助け出せ

 『異形の怪物』は再び動きを止めていた。

 しかしそれを静止と呼ぶのは、憚られるところだろう。何故なら『異形の怪物』の白い身体は息切れするように上下しており、「ピィー」という甲高くも巨体からすればあまりにもか細い鳴き声が時折聞こえてくるのだから。

 明らかに、『異形の怪物』は弱っていた。もうしばらく動き続けたら、死んでしまうのではないかと思えるほどに。


「だからって登ろうとするのはどう考えてもおかしいでしょーが!」


 尤も、それで『接触許可』が出るなら苦労はない訳で。


「いいえ! 行かねばならんのです!」


 分かった上でという決断を下したレイナが、平治に引き留められたぐらいで止まる筈もなかった。

 転がるのを止めた『異形の怪物』のすぐ傍までやってきたレイナは、平治に組み付かれながらもじりじりと前に進み、怪物の下へと向かおうとする。何時また怪物が動き出すか、分かったものじゃないというのに。


「あ、危ないですよ……何時動き出すか分からないですし……」


「そうです! 何時また動くか分かりません……これ以上疲弊させたら、この子が死んでしまうかも知れません! だから急ぐのです!」


「いや、そもそもなんで急ぐのさ!? 自分で転がっているんだから、疲れたら勝手に休むだろ!?」


「いいえ! 恐らくあの子は休めません! !」


「はぁ!? 休ませないって、一体どこのどいつが――――」


 至極尤もな平治の反論。それに対するレイナの答えはその手に握っていた、少し前に道子から奪い取った怪物の毛。

 いや、道子とレイナの手により開かれたそれは、最早毛とは呼べないだろう。無数に枝分かれした細かな枝毛を持つそれは『羽毛』である。

 或いは『羽根』と呼ぶべきか。


「『異形の怪物』の正体は、恐らく鳥類です」


 その羽根から導き出した結論を、レイナは臆さずに語った。


「と、鳥? いや、まぁ、毛は確かに羽根っぽいけど……でも翼も足もないし、目や嘴もないぞ?」


「町からたった二十キロしか離れていない森にいるのに、今まで目撃証言すらなかった怪物です。海を渡ってきたとか、森に潜んでいた訳じゃない……恐らくこの森の地下深くには空洞があり、そこから現れたのでしょう」


 そうだと考えれば、あの奇怪な姿にも多少は得心がいく。

 地下空洞という限られたスペースの中では、飛行のための翼や、細長い足は邪魔だろう。それに光がない環境では体色を失って白くなり、目も退化して喪失する筈だ。嘴も食べ物次第では必要なく、転がる際に邪魔なら退化していく。

 ミミズトカゲと呼ばれる爬虫類は、地中生活に適応するために手足も目も退化させ、ミミズのような姿となった。例え鳥であろうとも、洞窟生活に適した姿があるなら鳥から逸脱した姿となる。生命とはそういうものだ。


「そ、それは分かったけど……だからなんなんだ? 鳥だと何か不味いのか?」


 白い球体が鳥だとは到底思えないのか困惑しつつ、しかし平治は新たな疑問を呈す。

 彼の言い分は尤もだ。そしてその疑問を抱くのも仕方ない。彼は新人作業員で、昔の事など知らないのだから。

 レイナと違って。


「私は先日、鳥の怪物に取り付けられた機械を見た事があります。その鳥の怪物も、異常な行動を引き起こしていました」


 脳裏を過ぎるのは、ほんの数日前の調査――――『天空の怪物』の身に起きた事。

 かの怪物も、普段の生息地から離れた場所に移動・滞在するという異常行動を起こしていた。その原因と見られているのは、身体に取り付けられた謎の機械。誰が作ったのか、どんな目的と役割があったかは未だ不明だが……怪物に機械を取り付けるという危険行為をしたからには、それなりの理由がある筈だ。

 そして『異形の怪物』が『天空の怪物』と同じく鳥類であるなら、そこに繋がりが見出せる。

 分類群が同じならば身体の構造は似たようなものになるだろう。神経系の仕組みや生理機能にも大きな違いはない筈。ならば機械の影響も、同じように受ける可能性が高い。

 同じ機械で操れたとしても、おかしくない。


「その鳥の怪物には機械が取り付けられていました。私達『ミネルヴァのフクロウ』には身に覚えがない、未知の機械です。あの時、それがどんな意図で付けられた機械だったのか疑問でしたが……この怪物を見て確信しました。恐らく、怪物の行動をコントロールしようとしていたのでしょう」


