第10話
その光に誘われるように、絵美はまつげを震わせて目を覚ます。
「…おばあちゃん……」
自分が創り上げた虚像のはずが、最後の言葉が耳に残って離れない。夢の中の出来事なのだとからと思うものも、手のひらに残る感触も、全てが本当であったかのようにぬくもりが残っていた。
ぼんやりとしていた意識が次第にはっきりしてくると、絵美は銀の瞳を見開いていく。
視界の端を淡い光の玉が、ゆらりと通り過ぎて行ったのが見えた。それは一つではなく、数えきれないほどの光が溢れている。
黄昏色の世界を見て、ここが何処だか悟った。
「ーー…精霊の国、メディウーム…」
凛音が語っていたように、飛び回る光はまるで夜空に輝く星々のようだった。
これが全て小精霊たちだという。
光は絵美の頬を撫でていくと、今度は遊ぶように髪をさらっていく。
(何で、あたし…ここに?あんまり腹が立って怒鳴ったところまでは覚えてるんだけど…そこから先は覚えてないなぁ……)
ということは、気を失ったということで間違いはないだろう。先ほどまで夢を見ていたのが何よりの証拠である。
ただなぜメディウームにいるのか。答えはまったくわからない。
ひどく重たい身体を起こしながら、絵美は周りを見渡した。
見渡す限りの木々へ小精霊たちが集まって、まるでクリスマスツリーのようにも見える。黄昏の薄闇がその小精霊の光を外灯代わりに、世界を照らしていた。
一歩踏み出した足が、水を弾いた音を響かせる。
(本当だ…)
メディウームの国は、何処もかしこも湖の上なのだと、見たこともない七色の魚など不思議な生き物が透明な水の中を好き勝手泳いでいると、話には聞いていたがこの目で見ると驚きは果てしない。
こんな美しい世界があっていいのだろうか。
そう思わせるほど不思議で幻想的な、どこを切り取っても絵になる美しさがあった。
ゆらりゆらり飛び回る光がそのうち絵美に寄り添うように近づいて来ては離れ、近づいて来ては離れを繰り返した。
「……、ついて来て欲しいの?」
不思議に思った絵美の呟きに、まるでそうだとでも言うように光は一度ぐるりと一回転すると、絵美の前方を照らすようにして飛び始めた。
その光を見つめて、絵美は恐る恐る歩み始めた。
景色はそう思ったほど大差はない。
けれど少し視線をずらせば、色取り取りに咲き誇る花々や、幻獣と呼ばれる動物たちが垣間見えた。
(ああ、なんてこと…)
うずく指先がプルプルと震えだす。
手に鉛筆や筆を持たない生活を始めて、もう2週間もたつ。そろそろ禁断症状に、どうにかなってしまいそうだ。
夢のおかげもあるのか絵美の気分はだいぶ上昇していたのも相まって、描きたい衝動が限りなく極限にまで達していた。
むしろ先程まで黄金の林檎や魔人など、絵美の中ではもう記憶の彼方に置き去りにされている。
そして。
辿り着いた場所を見て、絵美は感嘆のため息をもらした。
これまで歩いて来た場所よりも多くの小精霊の光が漂い、優しい光が辺りを照らして映し出す。それは母なる樹に寄り添うがごとく、否、もしかしたらまだ生まれたばかりなのかもしれない。
大きな大木は紅い実を実らせて、新しい命を次々と作り出していた。
かの木は、
この世界をその根で繋げる大樹だ。
「……っ、なんて、綺麗なの」
幻想的な光と、それを生み出す美しくそびえ立つ世界樹は、見るものを魅了するには十分だった。
それはきっとその大樹にだったのもあるが、その根元へ立つ人の形をした精霊が、あまりにもその景色に映えていたことで、よりここがどこより神聖なモノに見えたのだ。
普段なら、回れ右をしてしまうか、出来たら出会いたくない相手だったが、美しいモノには罪はない。
口を開かなければ、これほど美しいものはないだろう。
「…精霊王オベリオン…」
絵美の呟きに、精霊はゆっくりとこちらを振り向いた。
ひんやりとするような黄金の双眸が、鋭く絵美を捕まえる。
〈……ようやく来たか小娘〉
「…今ので回れ右をして帰りたい気分よ」
〈なれん力を使って気を失ったわりに元気だな。捨ておけば良かったか〉
どう言う意味よ、と言いかけて開きかけた口を閉じた。
気を失った直前に、かすかに残る声を思い出したからだ。
『ーー…馬鹿が』
確かに聞こえたその声は、まさしく今まさに目の前の精霊から発せられる声と酷似していた。
(……まさか…?)
