クローゼットの男の子

東屋猫人(元:附木)

第1話 クローゼットの中

 私の部屋には時間限定で男の子がいる。


夜のとある時間帯にクローゼットを開けると、足元で体育座りをして待っているのだ。白い肌、細い腕、薄い衣服。瞬きもせずにこちらを見上げている黒目勝ちの目。何れにも生気を感じさせないものだった。


「彼」はいつもただただ無言で見つめて来る。それが昔も今も心の底から恐ろしかった……だが、ずっと怖がってもいられない。死んだ人にはお帰り願わねばならない。

今日こそは「彼」に話しかけてみよう——そう決意して、クローゼットの扉を開けた。


                 ○


 「彼」を初めて見たのは高校生に入った頃だった。家に知らない人がいることに驚いて、親に言ったのだが


「そんなものはいない」


と一刀両断。それからは夜十一時——私はこっそり『「彼」の縄張り』と呼んでいる——にはけしてクローゼットを開けないように努めたのだった。何もいない、何もいない……そう暗示をかけて、日常生活を送るように心掛けた。

しかし、アラームをセットでもしていないとうっかり時間を過ぎることがある。やりたくはないが、寝る前には翌日の準備をせねばならないし、仕方なくクローゼットを開けることになる。


彼は扉が開くと一心不乱にこちらを見つめて来るので、絶対に眼を合わせぬよう気をつけていなければならない。そうしていないと、あの魚の眼を思わせる黒目勝ちの視線を正面から受け止める羽目になるのだ。目が合ってしまった日には、決まって寝付きが悪くなる。


きっと、あれはもう死んでしまったこどもが成仏できずにここに居座っているのにちがいない。この家の中でも暗くて狭くて、そして一番年の近い(と言っても十は違うだろうけど)私のところが楽だからここに来ているんだ——次第に、そう思うようになった。


それからというものの、こっそりお寺からお札をもらって来たり、塩を撒いてみたり——バレて掃除が大変だからやめろと怒られた——神社で厄除けのお守りをうけてきたりと、様々なことをしてみた。しかしどれも一向に歯が立たず、「彼」はいまだにあのクローゼットの中に住んでいる。


あの魚を思わせる顔が、飢餓を示す身体が、表情も感情も読めない生気のない顔がひんやりと底冷えのする恐怖を呼び起こす。だんだん、その恐怖に堪えられなくなって親に泣きついて見たこともあったが、やはり答は


「そんなものいないって言ってるでしょ! 」


だった。


 そんな折、事件は起こった。大学二年になった頃のある日、ばちりと目が合ってしまった。いつも通り何もなく見つめて来るのだろう、そう思っていたら「彼」の口が動いた。声は出ていない。斜めに生えて矯正されないまま育った黄ばんでいる歯が見える。


——思わず、悲鳴を上げてしりもちをついた。「彼」はもう口を閉ざし、いつも通りにじいっと見つめてきている。

そこに、両親がばたばたと駆け寄ってきた。


「なに、どうしたの⁉ 」

「何なんだ一体、騒がしい。」


そう言う両親に、ただ「彼」の居場所を指差す。今だにこちらを見つめている、「彼」を。

しかし両親は


「何もないじゃないの。」


とため息をついたのだった。どうして? あそこにいるのに! ずっとこっちを見てるじゃない! 感情が奔流を起こす。でもうまく言葉にできずに、ただぽつりと


「・・・・・・男の子、いるよ。ずっといるよ。なんで? 」


とだけ口に出した。

両親は顔を見合わせ、何かを決めたように頷いた。


「ねぇ、涼子。明日、学校休もう。それでお父さんと母さんと出かけよう。」

「出かける・・・・・・? 」

「あぁ、三人で久しぶりにな。」


一先ずこくりと頷いて、その日は母さんの部屋で寝た。

そして翌日連れていかれたのは——心療内科。精神科だった。


                 ○


「うーん・・・・・・特に今のところ、意欲低下や睡眠障害などの抑鬱症状も出ていませんし、診断を出す必要はないかと思われます。」

「嘘でしょう、変なものが見えるってずっと言ってるんですよ! どこかおかしいに決まってるじゃない! 」

「おい、裕子。」

「・・・・・・取り合えず、まずご両親と私で話しましょう。涼子さんを頼めるかな? 」

「わかりました。カウンセリング室におりますね。」

「わかった。よろしく。」


診察室の扉が閉まる。その扉越しにでも、母さんの声が聞こえた。

「あの子はおかしい」「変だ」「何かしらの病気のはずだ」・・・・・・そういった言葉が聞こえてきて、なんだか肌寒い。ぎゅう、と腕を体に巻き付けて耐えた。


「涼子さん。ここだよ。ほら、椅子に座って? 」


看護師さん……だろうか。お姉さんの言うままに椅子に座る。すると、握りしめた手を、そっと掴んで握られた。


「お父さんとお母さんはね、ちょっとびっくりしちゃっただけなんだと思うの。」

「びっくりしただけ? 」

「うん、そう。涼子さんが男の子に会って驚いたのと同じ。だから、涼子さんになにもないかな、大丈夫かなって心配になっちゃってるだけなのよ、きっと。」


心の底から涼子さんをおかしいなんて思ってない事だけは確実よ。そう、お姉さんは言った。


「なんで、そう言いきれるの? 」

「だって、我が子に精神疾患・・・・・・こういうところで診断がされるものね。そういうのがあると心の底から思ってる時って、ここに来る前に学校に行かせずに家に閉じ込めたり、診断がされなかったときはわかりました、他の診断出してくれるところに行きますって言ったりするんだもの。」