「怪物を、コントロール……?」


「そ、そんな事が出来るのですか?」


「やった人達は出来ると思ったのでしょう。実際、多少なりと行動は操れたみたいですし」


 ぐるぐると同じ場所を旋回する。

 自分が進んだ道を往復する。

 どちらも、野生動物が取らない行動ではない。しかしあまりにも規則的な動きは、そこに『人の意識』を感じさせた。それに無秩序な動きよりも規則的な行動の方が、ちゃんと操れている事を確認する上で都合が良い。『異形の怪物』が操られている、状況証拠ではあるだろう。

 ……推測に推測を重ねた、連想ゲーム的な発想だ。しかしレイナは確信している。あの奇妙な行動も、生息域から離れる事も、全て人間の仕業なのだと。

 なんと傲慢な、と思う。身の程知らずだとも。

 恐らく、いずれ報いを受けるだろう。レイナの知る怪物達は、人類の科学など鼻で笑うほど出鱈目な存在なのだ。今は上手く制御出来ているように見えても、何時か必ずしっぺ返しを喰らう。そのしっぺ返しが犯人だけを襲うのか、人類文明全体に及ぶかは分からないが。

 それはもう仕方ない。触れてはいけないものに触れたのだから。しかし、レイナには見過ごせないものがある。

 人間の都合で振り回される、なんの罪もない『異形の怪物』だ。

 ただの推測だから間違っているかも知れない。だけど間違っていないのなら、今もこの子は苦しんでいる。

 その考えに至りながら無視するなんて、レイナには我慢ならない。


「無理矢理操られているなんて、ほっとけません。助けたいんです。身の程知らずと罵られようとも」


 これがレイナの、正直な想いだ。

 実直な意見に何を感じたのか。平治と道子はしばし互いの顔を見合う。それから二人は同時に、大きなため息を漏らした。


「……分かった。それがあなたの考えなら、止めはしない」


「! あ、ありがとうございます!」


「ただし! ぼくは此処に残るからな! 万一アンタが落ちてきても、しっかり受け止められるように!」


「わ、私も、何が出来るか分かりませんけど……あの、で、出来る事はお手伝いします!」


 平治と道子の声援に、レイナはパッと笑顔を浮かべた。

 無論平治の言う、落ちてきたら受け止めるというのは中々難しい事だろう。道子に何か出来るかといえば、恐らく出来る事はない。二人の応援は、冷静に考えれば本当に『ただの応援』だ。

 しかしそのただの応援がレイナには嬉しい。自分の無茶を、沸き立つ衝動を、肯定してくれたのだから。


「――――はい! お願いします!」


 大切な『仲間』に背中を預け、レイナは目の前に存在する白い毛玉を登り始めた。その手に嵌めているのは、本来ならば崖登りで使用する特殊な手袋。ヤモリの能力ファンデルワールス力に怪物の生体機能を加えたもので、触れさえすればどんなものにも張り付く便利な代物だ。あくまで張り付くだけで、登るための力は自力だが。

 加えて登ると一言でいっても、適当な場所を選ぶ訳にはいかない。

 仮説通り『異形の怪物』が『天空の怪物』同様、機械により狂わされていたとしよう。その場合、用いられた機械は『天空の怪物』に使用されたものと同型と考えるのが自然だ。

 その機械だが、大きさは僅か五センチ程度。

 ……怪物の直径は約五十メートルもある。仮に真球だとした場合、表面積は凡そ七千八百平方メートルにも及ぶ。更に怪物は全身を体毛で覆っており、余程の近距離か手探りでなければ埋もれた機械は見付けられまい。この範囲を手作業で虱潰しに調べ上げるのは骨が折れるし、見落としのリスクも大きいだろう。何より時間が掛かっては、『異形の怪物』がまた動き出してしまうかも知れない。

 素早く目星を付ける必要がある。そしてレイナは既にある程度範囲を絞っていた。


「(この怪物は回転して移動しているように見えた。どんなに頑丈な機械でもこんな大きな怪物がのし掛かったら潰れるだろうし、或いは移動時の衝撃で外れるかも知れない)」


 つまり回転時に地面に触れる場所……進行方向から見て『前面』となる側には機械を設置出来ない筈だ。そしてそれは『異形の怪物』にも同じ事が言える。常に回転して移動する上で、『前面』に頭があると移動の度に顔面を叩き付けてしまう。どのような経緯でこの回転移動が進化したのかは不明だが、顔面を地面に叩き付けて怪我するよりは、無傷のままやり過ごす方が適応的だろう。

