特別な日になんてならない

八神翔

特別な日になんてならない

 人は、様々なものに特別な意味を見出したがる。そういう習性なのだろう。たとえば、日。誕生日、記念日、クリスマス、バレンタイン。個人的なものから広く認知されたものまで、その種類はけっこうな数にのぼる。


 今年は閏年だった。世間ではなにかと話題になっている。二月二十九日。今日がそうだった。四年に一度しか訪れない日。どうやらそこに人々はひかれるらしい。


 わたしは床に座り、ぼんやりと部屋の壁を見つめた。古いアパートの一室だ。家賃は五万円。ドアの前の通路を誰かが歩けば、音ですぐにわかる。


 女の子なんだからもっとセキュリティのしっかりしたところに入ったほうがいいんじゃない? そう言うのは母親だ。耳にたこができるぐらい聞かされた。わかっている。できることなら、オートロックなどの設備が充実した場所に住みたいと思っている。こんな古びたアパートに、好き好んで居座っているわけではない。けれども、わたしの少ないバイト代ではこれ以上の物件に住むことはかなわなかった。


 そんなに心配なら母親のあんたがお金を出してよ。そんな言葉が喉まで出かかったのは一度や二度ではない。言ったところでどうにもならない。実家の家計の実情はよくわかっている。ギャンブル好きの父親のせいで、火の車だ。仕送りの期待なんてとうていできない。奨学金が実家の家計に組み込まれていないだけまだマシ、そんな状況だ。なぜあんな男と離婚しないのか、わたしにはそれがずっと理解できないでいた。


 息を吐き出した。大学に入ってから、はやくも二年が経とうとしている。教師を目指して大学に入ったものの、最近ではすっかりやる気を失っている。原因ははっきりしていた。けれどもその原因を取り除くことは難しい。


 入学する前は、いくらか希望を持っていた。田舎の高校から東京の大学に入ったら、自分の人生にとんでもない変化が起きるのではないか。二年前のわたしは、そんな楽観的な考え方しかできなかった。脳内がお花畑というのはこういうことを指すのだろう。


 憧れの東京。期待した分、絶望は大きい。


「とんでもない変化か」


 わたしは自嘲気味に笑う。


「まあ、起こったと言えば起こったよね」


 ふいにスマホが振動した。わたしはびくりとする。バイブが長く鳴り、電話だとわかる。誰からだろう。しばらくの間、動くことができなかった。電話はなかなか鳴りやまない。おそるおそる覗き込むと、そこには想像とは違った名前が表示されていた。城山しろやま保奈美ほなみ。高校の同級生だった。


「もしもし?」


『あ、美嘉みか? わたし、保奈美。元気にしてる?』


 屈託のない声が、スマホから聞こえてくる。久しぶりに聞く声だった。とたん、郷愁が胸に押し寄せてくる。彼女とは高校卒業後、一度も会っていない。


「どうしたの? 急に」


『この前の成人式さ、美嘉来れなかったじゃない? それで、その代わりと言っちゃなんだけど、今度みんなで東京で集まろうって話になってさ。あ、みんなっていうのは、桜と伊織ね』


 懐かしい名前を聞いた。みな文芸部員だ。用具等の準備をする必要がなくお金がかからないから、それだけの理由で入部を決めた部活だったが、部員たちには恵まれた。一緒に入部した彼女たちのおかげで、それなりに楽しい三年間を過ごすことができた。


 久しぶりの電話で、会話は大いに盛り上がった。


 ふと保奈美の口調に変化が生じた。


『美嘉、大丈夫?』


「なにが?」


『インスタの更新も止まったし、SNSでも呟かなくなったでしょ。なにかあったのかなって心配になって』


 ずきんと胸が痛んだ。本当のことを言えないのが、ひどく心苦しい。彼女にいまのわたしの状況を知られるわけにはいかない。仲が良かったからこそ、嘘で誤魔化す必要があった。


「大丈夫。ちょっと飽きちゃっただけ。女子会のほうは、また予定を確認して連絡するね」


 そう言って、電話を切る。通話を終えたとたん、虚無感が襲ってきた。東京にまで来て、自分はいったいなにをしているのだろう。無性に叫び出したくなるのを、懸命にこらえた。


 再びスマホが鳴った。今度はメッセージだった。文言を見て慄然とする。鉛を飲み込んだような気分になる。店長からだった。仕事の依頼だ。


 十九時。西日暮里。


 できることならこのまま家に引きこもりたい。無理だとわかっていながらも、そう思わずにはいられない。わたしはゆっくり立ち上がると、身支度を整え始めた。


 自分で選んだ道だ。お金を稼ぐためには、この方法しかない。行きつく先が地獄だとわかっていても、もう後戻りではできない。





 派手なネオンの看板が頭上で輝く。わたしは重い足取りでエントランスに入る。


 客がいるのは三〇三号室だと聞いていた。


 ロビーを進むと、行為をすませたらしいカップルとすれ違った。どちらも楽しそうに笑っている。個室で濃密な時間を過ごしたのだろう。わたしは顔を伏せたまま、エレベーターに乗り込んだ。


