第16話 「運命の日」

 森へ、彼女の方へ駆け出して、これまでの生活のことを思った。


 森の中で冒険者と出くわすことがあった。屋敷ですれ違うこともあった。いつだって、彼らはお嬢様に深々と頭を下げていた。彼女は彼らの後頭部ばかり寂しそうに見つめていた。何事か話し掛けても、彼らははにかみがちに遠慮して、話し掛けた彼女も遠慮気味になって……本当に親しげなところを一度も見たことがない。

 今、彼女は森の前でひとり立ちふさがっている。でも、それよりずっと前から一人だったんじゃないか。


 魔法を教えてもらったときのことを思い出した。戦い方を教えてもらったときのことを思い出した。彼女の教えは耳にスッと入っては体に馴染んだ。遠回りも行き止まりも経験した人に導かれるような、腑に落ちる納得と安心をいつも感じた。いつ頃から、積み上げてきたんだろう。ずっと何を想ってきたんだろう。

 貴族は、結局は自分で技を磨くしか無い、彼女はそう言っていた。だからこそ、ずっと一人で磨き上げてきたんだろう。


 今日の怪我の治療を思い出した。テオさんは大丈夫だろう。でも、お嬢様は「治療の魔法なんて無い」と言っていた。あれはどういうことだったんだろう。

 奥様は決して戦場に立てないという。そして、怪我人を担ぎ込むお嬢様の顔を思い出した。苦悩と悔しさが、抑えていてもありありと伝わった。

 今まで、どれだけの人の苦痛に――そして、もしかしたら人の死に――触れてきたんだろう。それも、ずっと一人で。


 彼女の事を想うと、胸の奥が締め付けられた。締め付けられた奥底から、熱いものが溢れ出す。行き場を求めて、熱が全身を駆け巡る。身体を切るような冷たい風が体に叩きつけられても、何も感じなかった。

 どこまでも駆け出せそうな気がした。彼女の元へなら、どこまでも。


 ふと、耳の後ろあたりで、風をきる音に混じって声がした。


「お前に何ができる」


――バカじゃねえの、それを聞きに行くところなんだよ。


 あの日、森の中で犬相手に実験を繰り返した日、俺の発見に触れて、彼女は何か考えついたようだった。何か見出したようだった。閣下は俺のことを認めてくださった。嬉しかった。

 しかし……この世の有り様を伝えられてから、彼女が俺になにか遠慮しているのが、あの日できてしまった溝から感じ取れた。彼女の想いは何も聞けていない。

 そうやって、あの発見があった日のお互いの気持ちを、知らないまま閉じ込めて、埃をかぶらせておくのは、どうしようもなく切なかった。


 どれだけ走ったかわからない。少しずつ、森と彼女の姿が見えてきた。

 黒い森の、木々とその間の陰が、口を開けて牙をむく怪物に見えた。女の子が立ちふさがっている。顔は見えない。


 ふと、先の施術のことを思い出した。牙に噛まれた彼の血を、赤黒い腕を。急に視界が少し歪んで、何度か目をしばたたかせる。でも、幻覚が少しリアルになるだけだった。

 足は止まらず前に進んでいる。一方で、心は過去に向かって進んでいた。あの運命の日へ。

 森へ続く道に、赤黒い血の轍が見える。俺の中の悲観主義が「やるだけ無駄」とか「また繰り返す気か」とか言って、恐怖のイメージで以って、俺を引き留めようとする。

 足は止まらなかった。止まると終わると思った。きっとすべてが。


 女の子を助けた日の事を思った。死んだ直後には思い出せなくなったあの日の衝動が、今ここにある。助けるために突き出した手の感覚を、今は思い出せた。あの手から、自分の命を手放した。その手に今は、青緑の光が見える。

 あの時は、助けて代わりに死んで、それでおしまいだった。今はこの手に魔法がある――たかだか2つの魔法と、よくわかってもいないオリジナルが1つだけが。

 こんなレパートリーで立ち向かうなんて、意識が高すぎて勘違いしたラーメン屋の品書きみたいだ。

 でも、これでも何かできるんじゃないか。そんな確信めいたものがある。


 あの子を助けたときの衝動があれば、何だってできたんじゃないかって、死んだとき、召されるときに、そう感じた。だから今そうしている。後悔なんてしないように。


「また泣かせる気か」なんて声がした。あの日だって、そんな気はなかった。ただ助けたかっただけだ。あの子の顔は知らずじまいだった。きっと泣いていただろう。目の前の女の子もそうなるんだろうか。

 そうならないために、魔法を覚えてきたんじゃないか。いや、当初の目的は、違ってきた気もする。でも今はそういうことにしよう。

 つまるところ、これはリベンジなんだ。助けて、泣かせてしまっただろうから、次はもっとうまくやるための。


 進む道の先々に、走馬灯のようなものが見える。縁起悪いと思ったけど、まだ鮮やかに家族のことを思い出せるのは、素直に嬉しかった。

 今、みんなどうしているんだろうか。きっと泣かせてしまったはずだ。あの日から2週間ぐらい経ったと思う。父さんも母さんも、悲しみながら色々な面倒事を片付けて、妹は自分の部屋で泣きながら少し荒れたかもしれない。


