第9話 

わかっていた。

この世界がお伽話ではなく現実で、祖母が亡くなるまでファルファームを想っていたということも。

あるなら行ってみたいと、ずっと思っていたのも本当で。

祖母が愛したファルファームへ行けたことは、本当に嬉しかったのだ。


ーーおばあちゃん…。


「絵美?」

「……、おばあちゃん?」

「なぁに?どうしたの」


唖然と呟いた絵美に、凛音は優しげに黒茶の瞳を細めて微笑んで、絵美の髪を優しい手つきですいてくれていた。


「な、んで」

「何でって、絵美ったらおかしなこと言うのねぇ〜。まるで死人でも見たみたい」


覗き込んで来る皺のよる顔は、絵美の見慣れた祖母の顔である。

その祖母が冗談のように本当のことを言うから、絵美の頭の中は混乱した。


(え?…今までのが全部夢だった?)


ああ、そうなのか。

今目の前にあるこれが現実で、凛音が亡くなったのも、ファルファームへ行っていたことも、全部夢だったのだ。


「本当、どうしたの。絵美」


心配そうに眉を寄せた祖母がまた深く覗き込んで来たことで、絵美が祖母に膝枕をしてもらっていることに気がつく。

そして同時にホッとしながら、自然に微笑んだ。


「おばあちゃん…良かった」

「うん?もしかして怖い夢でも見たの?」


どこか納得顔で苦笑する凛音に、絵美は頷いた。


「悪夢を見たの。でも夢だったみたい…」


横になっていた絵美はゆっくりと起き上がる。

慣れ親しんだ畳とヒノキの香りがする祖母家が、ひどく懐かしく感じられた。


「ふふっ、来たときより随分顔色良くなったわね。ゆっくり寝れたみたいで良かったわ」

「…あたしなんで寝てたんだっけ?」

「あら、寝ぼけてるの?東野絵美展覧会のために半年間頑張ってたでしょう。明日を目前にしうちに来て力尽きたのよ」

「え?……東野絵美、展覧会?」


聞き捨てならない単語に、思わず唖然と聞き返すと、「まだ寝ぼけてるのねぇ〜」と凛音は苦笑した。


(…どういうこと…?)


わけがわからないでいると、急に頭の中を知らない記憶が流れ込んで来た。

それは凛音が言うように、展覧会のために半年間準備を進めていた絵美の記憶だった。展覧会を明日へ目前に控え、祖母の家に癒しをもらいに来てから記憶がない。たぶんそこで寝てしまっているのだ。


「ああー…そうだった…」

「思い出した?まったく倒れるように寝ちゃうんだから……。お茶、持ってきてあげるから、とりあえずまだゆっくりしてなさいね」


呆れたようにそう言って立ち上がると、祖母は茶の間を出て行った。

それを見送りながら、絵美は2つの記憶の狭間で揺れていた。


1つは26歳の絵美が、画家として成功して今まさに展覧会を開こうとしている記憶。

1つは26歳の絵美が、絵を趣味の一つとして適当な会社で働くOLの記憶。


ごちゃごちゃと頭の中を駆け巡る記憶に、酔いそうになりながら、ふと視界の端にとらえた年季の入った棚を見上げて、唖然と目を見開く。

そこにはいつも赤毛と銀の瞳をした、祖父の写真が飾られていたはずだった。


(ーー…だれっ…?)


けれどそこには黒目黒髪の日本人顔のまったく知らない男の人の写真が飾られていたのだ。

けれどそう思っていたのは束の間で、記憶の中の写真で見た祖父の顔が、ぐにゃりと歪んで塗り替えられて行く。


「絵美〜お茶持ってきたわ。…どうかした?」

「いや、…うちのおじいちゃんってこんな人だったかなって……」


立ち上がって写真立てを持ち上げながら呆然と立ち尽くす絵美に、凛音は心配そうに近づいてきた。


「何言ってるの?玄関先で倒れた絵美をここまで運んでくれたのもおじいちゃんじゃないの」

「…そうなんだ。うん、いやおじいちゃんなんだけど…。なんだろう?」


自分が、どこかおかしくなったのだろうか。

この写真が祖父だと認識できるし、良く祖父とお酒を飲み交わす中だと言う記憶もある。

けれど、首を傾げずにはいられない。


「…ねぇ、おばあちゃん」

「なぁに?」

「赤毛のおじいちゃんは?」


侵食していく記憶の中に、わずかに残るその夕焼け色を思い出しながら凛音を振り返る。


「うちに赤毛なんて誰もいないでしょう?」


どうしようもなく困ったように祖母は笑った。


(じゃあ、全て夢だったとでも言うの?)


絵美の湧き上がる疑問に答えてくれたのは、凛音の後ろに飾られている絵画だった。


生茂る木々の中に、ポツン建つ白塗りの美しき洋館。

それだけが変わらずそこにあった。


「ファルファーム」


呟けば、あとは消えかけた記憶が次々とよみがえる。

ファルファームって何?と笑う祖母を見つめた。

祖母のその優しげな笑い方も変わらずそこにある。

けれど違うのだ。


「おばあちゃん、あの絵おじいちゃんが描いた絵だね」


あの絵が、絵美の始まりだ。


「違うわ。絵美が描いたんでしょう」


凛音が首を振る。

絵美も首を振った。


「ーー違うよ。あれは、おじいちゃんーーアルフォンス・ユリウス・ディル・バームバッハ。あたしのおじいちゃんで、おばあちゃんの最愛の人が描いた絵」


難しい顔をして絵美を見つめる凛音の右手を両手で掴む。

温かなそのぬくもりが、消えてしまわぬよう絵美はしっかりと握りしめた。


もしかしたら、こういう未来もあったのかもしれない。

祖父も祖母も両方とも生きていて、絵美が画家として成功して、ファルファームなんて異世界のことなんてまったく知らずに、生涯を終えていく、そんな未来が。


その全てが、パラパラと剥がれ落ちていく。


「おばあちゃん。ーー大好き」


これが偽りの世界だとしても、絵美は祖母に会えて満足していた。


崩れゆく虚像が、ふわりと笑う。

絵美が満足したように、凛音もまた満足したように。

繋いだ手とは反対の手で、絵美を抱きしめた。


「ーーおばあ、ちゃん…?」


驚きと戸惑いで、絵美は心臓が早鐘のように鳴り響く。


「ーーあなたなら大丈夫だわ絵美。だって、わたしとの孫で、百合の娘なのよ。大丈夫。ーーおばあちゃんも絵美が大好き!」

「っ!」


抱きしめ返そうとした絵美の腕は、跡形もなく消えた空をさいた。

明るくなる光が、目覚めをうながしていた。

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