輝かせ、ドラゴンは巣穴に首を突っ込む猟犬のように頸を下ろした。槌を叩きつけるように顎を落とし、煙の下に潜む男の息の根を止めようとしているのだ。


 肉が裂ける音、苦悶の声。


 魔煙の中、ジャレドは巨体が少し揺らいだことに気付く。地上から現れた漆黒の異物が、ドラゴンの肩口を狙っていた。

 それは、蜘蛛によく似ているのだ。


 ドラゴンは唸り、自らの鱗をぽとり、ぽとりと剥がしていく。

 魔煙から伸びた蜘蛛の爪脚めいた物体が身体に突き刺さり、ドラゴンの存在を構成する要素を分解しているようだった。鱗は空中で金貨に変わり、肉片は宝石となって地面に落ちる。“生きた宝物庫”が、暴かれていく瞬間だ。


 地上に引き摺り込まれるようにドラゴンが姿を消したと同時に、魔煙は徐々に薄くなり、空は晴れていく。石畳には煌びやかな宝石や金貨が転がり、そこに『何か』が立っていた。

 煙突から頭を出していたジャレドは、その姿に目を離せないでいた。没個性的なスーツに山高帽、背負った匣。家主である紳士だ。

 匣から漏れ出る瘴気は濃く、黒い爪脚が匣に格納されていく。何かが、中に入っていたのだ。


 紳士は周囲を見渡し、口角を吊り上げるようにわらった。その視線と交錯したジャレドは再び煙突に身を潜め、一部始終を見てしまったことを後悔する。紳士の瞳は、ヒトのものではなかった。

 “悪夢”と片付ければ楽であるのに、彼の脳は見たものを真実だと捉えてしまう。魔煙の中のドラゴンも、匣の中のおぞましい『何か』も、紳士の山羊のような横長の瞳孔も。

 かたり、と背後から聞こえる音が、ジャレドを現実へ引き戻す。命綱代わりだったブラシが、組んだ煉瓦の隙間から滑り落ちたのだ。

 まずい。そう思った瞬間には、彼の身体は宙に浮いていた。あとは重力に従うように、勢いをつけて自由落下していく。その身体が燃え残った薪の山に叩きつけられる前に、彼の意識は薄れていった。

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