 あの日失ってから、かろうじてつなぎとめた命を、また危険に晒そうとしている。でも、それが正しいことだと思った。

 あの日、俺は家族がいる世界を捨てた。同じ墓に入ることを選ばなかった。

 そんな俺がこっちの世界で、あの子が用意してくれる言い訳にくるまって、他人の苦しみを眺めつつ、自分の命を後生大事に抱え込むのは、それは何か違うと思った。眺めて思い悩むことが免罪符になるなら、そんなものは破り捨ててやる。

 捨て去った家族のこと想うなら、思い出す資格を持ち続けたいなら、今のこの命を精一杯燃やして、誰かのために役立てなければ、許されないと思った。そうしないと、きっとこの先誰も愛せない。自分のことだって。


 だから俺は、自分を好きであり続けるために、あの子に手を差し伸べるんだ。


 心の中で何か言っていた悲観主義者のざわめきは、草を踏みしめる音に紛れていった。かすかに残るノイズも、あの子のもとへ進む一歩一歩を力強く踏みしめれば、もう聞こえなくなった。


 幻覚が晴れてきた。今はただ、彼女だけが見える。俺に気づいて振り返りつつある。

 気持ちの整理は付いてきたけど、言い出す言葉だけはまとまっていない。でも、言うしかない。順番がめちゃくちゃでも、誠意を尽くすしか。


 彼女が完全にこちらに振り返った。顔は意外といつもどおりだった。少しキョトンとした、気が抜けた感じだ。テオさんを担ぎ込んだときの、あの深刻さは尾を引いてないようだ。


「リッツさん?」


 少し心配げな声音で呼ばれた。ここまでノンストップで走ってきた俺に、いきなり、疲れが追いついてきた。心臓が早鐘を打つ。

 しかし、息をいくら整えても、完全には落ち着かないだろう。自分の性分だから、そういうのはよくわかった。

 何度か深呼吸をして、体を落ち着ける。彼女は、ちょっと困ったような微笑みで俺を見ている。

 ある程度息が整ったところで、俺は話し掛けた。


「すみません、急ぎの用件ってほどでもないんですけど、お伝えしたいことが」

「……何でしょうか」

「例の……月が黒い夜に、何か手助けできればと思って」


 彼女は目を閉じて、首を横に振った。

 そして口を開け、突き放すような口調で言う。


「その件は、すでにお話ししました。あなたには関係のないことです」

「……犬を固める罠をお見せしたとき、何か思いついたんじゃないですか?」

「……気のせいですよ。忘れて下さい。」


 目を閉じたまま、彼女は口を閉ざした。

 表情はほとんど変わらないように見えた。ただ、目の辺りに感情のさざなみを感じる。怒りと、どこか悲しい感じが入り混じっている。


「俺は……先生には感謝してます。ここにきて、右も左も分からない中、色々なことを親身になって教えていただけました。すごく嬉しかったし、頼もしかったです」


 彼女は目を開けた。少し哀しげな、透き通った目で俺を見つめてくる。俺は続けた。


「俺は、そんなあなたから、遠慮のせいで嘘をつかれたり、隠し事をされたくないんです。ここ数日、間に感じた壁がこれからも続くのかと思うと……すごく嫌です」


 彼女は視線を地に伏せた。目、唇に抑え込んだ感情がにじみ出ている。

 もしかしたら、言葉を続ければお互い傷つけるだけかも知れない。それでも言わなければならないことはある。


「今日は、お互い言いたいことを言い合う、そのために来ました。これでお互いの気持ちを精算したくて。嫌われたり、殴られても構いません。だから、本心を聞かせてください」


 彼女は首を横に背け、地面を見続けていた。ここ数日で見慣れた、物憂げな顔つきで。

 風が吹きすさぶ中、彼女の言葉を待った。彼女は無言のまま目を閉じた。気持ちの整理をつけているように見える。ただ待つしかなかった。


「私は……」彼女は、俺に視線を合わせて、話し始めた。目は少し潤んでいる。


「私は、何も知らなかったあなたに、覚悟ができていなかったはずのあなたに……覚えが良いから、熱意があるからと浮かれてしまって、魔法と戦うことを教えて、あなたをおだててその気にさせて」


 一度切った。彼女が生唾を飲み込む音が聞こえた。

 続きには少し間が空いた。それでも彼女は、意を決して続けてくれた。


「私は、あなたに戦うことを望ませてしまった自分のことが、ただただ恥ずかしくて、許せない。”もしかしたら”、”あるいは”、なんて甘い思いで、あなたの自信を刺激して。人を守るはずの貴族が、守るべき相手に戦意を植え付けて、気持ちを煽るなんて……本当に、恥ずべき行いです……」