あれだけ敵意を向けられていたのに、そんなことあるわけないと思って首を振る。
(…あたしを助けたの?…この雷男が?)
あるはずがないと思いつつも、思考はどうしてもそちらへ向かってしまう。
そんな絵美の視線を鬱陶しそうにオベリオンは顔をしかめた。
〈…なんだその目は、不愉快だ。要らぬことは考えるな〉
あまりに絵美が見過ぎていたことは認めよう。だが、これではっきりしたと絵美は半眼した。
(やっぱりないわ。ないないない)
頷く絵美に、やはり冷たい視線を寄越すオベリオンがふんと鼻を鳴らしたのが聞こえた。
〈それでいい〉
思わず頷いていた顔を勢いよくあげるほどには、その声音は穏やかで、心なしかその顔付きも優しげに見えなくもない。
絵美は自分の目を疑うように両眼を擦って、もう一度オベリオンを見た。
けれどやはりそこには冷たい視線を寄越す精霊王がいるだけだ。
絵美が思考を巡らせる前に、オベリオンが口を開く。
〈この大樹の名を知っているのだろう〉
それは確信を持った言葉である。
問いかけではなかった。
絵美は頷いて答えた。
「
〈そうだ。世界樹があるから精霊は生き、恵を与えることができ、世界は崩壊せずにすむ〉
だがしかし、とオベリオンは続けた。
〈一度だけ、世界樹が崩壊しかけたことがあった。そしてその崩壊を防ぐため、精霊と1人の人間が犠牲になった〉
この世界では有名な話だ。
精霊神シヴァートと、人間の姫巫女アルテナがその命で崩壊を防いだ話は。
「おばあちゃんから話の流れで少しだけ聞いたことがあるわ」
シヴァートとアルテナは精霊と人でありながら互いに惹かれあい、その崩壊を止めるために亡くなった彼女を想って、シヴァートは復活できずにいた。
それがもう3000年も前の話だ。
精霊神シヴァートは再生と破滅の精霊であるから、すぐにでも復活することができたはずだったのに、それから一度も姿を見せなかった。
だから悲劇の精霊として有名なのだ。
「そして、そのシヴァートが3000年たった今、黄金の林檎となって、世界樹に実ったのよね」
それが祖母である凛音と癒着した『黄金の林檎』であるのは言わずもがな。
〈そう、待望の林檎が世界を飛び越えてある少女の心臓に癒着した。それは私たちにもその頃なぜなのか分からなかったが、その理由を貴様は知っているか?〉
知っているか、と問うわりにその言葉はどこかトゲがあり、そして絵美が知らないのをわかっていてオベリオンは聞いていた。
〈ーー…だから言っただろう?〉
何も答えない絵美の代わりに、精霊王は冷たい黄金の瞳を侮蔑に歪めた。
〈貴様は何も知らされず、知ろうともせず、生きてきたのだろうな、と〉
ドクリ、心臓が大きな音で鳴いた。
〈ぬくぬくと、何も知らず生きてきた貴様は、自分がなんであるかをも理解していない〉
口を開いて、閉じて、まるで金魚のように繰り返して、結局絵美は何も言い返すことも出来ずに口を閉じた。
何も知らないと言われて、腹は立つ。けれど結局言葉通り、絵美が答えることはできない。
無性に悲しみが胸の中に広がる。
(ーーあたしは、何も知らない)
それを突きつけられ、自覚させられ、絵美は歯を食いしばった。
凛音から不思議な話を聞いていたけれど、重要な場面が抜けているのだと、今ならわかる。
祖父のアルフォンスがバームバッハの王子であったこと、アルフォンスと凛音が英雄と呼ばれ、母の百合は聖女と呼ばれていたこと。
そして、自分の父親が魔人だったということを、絵美はまったく知らずにいた。
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