第12話


今しがたまで小娘が立っていた場所を、じっと、ただじっと見つめた。

人とは、いつの時代も阿呆ばかりだ。

こうしなければならないとわかっていながら、最後に感情で動いてしまう人が、オベリオンはこれまでもずっと、よくわからなかったのだ。

今ももちろんわからない。


だから余計にあの娘に冷たくあたってしまうのだろう。


人というものは、精霊と違って脆くか弱い。その人を守ろうとする人もまた弱く、すぐ手のひらを返す。

ただ、それだけではないことをオベリオンは知っているのに。


『なあ、オベリオン。百合、可愛いだろ?』

《……》

『だよな、可愛いよな!』

《……》

『てことで、百合に祝福してくれるな!』

《待てっ!何故そうなるっ⁉︎》


産まれたばかりの愛娘を溺愛する彼に、結局言われるがまま祝福をほどこしてしまった自分は、その頃だいぶ絆されていた。

触れれば壊れそうなほど繊細な生き物が、オベリオンを視界に入れて花のように笑い、その愛らしい小さな手のひらで、オベリオンの手を握る。

成長すると今度は、したったらずなその口で「おべりよん」、そう呼ばれるたびに何故だか心が満たされた。


さらに成長すると、


「わたし、オベリオンのお嫁さんになるっ!」


そう言われて悪い気はしなかったが、愛娘を溺愛する父親は、「父親が言われたい言葉No. 1をっ⁉︎」と、恨めしそうにオベリオンを見ていたのは何故だったのか。

それからまた月日が過ぎて、涙を堪えきれずに肩を震わせる母親によく似た少女が、オベリオンを睨みつけていた。


「オベリオン。…わたし、あなたが本当に好きだったのよ。でもどうやっても、あなたのお嫁さんになれないじゃないっ!……もう、わたしに優しくしないでっ!」


あたりまえだ。

オベリオンはティティアと夫婦なのだ。

精霊女王と精霊王という、世界の秩序を護るものだ。

むしろ精霊王に本当に嫁ごうとしていたのかと、驚いた。

優しくするしないにしても、した覚えはないが、祝福を授けた以上何かと世話は焼いた気がする。

それに、彼女を甘やかしたくなるのは、自分の頭がおかしいだけなのだろうか。

そう聞けば、ティティアは珍しく目を丸くして、その後声を立てて笑っていた。


〈あら、なにもおかしくないわ。きっとそれぐらい大切ってことよ。人の父親ってそういう感情なんじゃないかしら?〉


その言葉はするりとオベリオンを納得させた。

彼がどうしてあれほど愛娘を溺愛しているのかがわかってしまったからだ。


それからまた月日は過ぎて、母親に似て愛らしい娘に成長した少女は、その頃からオベリオンもましてや自分の父親に対しても、冷たくなった。

もちろん彼は落ち込んでいたが、オベリオンもどこか気分が重たかった。

それが反抗期だと教えてくれたのは、少女の母親だった。


「オベリオン大丈夫よ。世の中の父親たちはみんな通る道なんだら。これが世に言う反抗期ってやつねっ!」


昔から変わらない笑顔で、彼女は力強くオベリオンを背中を叩いていた。


こんな穏やかな日常が、ずっと続くのだろうと、そう思っていた。


ーーそう。娘のような彼女の腹に、その小さな命が宿るまでは。





〈ーーオベリオン?〉

〈…!〉


呼ばれてハッと振り返った。

虹色の瞳が訝しむように細められた。

だがそれも一瞬で、彼女は呆れたようにため息を吐き出した。


〈貴方、結局何がなさりたいの?〉


それを聞きたいのは、まさに自分自身である。

オベリオンも自身のことながら、呆れてしまっているのだ。


〈……盗み見か〉


どうりであの娘のことになるといてもたってもいられないティティアが、いつまでも出てこないはずである。


〈人聞きの悪い言い方はおやめになって。エミを傷つけるようなら、いつでも出るつもりでしたわ〉


ですけれど、とちらりとティティアは意味ありげな視線を寄越した。

その視線から逃れるように、オベリオンはティティアから視線を逸らす。


〈知っていらっしゃる?人の世の中では、目を逸らした方が負けという例えがあるらしくてよ。そうなると、貴方の負けでございますわね〉

〈……なんだそれは。そもそも誰も勝ち負けの話はしていない。人とは本当阿呆な生き物だ〉

〈あら、そうかしら。だって貴方も十分わかっていらっしゃると思っていましたけど〉


だって、とティティアは首を傾げた。


〈貴方、結局エミを最後まで突き放さないんですもの。それってとっても人らしいでしょう?〉


困ったものを見るような眼差しで彼女は微笑み、オベリオンは不満そうに眉を釣り上げた。

何か言い返そうと口を開いてから、やめた。

ここで何か言い返す方が、よっぽど人らしいと思ってしまったからだ。


それを見て、ティティアがオベリオンの右手を優しく握った。


〈オベリオン〉


鈴が鳴るように、軽やかな声が自分の名を呼ぶ。


〈あの時、わたくしを地上へ行くなと止めたのは、わたくしを護るためだった。けれど、本当は自分を抑え込むためでもあったのでしょう?〉


オベリオンは何も答えなかった。

そのかわり、握られた手のひらに力が僅かにこもる。それが答えだというように。


〈貴方は本当、素直じゃありませんわね。やりようのない悲しみを向ける場所が、わからないまま今日まで来てしまったのだから〉


アルフォンスがなくなった日。

ティティアが嵐を起こさなければ、きっとオベリオンが嵐を起こしていた。

むしろ世界を壊しかねなかった。


〈……ティティア〉

〈なんですの〉


名前を呼ぶと、優しげな返事が返ってきた。


〈君はアルフォンスが亡くなった理由を知っているか〉


オベリオンは、ずっとそこから目を背け続けていた。

彼女は瞠目して、それからその虹色の瞳をまつげで伏せた。


〈…知っているわ〉


そうか、ただそれだけオベリオンは返した。

知っていて、これから困難の淵に立とうとするあの娘を、それでも助けようとするのか。

それは、まさに阿呆のする事だ。

だがと、オベリオンは世界樹ユグドラシルに金の瞳を向けた。


きっと自分もその阿呆に成り下がるのだろう。


ーー友が命がけで残した者を護るために。




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