間話 精霊女王と黄金の林檎①
少女は限界までその黒っぽい茶色の瞳を見開いていた。真夏の西日に、黒髪をポニーテールにした首筋がじりじりと焼けるように暑い。たらりと、暑さに汗が顎をつたって落ちていった。
「………やべ、」
そう呟いたのはもちろん少女ではない。
彼女の視線の先、十メートルほど離れた場所に立つ青年の呟きだ。
夕日のように燃ゆる赤髪に、銀色に光る双眸。すらりとした長身の青年が、少女と同じ日本人ではないことはすぐわかる。
極めつけは彼の登場の仕方に問題があった。
「……あの、」
少女が声をかけた瞬間、青年はくるりと方向転換し、走り出した。
さらに驚いた少女は、思わずその背を追いかけた。少々足の速さには自信があったが、その距離はなかなか縮まらない。
青年も後ろを振り返り、なかなか距離が離せないのに痺れを切らしたのか、空中に何かを放る。そしてそのままその何かに吸い込まれるように消えていく青年に、少女はなみなみ焦ったように足を動かした。
「っ!待って待ってーーっ!!」
もうほとんど消えかけた青年へと、最後の脚力で大ジャンプをして見せた少女は、パシリとその足を掴むことに成功した。そして気付く、青年が投げたそれは美しい情景を描いた絵であったのだ。
まさかの出来事に足の持ち主は、その綺麗な双眸を見開いて、振り払うことも出来ずそのまま2人してその場から姿を消した。
どこから聞こえる水の音に、少女は訝しげに閉じられたまぶたを震わせて目を覚ます。
今日はいつも通り下校し、いつもの帰路を歩いていたはずだった。不思議だったのは周りが異様に静かだったということか。国道から外れた道だからと、あまり気にもとめていなかったが、後から考えればあれが原因だったのだ。
〈…あら、目が覚めたのね〉
いまだ焦点の合わない目より、耳に届いた声に驚いて少女は飛び起きた。
まるで頭に直接響いているような、不思議な声。けれどそれに嫌な感じはなく、美しいよく通る声だ。
「誰っ?」
やっと焦点の定まってきた目で声の主人を探す。探しながら、違和感を覚える。
黄昏色に染まる世界。そこは見渡す限り木々に囲まれていて、空にあるはずの星が空中に浮いていた。否、ただの星ではないのだろう。それは生き物のようにゆらりふらりと、踊っているのだ。
「っ…何ここ…」
〈メディウーム。精霊の国よ〉
戸惑う少女の問いに答えたのも、また美しい声だった。
目の前の地面が水面が弾けるように震えたのを見て、初めて少女は気がついた。自分が座っている場所が言葉通り水面の上であることに、ついていた手のひらにはそれまで気にならなかった水のひんやりした冷たさが伝わる。
青く透き通るような水の中には、見たこともないような七色の魚たちが、楽しそうに泳いでいた。
「…わあ…私、夢を見てるのね」
これですべて納得できたと、笑いがこみ上げてくる。思わず追いかけてしまったあの青年が、空から舞い降りてきたなんてすべて夢だったのだ。
そう少女が納得していれば、正面から浅いため息が吐き出された。
〈…残念ながら夢ではないわ。ええ、まったく残念なことにね〉
少女は水面からゆっくりと顔を上げていく。
まずつま先が見えた。緩やかなドレープが広がった美しい白いドレスが見え、それと同じくらい緩やかに広がる豊かな美しいプラチナブランドと、人間のそれではない雪のように白い肌。小さな顔にはめ込まれた2つの大きな七色に輝く宝石。どれをとっても美しいその女性は、その背に生えるトンボの様な大小の美しい七色の羽をパタリと一度動かした。
「……、妖精…?」
〈ーー間違いではないわ。もちろん、正解でもないけれど。言ったでしょう?ここは精霊の国〉
「…、つまり、精霊ってこと?」
〈そうよ。わたくしは精霊。この地を治める精霊女王〉
「…精霊、女王…」
いやにしっくりくるその呼び名を口の中で復唱した少女は、そこで自分が置かれている状況の異常さに気がついた。
もちろんお約束である頬をつねる行為を一応やってみるも、目覚める気配はまるでない。痛みが足りないのかと、両方の頬を力強くつねり後悔する。
〈ーー…だから夢ではないと言ったではないの〉
涙目になりながら頬をおさえる少女を、呆れたように精霊女王は目を細めて見た。
「ーー…夢、じゃないなんて…じゃあ現実なの?」
〈…そうよ。迷惑な話、現実だわ〉
口元をおさえ俯く少女の表情はうかがえないが、この後泣くかわめくかするのだろうかと、精霊女王は肩を竦めた。
困っているのはこちらとて同じなのだ。
ここは精霊の国メディウームである。只人である人間がおいそれと足を踏み入れることのできない場所にあるのだ。それなのにこの人間はなぜここにいるのだろうと、精霊女王は頭を抱えた。
確かにこの泉は人間界と精霊界を繋ぐ泉である。しかし、そこは精霊が認めた管理者しか入ることのできない場所にあり、むしろ管理者にも簡単に泉など通過できない。
ーーそれに、少女は異なる世界の人間なのだ。
肩を震わせ出した少女を迷惑そうに見て、再びため息を吐き出した精霊女王に届いた声は、彼女が思っていたものよりだいぶ違い、思わず少女を二度見したほどだ。
「…ふふ……ふふふっ!やったわ!やっぱり私の感は当たったんだわ!ふふっ!ふふふふっ!ここは異世界なのねっ‼︎」
顔を上げた少女はそれはそれは満面の笑みで両拳を握りしめた。まるでここへ来られたことが、嬉しくて堪らないと言っているように聞こえ、精霊女王は知らずその頬が引きつるのを感じた。
もちろん、実際少女は異世界に来られたことを喜んでいたのだ。
高校1年、16歳。帰宅部。
少女の名は、凛音。
これが凛音と、精霊女王の出会いである。
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