 ならばこの怪物の頭は前面ではなく、側面にある筈だ。そしてそこが最も衝撃を受け難い、安定した箇所ならば――――機械を取り付ける場所は他にない。

 これもまた推測だ。実は鳥ではなく、平治が指摘したように植物だとすれば、頭の位置なんて存在しない。不意にレイナが居る側へと転がり初めてぺっちゃんこ……そうなる可能性もある。

 だけどレイナは恐れない。


「(科学者が、自分の考えを信じない訳ないでしょ!)」


 レイナは自分の考えになら、命を掛けられる人間なのだから。

 心さえ決めてしまえばすいすいと登っていける。崖登りのようなものだが、体力的な問題はない。『ミネルヴァのフクロウ』の一員となる前まで、レイナは若くして世界的に有名な昆虫学者だった。世界中の稀少な虫を求め、人の手の入っていない環境を探索した事は一度や二度ではないのだ。

 昼間故に明るく、これといった強風も吹いていない。掴める場所は何処にでもあり、足を上手く毛に絡めれば体勢も少しは安定する。崖登りとしては左程難しくない。

 問題がなければ、このまま目的の場所までいける筈だ。

 ――――


「(……まぁ、いるわよねぇ。ここまで大きいのは想定外だけど)」


 ふとレイナは腕を止め、心の中でぼやく。

 進もうとした先に、直径五十センチほどの赤くて丸い塊がある。

 赤い塊は僅かながら動いていた。怪物の毛を掻き分けながら、レイナの方に接近している。時折見える足は細く、数は八本。表面には疎らに毛が生えており、剥き出しの肉のような皮膚をしていた。

 やがてレイナの間近までやってきたそいつは、生い茂る体毛の中から顔を見せる。

 頭は身体に比べ随分と小さく、触角も生えていない。鋭いナイフのように先の尖った顎を『一つ』持ち、その顎を左右から挟むように肉質の突起が生えている。顔面には八つの単眼がぽつぽつとあるだけで、とてもシンプルな顔付きだ。しかし単純だからこそ動物的な感情が感じられず、無機質で異質な印象を受けるだろう。

 レイナからすればだが、これだけ大きな個体は流石に初めてお目に掛かる。


「(ダニね。こんなところにまで進出してるとは、流石というかなんというか)」


 レイナの目の前に現れたのは、体長五十センチもの巨大ダニだった。

 動物の体表面に他の生物がいるというのは、決して珍しい事ではない。というよりそれが普通の状態だ。人間だって衛生状態が決して良くなかった数百年前まで、寄生性生物は身近な存在である。ヒトジラミに至っては人間専門の寄生虫であり、それだけ長い付き合いがあったという証。

 この巨大なダニも、怪物の体表面に適応した種であろう。一体どんな生態をしているか気になるが……まず気にすべきは、その食性だ。

 鋭いナイフのような口は、吸血性のダニと良く似ている。しかしだから宿主を吸血すると考えるのは早計だ。もしかすると宿主に付いた寄生虫を食べている、捕食性のダニという可能性も否定出来ない。実際、他の虫を食べる『益虫』のダニというのも珍しくないのだから。

 もしも捕食性のダニでも、人間よりも遥かに小さいのだからまず襲ってはこないだろう。しかし洞窟性の生物なら視力は皆無だと思われるので、臭いや動きに反応する可能性もある。『崖登り』の最中故に両手が塞がっている今のレイナは、反撃はおろか防御すら出来ない状態だ。

 さて、どうなる事か。何が起きても何も出来ないレイナは、せめて興奮だけはさせないようじっと動かず……

 しばらくして巨大ダニは、頭を振りながら怪物の体毛を掻き分けて――――顎先を怪物の皮膚に突き刺すような仕草を見せた。

 どうやら、怪物の吸血に特化した種だったようだ。レイナはホッと安堵の息を吐いた

 瞬間、生い茂る毛の中から『イモムシ』が出てくる。

 イモムシといっても、チョウや甲虫の幼虫ではない。半透明でヘビのように細長い身体には足がなく、頭部は小さいながらも存在していた。体長は一メートルを超え、半透明故に分かり難いが、かなり、筋肉質な身体付きをしている。

