3-6

「ちょっと休憩にしよっか」

 鏡子の言葉に従ってプールから上がる。

 施設内の大型時計に目をやると、すでに午後二時を指そうとしていた。水に入ったのが午後一時少し前のことなので、浮いていただけとはいえ一時間近くも水に浸かっていたことになる。それは今までのイコのことを考えると奇跡的なことだった。

 二人はフードコートへ向かった。お昼は各自で済ませてきたが、あまり食べると水着になるのにお腹が出そうだったのでいつも以上に遠慮していた。そのせいもあって疲れた身体はカロリーを求めていた。

 昼時を過ぎていることもあって、フードコートに人はまばらで、わざわざ席取りをすることもなく座ることができた。飲み物とホットドッグを買ってテーブルに着く。お金は付き合ってもらったお礼にイコが支払った。

 二人は椅子に座ってジュースとホットドッグを一口囓る。

「なんとかなりそうだね、イコ」

「でも、顔を浸けるのは無理だったよ」

 あれから何度も水に顔を浸ける練習をした。しかし二秒ともたずに顔を上げてしまう。

 やはり過去の死にかけたトラウマは強烈らしく、水に浮くのと顔を水に浸けるのでは大きな差があったのだ。

「まあこればっかりはね。時間をかけるしかないって。でもさ、海に行って水に顔を長時間浸けることなんてなくない? 遠泳するわけでもなし」

「うーん、それはそうかも」

 トライアスロンの練習やダイビングじゃあるまいし、ただ遊びに行っただけで海水に顔を浸けることは中々ないだろう。海に遊びに行ってすることといえば、浅瀬でじゃれ合ったり、ボートに乗ったり、それこそ浮き輪に身を任せるくらいだ。

 なら顔を浸ける練習はまた今度でもいいかもしれない。とりあえず今はもっと水になれることだ。鏡子の手を離しても浮いていられるくらいにはなりたい。

 そんなことを思いながらイコは買ってきたホットドッグを平らげる。その様子を、まだ半分以上ホットドッグが残っている鏡子が見ていた。

「食べるの速い」

「疲れたからかな。お腹空いちゃって。もう一個買ってこようかなっ」

 肉体的にはもちろん、精神的にもイコは疲労が溜まっていた。トラウマを克服するには凄まじいエネルギーが必要なのかもしれない。

「あんまり食べると太るよ?」

 と、その鏡子の言葉を聞いて、立ち上がりかけていたイコの動きが止まる。そしてゆっくりと椅子に腰を下ろすと、

「……ヤバい? ねぇヤバいっ!?」

 水を克服することで頭がいっぱいで、体型のことまで気にしていなかった。慌てて自分の全身を目視でチェックするが、毎日見ているせいで自分じゃ体型の変化がよくわからない。

「ヤバくはない……と思う」

「ちょっと自信なさげだよっ、かーちゃん!」

 どうしよう。もしかして太ったのだろうか。

「もしも太ったのなら、水を克服する前にダイエットだよっ。ぷよぷよなままじゃ尋人と海になんて行けないよっ!」

 尋人がどう思うかなんてわからないが、太ったことでイコの水着姿を見て幻滅される恐れがある。それはなんとしても避けなくてはならない。

「ちなみにイコ、その水着はどう? ていうか、海もプールも行かないのによく水着なんて持ってたね」

「ああ、これはね、去年のなんだ。海もプールも行かなかったんだけど、お店で見かけて可愛かったからつい衝動買いしちゃった。一度自分の部屋で着て鏡で見ただけだったんだけど、こうして着ることができて良かった――って、違うよっ!」

 イコは自分の水着を見つめる。

 去年、着る当てもないのに買ってしまった黄色のビキニ。買ったその日に、部屋で一人こっそりと着てはしゃいだのを覚えている。そのときに着ていた感覚を思い出す。

「……なんかちょっと、きついかも。胸とか、おしりとか……」

 確か去年はジャストサイズだったはずだ。きつくもなくゆるくもなく。まさに自分が着るために売られていた水着なんじゃないかとか思ったくらいだ。

 だがその水着が、今は心なしかきついように思う。

「どうしようっ、かーちゃん!」

 よく見ると、下の水着の上に僅かにお腹の肉が乗っているようにも見える。胸も締め付けられている感覚がする。

「これって太ったってこと? そういうことっ!?」

 取り乱しながら確認を求めると、鏡子はジュースをストローで吸って、それをテーブルの上に置いて両手を胸の下で組んで目を閉じる。「うーむ」なんてわざとらしい声を上げてから目を開いた。

「……それってさ、太ったんじゃなくて成長なんじゃ?」

「せ、成長?」

「そ。高校二年になって、より女性らしく成長したんだよ。あたしらの年代は一年あれば体格とか変わるからね。要するに、グラマラスになったってこと」

 グラマラス。

 そう言われるとなんだか照れる。確かに胸のサイズも去年と比べると大きくなっているし、成長と言われればそれも間違っていないような気がする。

「それに別に太ったなんて印象はあたしはないな。別に大丈夫なんじゃない?」

 と、鏡子は残りのホットドッグを口に運びながら言った。

「そ、そうかなぁ」

「そりゃね、スリーサイズが全部一緒とかはヤバいよ? でもイコくらいは普通だと思うけどね。それに、その人にもよるけど、男子は少し肉付きのいい女子のほうが好きとか聞いたことがある。例の彼はどうなの?」

「えっ、し、知らないよ、そんなことっ」

 尋人と女の子の好みなんて話をしたことがない。でも好みの話にまでなってくると、頑張ってダイエットしすぎたせいで尋人の好みの枠から外れるということもありえる。難しいところだった。

「今度訊いてみたほうがいいかな。でも今から調整するのは厳しい気も……」

「悩むねぇ」

「だって、どうせなら尋人の好みに合わせたほうが喜んでくれ――って、だからなに言わせるのっ、かーちゃんっ!」

 顔を真っ赤にして怒ると、鏡子はいやらしい笑みを浮かべて笑った。

「うぅ」

「ま、あれだね。彼の好みがわからないなら、へたなことはしないほうがいいんじゃないかな。それと水着、きついなら買い換えたほうがいいかも。まあ、あえてそのまま行ってエロスな方面で仕掛けるのも一つの手」

「え、今のイコってエロスな感じになってるの?」

「正直、ちょっとね。むっちり感は少し出てる」

 恥ずかしさを通り越して死にたくなった。さっきまでは水を克服することに集中していて気にもしなかったが、鏡子にそう言われるとすごく周りの視線が気になり始めた。自意識過剰なのはわかっているが、腕で身体を抱くようにして隠してしまう。

「それ、胸が強調されて逆効果」

「――っ!?」

 もう穴があったら入りたかった。

「だから、気にしすぎ」

 気にさせているのは鏡子だろうと言ってやろうかと思った。

「とにかく、水着は買い換えたほうがいいかもね。今までは自己満足のための水着だったけど、今回は男子に見せるための水着なんだから」

(男子に、尋人に見せるための……)

 確かに鏡子の言うとおりだ。

 今までは海もプールも縁がなかったため、水着を買うことすら珍しかった。それにどうせ行けないからという理由で自分の好みを最優先させていた。

 でも今回は違う。明確な見せる相手がいる。見てくれる相手がいる。

「……ねぇ、かーちゃん?」

「ん?」

「もしよかったら、水着選びも付き合ってくれませんでしょうか」

 初めての異性を意識した水着。経験も情報もなにもない。

 失敗したくはなかった。

 そしてそれには、自分以外の知恵と手助けが今のイコには必要だった。

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