身内議論
【は、はか、博士! かか怪物が、動き出しました!】
通信機より聞こえてくる、道子の叫び声。
目の前で怪物を見ているレイナ達は無論その事を知っている。しかし目の前で起きている動きが風やらなんやらによる錯覚ではないのだと、第三者的な意見が聞けたのは良かった。もしかしたら怪物の傍に居るというプレッシャーから、些末な変化を過敏に受け止めている可能性もあるのだから。
そして本当に動き出したのなら、暢気にしている場合ではない。
「伊吹さん! 離れましょう!」
「は、離れるって、どっちに!?」
「あっちです!」
平治の問いに、レイナは即座にある方角を指差しながら答える。
ぶっちゃけてしまうと、当てずっぽうな方角だ。
現状『異形の怪物』がどちらに進むかなんて想像も出来ない。ならば出来る事は、兎にも角にも離れる事。距離さえ取れば、例え怪物が自分達の方に転がってきたとしても少しは時間を稼げる。本当に少しだけだろうが、一秒でも思考する時間が得られれば、起死回生の手だって打てるかも知れない。
最後まで諦めず、自分の力で出来る事をする。それが大自然に立ち向かう上で一番大事な心構えである事をレイナはよく知っていた。
――――幸いにして、今回その努力は必要なかった。
ついに再び転がり出した『異形の怪物』が向かう方角は、自らがこれまで進んできた道をなぞるようなものだったのだから。
「あれ? 帰っていく……?」
「た、助かったの、か……」
怪物が自分達の方に来ないと分かった瞬間、平治は腰砕けになりながらへたり込む。アスリートのように引き締まった身体を持つ彼も、やはり人智を超えた存在には敵わないのだ。
されど元より勝てると思っていないレイナは、怪物の動きを冷静に注視。
……怪物は、正確に来た道を戻っている。時折木々が吹っ飛んでいるが、それは此処まで来た時に踏み潰してきたもの。行きの時点で難を逃れた木に、新たな被害は出ていないようだ。
それに、動きが妙に鈍い。
まるで疲れているのに、無理にでも動いているような……
「……なんにせよ、チャンスかな。伊吹さん、動けますか?」
「え? あ、ああ。大丈夫、ちょっと驚いただけだから」
確認したところ、平治はまだ活動可能だという答えをもらえた。レイナが嬉しそうに笑うと、彼の表情は途端に曇ったが。
とはいえレイナは彼らに危険な事をさせるつもりなどない。少なくとも『異形の怪物』に肉薄した今し方の行いと比べれば、遥かに安全な『仕事』である。
「じゃあそろそろご飯にしましょう。お腹が空いたら頭も働きませんからね!」
ただしこの状況下で食欲が湧くのは、自分ぐらいだという自覚もあるのだが――――
「んー、美味しぃー!」
もしゃもしゃと携帯食料 ― スティック状に固められた、砂糖たっぷり激甘ミルク味の代物 ― を食べながら、レイナは楽しそうに声を上げた。
疲れた頭にはエネルギーが必要だとばかりに、どんどん携帯食料を食べていく。勿論持ってきた食料は有限で、一食分の配分を超えない範疇での話だが。対して道子と平治の職は進まず、一食分の配分すら食べられるか不安になるほど。
多分、怪物が踏み鳴らした木々の上でのランチタイムというのがお気に召さないのだろう。
「……よく食べられますね。あんな恐ろしい怪物の進路上で食事なんて」
「距離はあるから大丈夫ですよ、多分。それにいざとなったらまた近付かないとですし……あとご飯はちゃんと食べましょうね。人間の身体に蓄積されているグリコーゲンは約千六百キロカロリー分。一日分の基礎代謝にもなりゃしません。常に身体をフルパワーで動かすためには、定期的な食事が必要ですもぐもぐもぐ」
「……確かに飯は食べないとな。いざって時に動けなかったら、それこそ命が危ない」
「……そうですねぇ」
レイナの意見に納得、したかは分からないが、作業員二人も食事を始める。にこにこと笑いながら、レイナは本日五本目 ― ちなみに一本二百キロカロリー ― の携帯食料を口に入れた。