 恐らくは『ノミ』の幼虫だ。


「なっ――――」


 突然現れた巨大昆虫に、レイナも思わず身が強張る。尤も驚きがなかったところで何か出来た訳でもなく、レイナはただただノミの動きを見る事しか出来ず。

 ノミの幼虫は、レイナの目の前に居るダニに襲い掛かった。

 ぶじゅりと柔らかな肉が引き裂かれる音が鳴り、キィ、と甲高い声を上げるダニ。ダニは藻掻いて抵抗するが、ノミの幼虫は長大な身体を巻き付け、身動きを封じた。ノミの幼虫は身体の末端にある四本の『爪』で怪物の体毛を掴んでおり、転落する様子はない。

 仕留めたダニをじゅるじゅると啜り始めると、ノミはもう動かなくなった。


「(……成程ね)」


 心の中で呟いたレイナは再び動き出す。横を静かに横切るレイナに、食事中のノミは特に攻撃を仕掛けてこなかった。

 耳を澄ませば、あちこちから毛を掻き分けるような音が聞こえてくる。

 恐らくはダニやノミなど、寄生生物達とそれらを襲う捕食者が鳴らしているものだ。『異形の怪物』の体表面には様々な生物が生息し、そこで独自の生態系を築き上げているのだろう。

 『天空の怪物』の身体に乗った時には、こうした巨大寄生生物の襲撃は受けなかった。『天空の怪物』にも大きな寄生虫がいたが、ここまで馬鹿げた大きさではない。『異形の怪物』の身体では寄生虫の巨大化が起こりやすかったのか? 或いは生息環境の差か? そもそも『異形の怪物』にはどれだけの寄生虫がいるのか? いるとしたら傾向は?

 考えれば考えるほど、疑問は湧いてくる。考えれば考えるほど、ワクワクが止まらない。

 そのワクワクを邪魔する『人間』がいる。


「……見付けた」


 ぽつりと、レイナは呟いた。

 登った高さは凡そ二十五メートル程度。怪物の『半径』に程近い場所で、生い茂る毛の隙間から一瞬だけ赤い煌めきが見えた。それは気の所為かも知れないと思えるほどの刹那であり、けれども新たな目印にレイナは迷わず近付く。

 接近してみれば、赤い輝きがもう一度見える。注視している中で再び目にすれば、色々な事が理解出来た。例えば赤い輝きが酷く人工的である事、そして赤い輝きが怪物の毛に反射したものである事も。

 光が見えた先。恐らくはあの根元に、不埒な機械がある。


「今、助けるわよ……!」


 大好きな怪物を苦しめる元凶。レイナはそこに手を伸ばし、がっちりと握り締める。

 『天空の怪物』の時は戒められた、無茶な行動。しかし此度は止める者もなし。レイナは寸分の迷いもなく、取り付けられた機械を引っ張り、取り外した!

 機械を外された瞬間、『異形の怪物』の全身がぶるりと震える。レイナは振り落とされこそしなかったが、大きくその身体が浮かび上がり、一瞬ヒヤッとした。しかし自分の命が助かった事よりも、レイナの頭を満たすのは怪物の事。

 果たしてこれで全てが良くなるのか? 不安の答えは――――


【ピィィイーッ!】


 元気で明るい声が教えてくれた。

 『異形の怪物』がまた震える。そして今度はレイナの頭上付近がもごもごと動き、柔らかな白い毛を逆立たせた。何か特異な反応を見せている。

 レイナは素早く、勿論寄生虫達には気を付けながら下り、地上に立った。それから何が起きているか知るべく、地上で待ってくれている平治達の下へと駆け寄る。

 道子と平治はガタガタと震えていた。そこに現れたものを恐れるように。

 彼等の傍までやってきたレイナはくるりと振り返り、二人と同じものを見る。次いで二人が恐怖に震えるのも納得だと、レイナは即座に理解した。

 白い球体の上部に出来た、十メートル近い三日月のような裂け目。中にはだらだらと粘付いた液体が満ち、赤黒い中身の色が見えていた。ホラー映画に出てくる怪物のような、おどろおどろしい『顔』。今まで白い球でしかなかったものが半端に生気を帯び、故に人間達の恐怖を増幅させる。

 しかしレイナだけは笑った。それが『顔』であるのと同時に、表情だと気付いたがために。

 そしてその表情が人間と同じであるならば、恐れる必要など何もない。


「あら、良い笑顔じゃない。憑きものが取れたってやつ?」


 目の前の怪物は、ただ清々しい気持ちを抱いているだけなのだから……

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