だから、きっと大丈夫。大丈夫だよ。言い聞かすようにお姉さんは言った。

そうして二人で昔懐かしき「アルプス一万尺」をしたりして遊んでいると、しばらくして先生が入ってきた。


「涼子ちゃん、もう大丈夫だよ。話は終わりました。」

「・・・・・・。」


なんとなく帰りたくなくて、お姉さんの手に縋った。またあのままの母さんだったらどうしよう。またあの父さんだったらどうしよう。ああなってしまった二人は恐ろしいから、もう嫌だな。そういう思いを見透かしたように、先生は言った。


「お姉さんと仲良くなれたんだね、良かった。困ったらいつでも来ていいんだからね。

それと、ご両親も今は落ち着いて、酷いこと言っちゃったって、謝りたいって言ってるけど・・・・・・仲直りしてあげる? 」


先生はすごい。なんでもお見通しだ。私がおかしくないことも、父さんと母さんのことでここを出て行きたくないのもすっかり理解されている。

観念して、こくりと頷いた。


「うん、凄い。偉いよ、涼子ちゃん。あ、じゃあそうだ。ここに来れなかったら、これに連絡して。いつでも先生、悩んでること聞くよ。」


そう言って、電話番号とメールアドレスの書かれた名刺をくれた。


                 ○


 そして、現在に至る。十時五十五分。「彼」が現れるまであと五分待たねばならない。今日こそははっきりさせなければ。今日こそ天下の関ヶ原・・・・・・家康になるか三成になるか。落ち着かない気持ちで時計を見つめる。


念のため塩、用意OK。除霊に良いらしいファ○リーズ、良し。お札お守り各種、OK。準備は万端だ。あとは「彼」と会話できるのかどうかにもよる。

五十八分。——あと、二分。「彼」は凡そこの一年ほど共に過ごしてきたが、今日でおさらばになる。なんだかんだ、感慨深い。せめて思いきり派手に送ってやろう。そう決意を新たにし、時刻はとうとう午後十一時。——いざ!


がらりと扉を開ける。すると、いつもは扉と平行・・・・・・つまり、こちらから見たら横向きに見えていたはずの「彼」が、こちらへ体勢を変えていた。・・・・・・うわぁ、縦方向なっちゃったよ。なに? 気分転換したかったの?

そんな涼子の戸惑いも我関せずで、いつものようにじっと見つめて来る。真っ黒なその目が恐怖を煽って来るが、今夜こそはと意思を固めたのだ。なんとかやってみせる。


「あの。」

返事はない。


「もしもーし。」

返事がない。


「聞こえてますかー⁉ 」

無視。


こちらが話しかけても無視する癖してずっと見つめて来るその神経に腹が立った。相手が死んでいるということも忘れて、耳元で思いっきり話しかける。


「聞こえてるかって聞いてんの! 」

思わず耳元で怒鳴った。幽霊相手に。

扉をドンドンと叩いて何か言っている両親の声が聞こえるが、それにかかずらってはいられない。

「彼」は相変わらず無言を貫いていたが、心なしか少し眼を見開いたように感じたのは気のせいだろうか。白目がないのでよくわからないのだけども。


「・・・・・・——・・・・・・・・・。」

「ん? なんて? 」

「・・・・・・・・・! ———・・・・・・! 」


全っ然聞こえない。もっと声量大きくしてくれないと、どうにもならない。


「もっと元気出せよぉ‼ 頑張れって‼ 聞こえないんだってば‼ 」

「‼ 」


取り合えずこちらの言うことはきちんと聞こえているらしく、素直にちょっと頑張って声を出そうとしている。なんだこいつ、素直だな。

幽霊の口元へ耳を寄せてみる。すると、微かな声でこう言った。


「のむもの、ください・・・・・・。」


                   ○


「で、落ち着いた? 」


こくこくと頷いている。あれから扉の前にいる両親を押し退け、コップ二杯分水を持ってここへ籠城している。両親ももう諦めたのか、すでに部屋の前から退散していたが。


「彼」の名前は、きわらしというらしい。どうにも変な名前だ。呼びづらいので略してきわちゃんと呼んでいるのだが、その度に複雑そうな苦い顔をする。・・・・・・そんなにネーミングセンスが無かっただろうか?


「ねぇ、きわちゃんはさ、なんでここにいるの? 幽霊? 」

ブンブンと首を横に振っている。どうやら違うらしい。じゃあなんなの? と問い直すと・・・きわらし、とまた名前を名乗った。聞いているのは名前じゃないんだけど・・・・・・。


「きわちゃん、なんでこの時間しかいないの? 」

「・・・・・・ら、・・・・・・うはよわ、から・・・・・・ここ、か・・・・・・れなぃ・・・・・・」

「・・・・・・? なにそれ、全然わかんないよ。聞こえない。」


なぜこのきわちゃんはとぎれとぎれにしか喋れないんだろう。それも、意味のない言葉の羅列。うんうんと頭を悩ませても何が何だかわからない。もう一回聞いてみようか、


「きわちゃ・・・・・・」


すでにきわちゃんはクローゼットから消えていた。時刻は、午前零時丁度。……どうやらきわちゃんは、十一時から一時間しかここにいられないようだった。

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