「さぁて、そうは言っても時間が何時まであるか分かりませんし、考えてもいかないといけませんね」
「とはいっても、何から考えれば良いのか……」
「そもそも何も分かっていないというか」
道子と平治の意見に、レイナはうんうんと頷いてしまう。
具体的な方針を立てられない理由は簡単だ。『異形の怪物』がなんの仲間なのかさえも分かっていないからである。分類というのは決して絶対的なものではないが、かなり大きな指標となるもの。例えば現在確認されている種の全てが肉食であるネコ科と分かれば十中八九肉食性だろうし、魚類ならば全身を覆う体毛は鱗が変化したものだと推測出来る。
これらは表に出てきた理由を説明するものではないが、理由に結び付く遠因……怪物の生態を探る手掛かりにはなる。正体を知るというのは、それだけ生物学にとって重要な事なのだ。
だからこそ、これだという思い込みは真実を見失う原因ともなり得る。
「(私的には哺乳類の仲間かなって考えてるけど、他の意見も聞きたいな)」
自分の思い込みを、自分自身で正すのは難しい。この場に居る他の人達の意見を訊いてみようと、レイナが考える。
「お二人はあの怪物の正体はなんだと思いますか?」
「え? 正体ですか? ……怪物って、怪物なんじゃ?」
「うん。ぼくもそう思ってるけど」
「あー……生物学的な分類の事です。ネコの仲間とか、コイの仲間とか、そういう」
レイナの説明に、二人の作業員は「あー……」という、納得したのかどうかよく分からない返事をした。
しかしそれも仕方ないだろう。秘密結社の一員とはいえ、立場的には借金の形でマグロ漁船に乗せられた一般人のようなもの。彼女達からしたら怪物なんてものは、空想上の怪獣となんら変わらない。怪物達に生物学的な分類が当て嵌まるという、発想すらなかったのだろう。
逆に、それはレイナと違って学者的な思い込みがない事の証だ。彼女達の忌憚のない意見は、真実への道を示してくれるという期待が込み上がる。
「そーいう事なら、ぼく的には……マリモ、かなぁ」
最初に意見を出したのは平治。
マリモといえば、北海道でお土産に売られている『藻』の集合体の事だろう。マリモ自体は北海道以外の日本各地、もっと言うなら北半球の高緯度地域に広く分布しており、丸くなるのはその中の一部。丸くなるのは生理的な特徴ではなく、波や地形により、良い感じに転がり続ける事が原因だ。そしてあの怪物の真ん丸な姿は、確かにマリモっぽく思える。
しかし通常のマリモは、直径数十センチを超えて大きくなる事が出来ない。彼等は植物であるため生存には光が必要なのだが、球の大きさが十センチほどになると中心部に光が届かず、枯死してしまう。そのためマリモの中は空洞化していて非常に脆く、強い波で岸部に打ち上げられたり、嵐などで海底が激しく掻き乱されたりすると簡単に壊れてしまうのだ。
それを考えると直径数十メートルの巨大マリモというのは、流石にあり得ない……とも言いきれない。
あの怪物は全体的に真っ白だ。少なくとも見えている範囲は全て、入手した毛も先端から根元まで白である。植物が緑色なのは光合成に必要な葉緑体があるためだが、世界には葉緑体を持たない植物も存在する。
寄生植物だ。
栄養を宿主に完全に依存している種の場合、光合成による栄養生成は不要である。むしろ維持コストばかりが掛かる金食い虫だ。そのため寄生植物は葉緑素を喪失し、茶色や、色白な姿をしているものが多い。『異形の怪物』も寄生植物ならば色白でもおかしくないし、栄養を宿主に依存しているのなら、光が届かない内部も生存しているだろう。中身がちゃんと生きていれば自重を支え、巨大化も出来る。
てっきり動物だと思っていたレイナには、非常に良い刺激となる意見だ。是非とも候補の一つとしたい。
「成程……その可能性は考えていませんでした。ありがとうございます」
「えっ!? あ、いや、思い付きを言っただけだからそんな参考にされても。それになんか鳴いてたから、多分違うし……」
