Never goodbye

にゃご

第1話

 二月二十九日生まれの彼女は、四年に一度、歳を取る。

 「お誕生日おめでとう」

 「ありがとう」

 椅子に座った彼女の肩にとんと触れると、彼女はにこりと笑って振り返った。声をかけると向けられる、ふうわりと柔らかな笑顔が、僕は昔から大好きだった。

 「君は幾つになったんだっけ?」

 「あら。覚えていてくれなかったの?」

 今年で二十二になったわと、彼女は悪戯っぽく肩を竦めた。二十二歳。彼女がこの世に生を受けて、八十八年目。今日は、特別な日だ。

 「……僕らが結婚してから何年だったかな?」

 「それも忘れてしまったの?」

 彼女は形の良い眉をきゅっと寄せて、口元は笑ったまま、少し睨むような上目を僕に向けた。

 「……思い出すまでケーキはお預けね」

 それは酷い仕打ちだなと僕が返すと、あなたが悪いのよと彼女は鈴のように笑った。テーブルの上でふわふわと湯気を上げる甘いケーキの香りが鼻腔を擽る。彼女の焼くシフォンケーキは僕の大好物で、目の前にあるのに食べられないこの状況は、確かに酷い罰だった。

 「じゃあ、なんとしてでも思い出さないと」

 「そうね」

 僕の言葉にうなづいた彼女の髪をそっと撫で、僕は少し身をかがめた。細い肩を両腕で抱きしめて耳元に口を寄せると、彼女はくすぐったそうに身動いだ。

 「……君と出会ったのは、僕が苦学生をやっていた頃だった」

 そんなところから数えるの?と腕の中で彼女が笑い、僕はそうだよと応えた。

 僕たちが出会ったのは本当に偶然の賜物だった。彼女は喫茶店で給仕をやっていて、僕は本当に金のない学生で、遊びなどほとんど何も知らなかった。本当なら出会うはずのなかった君と僕が出会えたのは、だからもうそれだけで奇跡だった。

 「あなたがお店の看板につまづいて、私がそれを叱ったのが最初でしたね」

 「……格好良い出会いではなかったね」

 くすりと笑う彼女に赤面して応じる。昔から、とろくさいのは僕の方で、彼女はずっとしっかりしていた。

 「……でも、父に立ち向かうあなたは格好よかったわ」

 「ああ……君には許嫁がいたからね」

 君と離れるのが嫌だったから、僕も頑張れたんだよ。

 格好よかったと言えるほど、格好よかったかは分からない。なにしろあの時は必死だった。なんとかして、君を僕のものにしたかった。

 「仕事は……大変でしたよね?」

 「大変だったのは、僕よりも君の方だったんじゃないかな」

 結婚を認められた僕は、君を幸せにしたい一心で必死で働いた。高度経済成長は金銭的な豊かさを僕たちに与えはしたけれど、僕はすっかり会社の奴隷になり、気づけば、君のために始めたことが、君を苦しめる結果になっていた。喧嘩もたくさんしたけれど、あの時の僕には、君が怒る理由が分からなかった。本当に申し訳なかったと思う。

 「……子供たちには恵まれたね」

 「ええ。それは本当に」

 そんな中でも、僕たちの間には四人の子供ができた。男の子が三人と女の子が一人。長男は真面目で勉強が得意。弟と妹の面倒をよく見てくれる、いいお兄さんだった。次男は自由奔放で、母である君はそれは苦労をしただろう。高校を出てすぐに働き出した彼はでも、根は素直な良い子だった。長女はおてんばで、兄と一緒にいつも飛び回っていた。そんな彼女もいつのまにかすっかり女性らしくなって、口の達者なあの子に、僕はいつもたじたじだった。三男は少し歳が離れていたこともあって、家族みんなで甘やかしてしまったね。でもお陰で、びっくりするくらい優しい子に育ってくれた。今はみんな独立して、それぞれの道を歩んでいる。彼らの幸せが、僕らの幸せだ。孫も九人。あの子たちの成長が、僕の最大の楽しみだった。

 「……ダイアモンド婚式は楽しかったなぁ」

 「あら。思い出してきたみたい?」

 そう。あれは六年前。息子夫婦と娘夫婦、孫たち全員が集まり、結婚六十周年を祝ってくれた。あの時、僕はもう口から物を食べることは出来なくなっていたけれど、目の前に並んだ色とりどりの料理やお菓子、君やみんなの笑顔を見ているだけで、胸もお腹もいっぱいになったのを覚えている。

 「……ああ、分かったよ」

 今日は君の二十二才の誕生日で、僕たちの六十六回目の結婚記念日だ。

 「大正解」

 彼女はにっこりと笑った。

 最期は病院で迎えた僕と違い、君は今日までずっと健康で、元気だった。一人になった君が子供達の誘いを断ってこの家に居続けたのは、僕のためだと知っていたよ。僕たちが生きたこの場所を、君は守ってくれたんだよね。君と子供たちと、みんなに見送られて逝けた僕は幸せだったけれど、ただ一つの心残りは、君を一人残して逝くことだった。けれどこうして見ていたら、君は案外楽しく日々を過ごしていて、生き生きした姿に僕の方がちょっと寂しいくらいだった。僕なんて居なくても、君は君らしく生きていられるんだなってね。

 「そう見えた?なら、満足よ」

 あなたへの意趣返しのつもりだったのと瑞々しい肌を輝かせて彼女が言う。年老いた彼女は、焼き上がったケーキの前の椅子に座って、眠っているかのように首を垂れている。僕たちは彼女の体を見下ろしている。僕の肌も瑞々しい。肉体の縛りを離れると、魂は人生で一番美しい時の形をとる。君も僕も、初めて出会ったあの日の形をしている。僕たちそれぞれにとって、あの日が一番、美しかったのだ。だって、僕たちが出会った日だから。

 「……あの子たち、驚くかしら」

 自分の肉体を見下ろして、彼女の表情が初めて陰った。この瞬間の不安は、僕も、よく分かる。よく分かるのだけれど。

 「……驚きはするかもしれないね。少しすると悲しみが来て、自分を想って泣く彼らを見るのはすごく辛い」

 でも、と僕は彼女の手をとって続けた。でもね。

 「でも、君にも、あの子たちにも申し訳ないんだけれど……僕は今すごく嬉しい」

 こうしてもう一度君と触れ合えることが、僕はとても嬉しい。

 大好きだよと呟いて口付ける。魂が触れ合う口づけに温度はないけれど、二人の境目が分からなくなるような、とろりと溶け合う一体感がある。

 唇を離して向き合うと、初めてキスした時のように頬を染めた彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。

 「……本当は、寂しかったのよ」

 「知ってるよ」

 窓の外は未だ暗く、子供たちが彼女のお祝いをするために集まるまでには、まだ数時間の猶予がある。それまでは、ここでもう少し話をしよう。それから、彼女が彼女のために悲しむ彼らを見て悲しむのに、僕は静かに寄り添おう。先に逝ったお詫びに、君の死の悲しみは僕が一緒に請け負おう。そうして、その後は。

 「……これからは、ずっと一緒だよ」

 君がうんざりするまで、僕は君と共に在ろう。

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