3-2
「こんばんは、尋人」
「あ、う、うん。こんばんは」
アリスにログインすると、部屋の中にはイコがいた。すでにカメラを接続していたらしく、部屋に入るなり右上のワイプにイコの顔が映る。それを見てドキリとし、口ごもった挨拶を返してしまった。
イコと話をしたいと思った。昼間の古山の言葉がチラつき妙に恥ずかしかったが、でもだからといって話をするのをやめようとは思わなかった。
連絡先は昨日聞いていた。でも電話はおろか、メールをする気にはなれなかった。電話やメールをしてしまったら、たぶんこれから先はそういう連絡手段が主になって、顔を見ることは少なくなってしまうような気がしたのだ。
どうせ話をするなら顔を見たい。だから尋人はいつもの時間まで待ってアリスにログインすることにしたのだ。
「どうかした、尋人?」
名前を呼ばれて慌てた。ワイプの中でイコが小さく首を傾げる仕草をする。
(く、か、可愛いな)
そんなことを思ってしまうのは、間違いなく昼間の古山との会話が原因だ。
「な、なんでもないよ」
なるべく平静を保って返す。するとイコは「そっかっ」と明るく返事をした。
「そういえばさ、尋人」
「うん?」
「ちょっと訊いてみたいことがあったんだけど、いい?」
良いも悪いもなかった。イコと話をできるなら、どんな話題にだって答えるつもりだ。
尋人は頷く。
「尋人ってさ、進学校に通ってるんだよね。進学校ってさ、一般校となにが違うの?」
古山も言っていたが、尋人は学校が嫌いだ。あの空気が嫌いだ。だからできれば思い出したくなんてない。
でもどういうわけだろう。イコにそう聞かれても、全然嫌だとは思わなかった。むしろ自分のことを気にしてもらえて嬉しいとさえ感じていた。
「違い? そうだなぁ。授業時間が七時間だったりとか」
尋人は中学も高校も進学校だった。そのため一般校の当たり前のほうがわからない。だから古山から聞いたことがある一般校の当たり前を思い出して答えることにした。
「えっ、七時間もあるの? 六時間じゃなくて?」
「うん。一時間目の前に、ゼロ時間目ってのがあってさ」
そう言うとイコはあからさまに嫌な顔をした。
テスト勉強のときもそうだったが、イコはやはり勉強自体が苦手らしい。勉強が苦手なイコにとって、ゼロ時間目の存在は耐えがたいものなのだろう。
それからもイコはいくつか質問をして、そして進学校と一般校の違いに一喜一憂する。尋人はそのころころ変わる彼女の表情をずっと見ていた。それが楽しくて、いろんな話をする。もちろん、イコが通う一般校のことも訊いた。イコのことを知れるのは、それがどんな些細なことでも嬉しかった。
「うへぇ、みんな勉強熱心なんだねー」
進学校の日常にイコは少しぐったりしながら言う。でも一つ間違っていた。決して、みんなではない。
尋人だけは、その日常からはみ出ているのだ。クラスメイトも、古山も、授業以外でも勉強をしている。塾に通ったり、家庭教師をつけたり。そして誰よりも上へ、一点でも高い点数をと競っている。
でもそんな日常は――。
「つまらないところだよ」
本心から、そう思った。
「でもなにか一つくらいイベントないの?」
「イベント?」
「そっ。男子と一緒にナンパしたりとか。頭が良いってだけで女子にはモテると思うし」
「そんなことしてる暇があったら一つでも多くの英単語や公式を覚えるってのが、ガリ勉の考え方だよ」
「じゃあ、前みたいな勉強会は? 尋人、頭いいから、他の女子を集めて勉強会! わからないところを教えてあげて親密になるとか」
「周りはみんなライバルで敵なんだよ。敵に弱みを見せて教えを請うなんて、誰もしないんだ。そこに男子も女子も関係ないんだよ。ここがわからないから教えてー、なんて、そんな可愛げのあることを言う女子なんて一人もいないよ。僕の周りの女子より、イコのほうがよっぽどかわ――っ!?」
言いかけて、慌てて口を噤む。
(な、なに言おうとしてんだ、僕はっ)
勢いというのは怖い。あそこで踏みとどまらなければ、まるで告白みたいなことを言ってしまうところだった。
反射的に目を逸らしてしまった尋人は怖々と視線をパソコンの画面に戻す。
「でも、羨ましいなぁ」
「う、羨ましい? なにが?」
「イコはさ、いつも考えるよりも先に身体が動いちゃうから。直感でこれだって思うとその通りに身体が動いちゃう。それでよくお母さんとかに怒られたりもするんだ。もう少し落ち着いて行動しなさいって。でも考えるのって苦手で。だから、そうやって考えてなにかができるのって、少し羨ましい」
そう言うイコの表情は少し陰っていた。
きっと小さいころからそうやって言われ続けてきたのかもしれない。自分でもそれが悪いところだと自覚していて、治したいと思っているのかも知れない。
でも、ワイプの中のイコは笑っていない。
「そんなことないと思う」
自然と、言葉は口から出た。
「イコはそのままでもいいと僕は思うよ。感情的なのは悪いことじゃないよ。なんでもかんでも頭で考えて生きるのは、たぶんとてもつまらない。人間は機械じゃないから、感情に従って行動するのが間違ってるわけじゃない」
尋人は今までイコとは正反対の生き方をしてきた。感情よりも頭で考えることを優先してきた。
「僕の周りにはイコみたいな女の子はいなかったよ。だから僕はイコと知り合えて良かった。今までの僕は、勉強して、良い成績を残すことだけの人生だった。楽しいなんて思ったことはなかった。でもイコと知り合って、毎日イコと話をしたいと思った。イコと話をしている時間が、僕にとっては一番楽しい時間なんだ。こうしている時間が、なによりも大事なんだ」
なにを言ってるんだ、と頭ではわかっている。でも言葉は止まらなかった。たぶんこれが、感情で動くということなのだろう。
それは今まで経験したことがない感覚だった。なんだか身体が熱かった。とても恥ずかしかった。でも尋人はイコから目を逸らさず、気持ちのままに口にする。
「それに、イコは今あまり笑ってない」
「え?」
「生き方を変えることで笑顔になれないのなら、そんな生き方はしないほうがきっといいんだ。イコは、笑っているほうが可愛いよ」
「――っ」
(ああ、言ってしまった!)
さっきは踏みとどまったのに、今はそれができなかった。どんどん体温が上がっていくのを感じる。
でも、後悔はない。尋人が望むのは、笑顔のイコなのだ。
「……尋人」
イコが小さく名前を呼ぶ。
今まで女の子にこんなことを言ったことはなかった。だからイコが今、どういう気持ちで尋人の言葉を受け取ったのかまるでわからない。イコがどんな反応を返してくるのか想像もつかない。
もしかしたら怒られるんじゃないか。気味悪がられるんじゃないか。そんなマイナスな気持ちがぐるぐると渦巻く。
今からでも取り消したほうがいいんじゃないか。そんなことを思っていると、なにやらイコがばたばたとし始める。そして慌てたように言った。
「あ、ごめん、尋人。電話が」
イコは一瞬なにかを言いたげな視線を送るが、結局なにも言わずに椅子から立ち上がって画面の中から消えた。
静寂が訪れた。とたん、尋人の熱も冷め始める。でも、顔の熱さだけはいつまで経っても引かなかった。
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