「植物だから鳴かないとは限りません。内部に空気の通り道があった場合、通気の際に音が鳴るとも考えられますよ」
「う、うぅ……ほ、ほら、君はどうなんだい!?」
レイナが正直に感心していると、平治は照れたのか右往左往。誤魔化すように道子に話を振る。
「えっ!? わ、私は……ごめんなさい。何も思い付かなくて……」
まだ考えが纏まっていなかったのか、道子から返ってきたのは申し訳なさそうな諦め。
無茶ぶりをした側であるレイナからすれば、こうして謝られてしまう方が辛い。
「いえ、突然質問してしまったのはこっちですし。私だって、哺乳類かなーってぐらいにしか考えが纏まってませんから」
「えっと……それに、まぁ、ぼくらは間近で見てもいたしね。情報量が違うんだから仕方ないよ」
話を振った手前無視出来なかったのか。平治が入れたフォローに、確かに、とレイナも思う。怪物からずっと遠くから眺めていただけの道子は、レイナ達よりも『感覚』的な情報に乏しいだろう。
かといって、道子に与えられる情報が何かあるかといえば、そんな事もないのだが。何分近付いてはみたものの、触れる事すら叶わなかったのだから。
強いて何か提示出来るものがあるとすれば……
「落ちていた、この毛ぐらいかなぁ」
平治が拾ってくれた一本の毛ぐらい。
レイナは懐から毛を取り出し、指で摘まんで眺めてみる。やはり奇妙な手触りと太さを持つが、これといって神秘的な性質は感じられない。
加えて、まだあまり捜索していないとはいえ、まだ見付かったのはこの一本のみ。未だこれが怪物の毛なのか、それとも未知の生物Xのものなのかも判然としない有り様だ。
仮に怪物の毛だとして、毛一本から何が分かるというのか。勿論体毛からはたくさんの情報が得られるが、『異形の怪物』がこの地に出現した理由を教えてくれるとは思えない。せめて糞や体液ならば、具体的な体調などが窺い知れるというものだが……
「? 博士、その毛は?」
眺めていたところ、道子が興味を示した。
「え? ああ、これは怪物の毛……かも知れないものです。確定じゃないですけど」
「へぇー……見ても良いですか?」
「止めなって。一応これ、研究サンプルとかなんだろ? 下手に壊したらまた借金が膨らむよ」
「う……やっぱ止めます……」
意外と好奇心旺盛なのか、道子が怪物の毛に興味を持つ。尤も平治に窘められると、あっさり身を退いたが。
好奇心の権化であるレイナからすれば、道子の気持ちを大事にしたいところだ。
「あはは、大丈夫ですよ。壊れたら磨り潰して成分抽出とかに使うだけですし、むしろ今は行き詰まり気味なので、色んな意見を出してくれるとありがたいです」
「えっと、じゃあ……」
道子はレイナから怪物の毛を受け取り、まじまじと眺める。二本の指で触ったり、日に当ててみたり、子供のように楽しんでいた。
実際、あの毛が一本失われたところでどうという事もない。貴重なサンプルではあるが、紛失しない限り文句を言うつもりなどレイナにはさらさらなかった。というより、本当に新しい見方をしてくれた方が遥かにありがたい。今はそれだけなんの手立てもないのだから。
「あっ」
故に、道子がふと漏らした声は、レイナにとって非常に気を惹くものだった。
「? どうしましたか?」
「へぁっ!? えとえとあのえとえと」
「……分かりやすいなぁ。壊しても平気って言われたんだから、さっさと見せなよ」
尋ねるとあからさまに道子は狼狽え、見かねた平治が道子の手を掴む。捕まってしまった道子は必死に抵抗したが、されどやはり男である平治の方が強いのだろう。あっさりと毛を持っていた方の手を引き寄せられ、
ささくれた毛を、レイナに見せた。
「ありゃまぁ、こりゃ随分と派手に……」
「ちち、違うんです!? わ、私って確かにおっちょこちょいで、お皿とかツボとかよく落として割ってましたけどでもこれは本当に触っていただけで!?」
必死に弁明する道子だが、その手に掴んだ毛がささくれている事実に変わりはなく。平治が「ああ、君が借金した理由って……」と言いたげな、何もかも悟った眼差しを向ける。