 そう語る彼女の、固く握りしめた両の拳は震えていた。視線を伏せて、また少し間があって、彼女は続けた。


「お母様のあの魔法は、本来は存在し得ないはずの力なんです。お母様は、何度聞いても笑ってばかりで、何事も話されませんでした。それでも、自身に多大な負担をかけているって、私にはわかるんです。それなのに、あなたを戦場に立たせて、それで負傷して、それでお母様がって……そう考えると……ダメなんです」

「……俺が戦わなくても、それでも誰か傷つくことはありますよね?」


 ほんの少し、彼女は身を揺らした。目を閉じ、唇を引き結び、無言で肯定した。

 この先は……もしかしたら、彼女を傷つけるかも知れない、残酷な問いだ。それでも、今言わなきゃいけないと思った。


「あのとき俺が考えたアレで、もしかしたら誰か傷つかずに済むかもって、そう思われてたんですよね」

「私は……!」


 彼女は瞳を潤ませて、少し大きな声を出した。しかし、続きの言葉はない。顔を横に背け、目を閉じた。

 今度は俺の番だ。


「俺は、この世界に来るまでに……実は一回死んでます」


 俺に顔を向けた彼女は、どうやら聞かされてなかったようだ。少し口を開き、目を見開いている。


「死んだとき、知らない女の子を助けました。それで、家族と同じところに還る、当たり前の選択を捨てて、今ここにいます。今でも、あっちのみんなのことは……たぶん、愛してると思います。だからこそ、こっちで命を大事にして、ぬくぬくとなんて生きられない。今ある命で、この世の誰かを精一杯助けないとって、そう感じているんです」


 彼女はまた顔を背けて視線を伏せた。俺は続ける。


「俺が見つけたことに、あなたが食いついて、閣下が褒めてくださって……本当に嬉しかったんです。ここに来て不安ばかりでした。その中で、俺のことを認められたようで、俺の中に見いだされたようで、こっちでも頑張っていけるって、そう感じたんです」


 彼女は胸の前で腕を交差させた。肘を掴む手が揺れている。


「ここ数日、あなたとなんか距離ができてしまったみたいで、今こうして話すことを恐れていました。拒絶されたらって。でも、何もしないまま諦めたくなくて、今こうしてます。あなたにも、やる前から何もしないまま諦めてほしくない」


 言葉を切って、息を吸った。口から熱を吐いているようだ。それでも、内側からはまだまだとばかりに、いつまでも熱さが湧き上がってくる。


「必要があれば、戦場に立たせてください。痛いのはやっぱり嫌ですし、傷ついていられない理由はさっき聞けました。それでも誰か傷ついてしまうなら、一緒にそうならない方法を考えませんか」


 頭の中で渦巻いていた思いの一つ一つを、彼女に伝えていって、最後の一つが残った。一度息を呑んで、俺は伝えた。


「色々言いましたけど、結局は前みたいに、あなたに微笑んでほしいって、それだけなんです、俺は」


 彼女の顔から、少しずつ悲しさが消えていった。

 今は視線を伏せて思案に暮れる、難しい表情をしている。いつもの考え事をするときの、あの顔だった。これからを前向きに考えている、そう素直に感じられた。


 言うだけ言って、返答を待った。俺達の間を何度も風が行き来した。肩ぐらいまである彼女の髪を、風が何度も揺らした。彼女は微動だにしない。

 少しだけ、気持ちを良い方に傾けられたと思った。しかし迷いは尽きないようだ。ここまで色々言っておいてなんだけど、迷わせて悩ませて困らせるのは本意じゃない。もう少し、別の方からも手を差し伸べることにした。


「……やっぱり、不安だからってことで、俺を戦わせないというなら、今ならその判断を素直に受け入れられます。その時は、もっと先生の言うことを聞いて強くなって……いつかあなたに先生って呼ばせてみせますから」


 彼女は顔をこちらに向けた。


「ありがとう」


 顔は少し硬いままだったけど、声は落ち着いていて優しかった。


 それからまた静かになった。もう言うことはないと思う。

 それでも、風の音と草のざわめきしか聞こえない状態に、少し落ち着かなくなってきたところに、彼女は俺に顔を向けた。

 まだ迷いや悩みは見える。でも、ここ数日の沈んだ顔より、ずっと魅力的だった。


「私が考えているのは、あなたの罠を使って敵を効率的に減らして、戦うみんなから危険を少しずつ遠ざけるという作戦です。代わりに、あなたを戦場に立たせることになって……誰かが傷つく可能性を減らす代わりに、あなたを危険に晒す可能性がある、そういう作戦です」


 彼女は一度言葉を切って、目を閉じた。

 それから少し間があって、見開いた彼女の目は、何か乗り越えた輝きがあって、美しかった。


「私に協力してください」

「はい」

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