 部屋で出迎えたのは、どこにでもいるサラリーマン風の男だった。歳は四十代ぐらい。でっぷりと突き出したお腹がスーツやシャツを引っ張り、窮屈そうだ。


 部屋の中に足を踏み入れる。ラブホテル特有の、窓のない密室空間。すっかり見慣れてしまった光景だった。大きなダブルベッドが部屋の中央に鎮座している。


 お金を受け取ったあと、わたしは男と連れ立って浴室へと向かった。内心の嫌悪感を悟られないようにしながら、男と一緒にシャワーを浴びる。


 身体を洗い終わったあとは、ベッドに移動する。男の荒い鼻息がすぐそばで聞こえてくる。生温い微風が首筋に当たった。


 男が言う。


「今年は閏年だね」


「そうですね」


 愛想よく聞こえるよう、精いっぱい声を作り、相槌を打つ。


「四年に一度の特別な日だ。こんな日に出会えるなんて、もしかして運命かな?」


 きもい。いい歳した大人が口にする台詞じゃない。わたしは内心で毒づいた。


 なにが特別だ。日付なんて、所詮は人が生活する上で便利だからと時間を区切った結果生まれたものにすぎないだろう。二月二十八日や三月一日となんら違わない。運命だなんて聞いて呆れる。


 行為を終えたあとは、世間話に興じる。ここに来る客の大半は、とにかく若い子と触れ合えたらそれだけで満足するような輩だ。相手を持ち上げる発言をしておけば、たいていの場合は事足りる。


 四年に一度の日を、年上の男とベッドの上で過ごす。これが現実だった。いつもと変わらない時間。どこにも特別なことなんてない。


「ねえ、よかったら連絡先交換しない? お金に困ってるんでしょ? 僕でよかったら協力するよ」


 突然、男がそんなことを言い出した。熱心に話を聞いたことから、気があると勘違いされてしまったのかもしれない。


「ごめんなさい。個人的にお客様と会うことは禁止されているんです。ばれたら罰金を払わされちゃう」


「大丈夫だよ。たとえばれても、僕が埋め合わせをするから。なんなら、いまよりもっといい金額を出す」


 憤怒の感情が湧き起こる。お金に困っていることは事実だ。けれども、大金さえちらつかせば相手を思い通りにできるというその傲慢な考え方には無性に腹が立った。ふざけるな。できることならそう叫び、その上で男を殴り飛ばしたかった。


 服をすべてを着終わる前に、男が身体を押し倒してきた。腕を掴まれ、身動きがとれない。ぞわりと鳥肌が立つ。


「なんでだ。なんで言うことを聞かない。僕を馬鹿にしているのか!?」


 豹変した男の態度を前に、心臓が凍りつく思いだった。襲われる、そう思った。


「やめてください!」


 わたしは膝を曲げ、男の急所を蹴り上げた。拘束が緩んだ隙に、部屋を飛び出す。エレベーターが来るやいなや、かごに飛び乗る。ボタンを押す指先が震えていた。


 ホテルを出ると、背後から怒号が聞こえてきた。あの男だった。まだ追いかけてくる。わたしは脇目も振らずに走った。恐怖が全身を駆け抜ける。


 客との間でトラブルを抱えた経験はなかった。だから油断していた。これまでは運が良かったのだろう。その運が今日、尽きてしまった。


 罰が当たったのだと思った。家族にも友人にも言えない仕事。生活費を工面するためとはいえ、この道に進んだことが誤りだった。わかってる。教師の道に進むのを躊躇うようになったのも、これが理由だ。けれどもほかにどうしようもなかった。大学に通う以上、勉強の時間は確保しなければならない。そうなると、バイトに使える時間は限られてくる。短時間でより多くのお金を稼ぐためには、この方法を採るしかなかった。


 やめよう。この仕事から足を洗おう。そうしなければ、いつか取り返しのつかないことになる、そんな気がした。


 道路を渡り終えたとき、背後から甲高い音が聞こえてきた。続けて鈍い衝撃音が響く。


 わたしは恐る恐る後ろを振り返った。目に入ってきた光景に、愕然とする。なにが起こったのか、すぐには理解できなかった。


 男が血だらけで倒れていた。近くにはトラックが停車していた。フロントガラスが割れている。轢かれたのだ。


 わたしのせい?


 身体の震えが止まらなかった。ひどい眩暈をおぼえた。足に力を入れなければ、いまにも倒れてしまいそうだった。


 わたしが逃げたから? 逃げたわたしを追おうとして、道路に飛び出して、それで……。


 運転手と思しき男が電話をどこかにかけている。事故を起こしたことを通報しているのだろう。


 わたしは我に返った。間もなく救急隊や警察が到着する。もしこの場に残っていたら、わたしも事情を訊かれるに違いない。そうすれば、男との関係がばれてしまう。両親にも伝わってしまう可能性がある。高校の友達にも。


 それだけは避けなければならなかった。


 わたしは唇を噛み締めると、身を翻した。胸中に苦い思いが広がる。この日のことは、忘れたくても一生忘れられないだろう。


 わたしはこのとき初めて、今年が閏年でよかったと思った。二月二十九日は、四年に一度しか訪れない。忌まわしい日付を見るのは、四年に一度ですむ。

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