3-5
「――で、これはどういう風の吹き回し? いや、なんとなくわかるけども」
夏の日差しがガラス張りの天井から降り注いでいる。その太陽光はイコと鏡子のいる施設の中を照らし、周りを流れる水に反射してキラキラと輝いていた。
周囲からは楽しそうないくつもの声が聞こえている。子供のはしゃぐ声、それを注意する親の声、友達同士で騒ぐ声。そんな喧騒の中に身を置きながら、鏡子は細めた目でイコに視線を送っていた。
「えっとねぇ……ほら、たまにはいいかなってっ」
なんて言い訳してみるが、鏡子にはまるで通じていない。
「たまにもなにも、イコは嫌いじゃん。――プールなんて」
イコは十年前、大雨で増水した川に流され、生死の境を彷徨った。それからは水が怖くなり、顔を水につけることはおろか、腰よりも深い水の中にすら入れなくなってしまったのだ。
だからイコはプールに遊びに来たことなんてない。学校の授業ですらいつも見学しているくらいだ。
「急に泳いでみたくなって」
「その心は?」
ジトッとした目で睨まれる。中学からの付き合いとはいえ、イコの嘘くらい鏡子にはバレバレだ。目を逸らしても鏡子の視線をずっと感じていた。
「……プールにでも誘われた? もしくは海か」
ドキリとする。
すぐにバレてしまった。なんでもお見通しなのが悔しい。そんなにわかりやすい顔をしていただろうか。
バレてしまっては仕方がない。イコは素直に言うことにする。
「海に行きたいって、言われた」
誰に、などと言うまでもなく鏡子はその相手を理解している。だからそんな野暮なことは訊かず話を続ける。
「それで少しは水を克服しようって?」
イコは頷いた。
尋人に海に行きたいと言われ、正直なことを言えば戸惑った。
行くこと自体は嫌ではない。そりゃ、水着を見られるのは恥ずかしいが、それでも尋人ならいいかなと思った。
でも問題はそこではなく、自分が水の中に入れないことだ。
腰よりも深い水に入ると足が竦んで動けなくなる。水が膝を超えたあたりから少しずつ気分が悪くなってくることもある。そんな状態で海になんて行っても楽しくはないし、尋人に無駄な気遣いをさせてしまうことは間違いない。
イコも年頃の女子高生だ。可愛い水着を着て、異性に見てもらいたいという気持ちはあるし、テレビで見るように海の空気を感じて遊んでみたいとも思うこともある。泳ぐことはできなくても、浅瀬で戯れたり、ビーチボールで遊んだり。でも今のままじゃ、それも難しく思う。
だったら場所を変えればいいじゃないかとも思ったが、尋人の海に行きたいは自分がドタキャンしたライブへの埋め合わせだ。自分の都合で尋人の希望を変えるのは忍びなかったし、なにより尋人が言ったのだ。
『――僕は――海に行きたい。イコと、一緒に――』
――と。
そう、一緒に行きたいと言ってくれたことが嬉しかった。
尋人もイコと同じ年頃の男子だ。海に異性と行くといえば少なからずの下心があることくらいわかっている。普通ならその下心を向けられてもあまり良い気分はしないが、尋人から向けられるその下心には不快感はなかった。
それは尋人がイコのことをちゃんと異性として、女の子として見てくれているということだ。意識しているということだ。そう思われていることが嬉しくて、だから泳げもしないのに、水が怖いのに尋人と一緒に海に行ってみたいと思った。
そして海に行くのなら、少しでも楽しく、少なくとも尋人に変な気を遣わせなくてすむくらいまで、水に慣れておきたかったのだ。
だからイコは鏡子に頼んで水に慣れる訓練をすることにした。一人ではやはり不安だったし、当然まだ恐怖心がある。
「……だめ?」
改めて鏡子に訊いてみる。もしも鏡子に断られたら頼める当てなんてない。そうなると尋人と海に行く計画自体が破綻しかねなかった。
しかし鏡子は小さく笑うと、
「いいよ、もちろん。そもそも、イコに誘われて、水着持ってきて、着替えて、プールサイドに立って、それで今更だめなんて言うわけないし」
「かーちゃん……ありがとぉっ」
