とんぼがえりの夢想者




 ドアを開けると、とたんに甘く香ばしい匂いが漂ってきた。


「あ、おかえりなさいっ」

「ただいま」


 弾けるような彼女の笑顔。高揚と期待で頬が紅潮作用を示している。

 匂いの正体は、訊ねなくてもわかっている。

 なぜならばこれは、彼女がこの部屋を訪れている日にはもはやお馴染みとなった匂いだからだ。


「もうすぐ焼けるよ。前に来たときにボトムを準備して冷凍しといたから、今日はフィリングだけ作ってすぐにオーブンに入れたの」

「そうか」

 相づちを返しながら、ジャケットを脱いで手洗い等、帰宅直後のルーティーンを済ませる。


 ボトムというのは下部、つまりケーキの土台のことで、彼女がよく作るチーズケーキにはしばしばクッキー生地のタルトが用いられている。フィリングというのは具材、つまりチーズケーキの場合には文字通り調味したチーズクリームのことを指すのだそうだ。


 彼女は料理は全般が不得意らしいが、チーズケーキだけは大好物であるがゆえに積年の訓練の末に会得えとくしたらしい。


 交際をはじめてしばらくした頃から、こうして時おり、僕の自宅キッチンで作業をするようになった。いわく、「彼女というものは彼氏に得意な手料理を披露して称賛を浴びたりしたいもの」なのだとか。


 初めて一緒に食べたとき、僕は世辞ではなく「美味しい」と賛辞を送った。その時もまた今のように、いや今よりももっとずっとはっきりと、鮮やかな血色に頬を染め上げて彼女は微笑みを浮かべた。ふつふつと、身体の奥底から感情が沸き立つような笑みだった。


 以来、時間的かつ体力的に余裕のある時にたびたびその腕をふるってくれている。

 タルト生地になめらかに流し込まれ、きれいな焼き目をつけて仕上げるベイクドチーズケーキ。

 得意なのはその一点だけだからと、彼女が作るものもその一点のみである。

 頻繁ではないものの、同じものには違いないのだから、そんなに何度も製作しなくてもいいのにと思わなくもないが、いたって楽しげにキッチンに立つ後ろ姿を見るのはまあ悪くない心地なので黙っておこう。


 僕はちゃぶ台を前に腰を下ろして夕刊やメールの確認作業を始めた。真正面に、彼女が洗い物をしている後ろ姿が見えた。


 ふと、オーブンの唸りと流水音のなかに歌声が混じる。歌唱する、というほどの意識はないのだろう。か細く小さな息づかいで、囁くように紡がれる言葉の韻律。

 僕は手を止めて、眼鏡の奥から彼女の背中を見つめた。

 ふりふりと揺れるスカートの裾とドレープを描くようにうねるブラウスの波。

 そこに透けて見える華奢な肩甲骨の向こう側に、僕より十ほども若く、いまだ未成熟な瑞々しいうなじがのぞいている。調理をするために髪をかき上げてざっくりとまとめたのだろう。幾筋かの後れ毛が滑るように背を流れ落ちている。

 それが。その細い糸のような黒く長いそれが彼女の口ずさむ鼻唄に合わせてゆらりゆらりとそよいでいるから。

 僕はとっさに、わずかに腰を浮かせた。流れる感情のままに重心を移動する。膝立ちにまでなったところではっと気付いて動きを止め、そうして緩やかに息を吐き出しながら座り直し、彼女の子守唄のような穏やかな調べを聴くにてっした。


 青々とした歌声だった。いまだ大海を知らぬ稚魚のように、小さな箱庭で大人たちに守り育てられている若い生命体の響きだった。


 ……もしもそよそよとたゆたう小さく健やかなその存在を、津波のように飲み込んで荒々しくさらっていってしまえたら。

 清濁合わせて白砂も汚泥も巻き込んで、なにも悟らせぬままこの腕に抱き込んで見知らぬ地まで転がり落ちていってしまえたら――。


 ブン、と、オーブンが咳払いのように一際大きな音声で吠えた。

 弾かれたように瞬いて、僕はもう一度、大きく息をついた。


 ふと産まれる激情のようなそれは、上機嫌で素知らぬ顔の彼女のもとへと飛ばすことなくブーメランのようにこの身体に帰着させる。もう何度も、そうして人知れずをつけてきた。

 彼方を目がけて投げかけても、空に半円軌道を描いて手元に帰るブーメランの飛行原理は、自転する物体に働く剛体としての回転運動と揚力とトルクによるプリセッション運動による。投げる際の速度と回転速度が速いほど揚力が大きくなるためその効果も大きくなるはずだ。

 ――同様にしてこの感情も、発露する力が爆発的であればあるほど鋭利にこの身を突き倒さんばかりに痛烈に舞い戻ってくる。

 だから多分、こんなふうに石槌で穿うがたれたように毎度のごとく、胸が鈍く重い。


 淀んだ息を吐き出しきってしまうと、圧力がぬけたように頭が垂れ落ちてきた。そのまま卓上を視線で這っていると、よし、とかろやかな声が聞こえた。


「いい感じ。あと二分!」


 発光する物体を見るように目を眇めつつ見上げると、まさしく発光する庫内をのぞき込んでいる彼女の横姿。

 ほどなくして、ピーっと甲高い音とともにオーブンが静止した。いそいそと焼成物を取り出した彼女が、ふふっと小さく笑い声を漏らした。


「ねえ、見て、センセイ!」


 こちらに向かって差し出された熱気も温かなそれはいつもの形のチーズケーキ。だがその色合いが、いつもとはほんの少しだけ違って見えるような気がする。甘い香ばしさのなかに、ほんのり漂い混じる葉の香り。


「この匂いは……」

「今日は抹茶を入れてみたの。センセイ、抹茶味が好きだって、言ってたから」


 えへ、と照れくさそうにまた笑って、彼女が再び、頬を染めるから。

 僕は眩い彼方へ向かって自然と動きだそうとする指先を頑迷な意志の力で押し止め、奥歯を噛み締めてこの心に角度をつける。

 そうしてまた、この激情が彼女のもとへと飛び立ってしまわぬように、なにもかもを壊してしまうことがないように、強引にでも転回させて帰着させ、自らのこの手で粉々に粉砕するのだ。


 いつか、この夢想が絶えて尽きるまで。

 僕は何度でもそうして心を砕き続けていくと、この胸に決しているのだから。






                               

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