イコは鏡子に飛びつき胸の中に顔を埋めた。鏡子はイコを無理矢理引き剥がしながら、
「よし、じゃあさっそく特訓するか!」
「よろしくお願いしますっ!」
言って、イコは深々と頭を下げた。
まず二人が向かったのは施設内にあるレンタルショップだ。
この施設は、例の高倉青年が現社長を務める会社が経営するレジャー施設であり、市内でも一、二を争う大きさと広さを誇るプールだ。
プールの種類も多く、競泳用、子供用、流れるプール、温水、波の出るプール、なんの変哲もない普通のプール、外に出ればウォータースライダーと、一通りの設備が揃っている。
なのでこのレンタルショップにもいろいろな物が置かれている。ビーチボールにゴムボート、そして当然、浮き輪もある。
イコはピンク色の浮き輪を一つレンタルし、普通のプールに鏡子と向かった。流れるプールや波の出るプールは人気があるし、競泳用は泳いでいる人の邪魔になる。子供用のプールはさすがに浅すぎて論外だった。
普通のプールにはあまり人がいない。ボートに寝そべってプカプカ浮いている人さえ見える。
「じゃあとりあえず入ってみようか。浮き輪つけて、あたしも手を繋いでるから。安心しておいで」
「う、うんっ」
先に鏡子がプールに入る。鏡子の身体が肩までプールに浸かっているが、足は下に届いてはいるようだ。
イコは浮き輪を装備し、それをしっかりと左手で押さえる。そしてプールの端っこにある手すりを右手でしっかりと握って少しずつプールの中に入っていく。
まず足が水に触れる。しかしそれだけでビクンと身体が震えた。水の冷たさが、嫌な記憶を少しだけ掘り返す。
梯子状になっている手すりを降りていく。膝の位置まで水がくる。なんだか妙に喉が渇いてきた。少しずつ降りていく。水が腰を濡らし、浮き輪が水に浮く。
「……っ」
まだ半分しかプールの中に入っていない。しかし当時の、濁流に呑まれたときの記憶を思い出し身動きがとれなくなった。
(浮き輪があるから、大丈夫……っ)
そう思っていても足は動かない。水に入ることも、水から上がることもできない。へたに動いたらそのまま溺れてしまうのではないかと錯覚する。
「イコ」
そっと、浮き輪を握りしめる左手に鏡子の手が触れる。顔だけを鏡子に向けると、彼女は優しい笑みを浮かべて訊いた。
「どうする、やめる?」
ここでやめると言えば鏡子が水から引っ張り上げてくれるだろう。でもそれじゃあ意味がない。
尋人との海は近いうちに訪れる。それまでに水に浸かっても平気なくらいには克服しなくてはならない。
やめると言うことは簡単だ。でもここで止めてしまったら、きっともう水には浸かれない。尋人と楽しく海で遊べない。
ガッカリする尋人の顔が頭に浮かんだ。
「……がんばるっ」
浮き輪から手を離し、鏡子の手を握った。そして一度大きく深呼吸して、手すりから右手を離して梯子を蹴る。
濁流に流されたときに似た浮遊感が全身を包む。当時の記憶を鮮明に思い出して吐きそうになるが、しっかりと手を掴む鏡子の手の感触がそれをいくらか軽減してくれた。
「よし、いいよ。絶対に沈まないから、大丈夫だから、そのまま少し浮いててみよう」
鏡子が両手を握っていてくれる。浮き輪が身体を支えてくれている。全身に水の感触があるが、なんとかパニックにならずに鏡子の言葉を聞くことができた。
水の中を鏡子が歩き出す。引っ張られるままにイコは水の上を進んだ。小さな水の飛沫が頬を濡らす。鏡子の手が心強い。緊張感もあるし、気分も少し悪い。でもそれ以上の安心感があった。
信頼できる誰かにこうして手を握ってもらっていれば、もしかしたら水に浮くことくらいは克服できるんじゃないか。そう思うとやる気もでて、イコはバタ足で水を蹴る。ぎこちないけど、それはイコがとても久しぶりに泳いだ瞬間だった。
(これなら、顔を浸けるくらいはできるかも……っ)
なんて、調子の良いことを思ったりもした。
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