対してレイナは、しばし凍り付いたように動かない。
動き出した時には、まるで獲物を見付けた獣のように素早く――――そして有無を言わさず、道子の手から毛を奪い取った。レイナの突然の行動に平治は呆けたように硬直し、道子は一層おろおろしてしまうが、レイナの意識は二人に向かない。
レイナが見つめるのは、ただ一本の毛のみ。
毛には『ささくれ』のような突起が出来ている。
いや、これは突起などではない。一本の真っ直ぐな毛だと思っていたそれは、正確には細かな『枝毛』がぐるぐると巻き付いていたものだったのだ。恐らく道子が大雑把に扱った事で、束ねられていたものが解けたのだろう。レイナが指で弄った時には見付けられなかった特徴だ……口では適当にしても良いと言っていたが、どうやら心の奥底では大切なサンプルだと思っていたらしい。
自分の内面に呆れつつ、レイナは更に詳しく『毛』を観察する。
ささくれを開いてみれば、枝毛は決してランダムな生え方をしておらず、左右対称に二本ずつ生えているようだと分かった。また左右の枝毛は同じ長さであり、根本付近が一番長く、先端が最も短いと、長さに規則性がある。枝毛の数は数十対も存在しており、隣の枝毛との距離は等間隔に並んでいた。捻じ曲がっていたものなので綺麗には開かないが、無理矢理広げた際の形は所謂――――
「……嘘でしょ」
ぽつりと、否定の声が漏れるレイナ。しかし心の中では一切否定などせず、過ぎった発想を考察する。
毛を持つ生物といえば、哺乳類が挙げられるだろう。だが哺乳類の毛は角質化した皮膚が起源だと言われており、そのためかあまり複雑な形を取らない。左右均等に一本ずつ、それも何十対もの枝毛が伸びるというのは、あり得ないとは言わないが、中々進化の『手間』が多そうだ。
生物進化を考える時、その辿ってきた順路は基本的に『最短手数』にするものだ。何故なら適応的な変異は稀なものであり、そう頻繁に起きるものではない。偶々最短で辿り着けた幸運な者が子孫を残せたというのが、最も合理的な考えなのである。
つまり怪物の毛は、哺乳類のものではないと考えるのが自然。そして毛を持つ生物には哺乳類以外にももう一グループ存在し、それは通常体毛とは呼ばない。
羽毛だ。
「……まさか」
「どうしたんだい? もしかしてこれ、やっぱり触ったら不味かったとか……」
道子だけでなく平治も狼狽え始めるが、レイナにその言葉は届かない。そんな事に意識を割いている場合ではないが故に。
この毛が羽毛だとして、そしてもしも予想通り『異形の怪物』の分類があれだとしたら――――レイナはその異変に心当たりがある。
あるのだが、しかしその可能性はあってほしくない。あれは一度きりの過ちであるべきなのだから。されど『犯人』がそんな殊勝な心の持ち主ならば、最初からあんな事は起きていない。人間というのは自らを万物の霊長だと誇りながら、実際には痛い目を見るまで平気で危ない橋を渡る生き物なのだ。
そして『二度目』が此度の大事件の最中に起こされたという事は……
「……いや、今は、そこまで考えなくて良い」
「博士……」
考え事の最中、道子が不安そうに声を掛けてきた。やっぱり怒られるのではないか、また借金が膨らむのでは……そんな気持ちが顔に出ている。
レイナは道子の方に振り向き、にこりと微笑む。次いでがっちりと、彼女の手を握り締めた。その流れで平治の手も握る。
二人に感謝を伝えるために。
「ありがとうございます。まだ仮説ですけど、あなた達のお陰でやるべき事が一つ閃きました」
「え? あ、はぁ……」
「そりゃ何よりだけど、何をする気なんだ?」
今度は平治が尋ねてきた。レイナは思わせぶりに笑みを浮かべると、今度は『異形の怪物』の方へと振り返る。
『異形の怪物』はまだ動いていたが、その動きは随分とゆっくりなものになっていた。相当疲弊しているのだとすれば、それはレイナの閃いた可能性を担保する証拠の一つだ。
確信を持ったレイナはもう迷わない。
「今からちょいと、あの子を助けようと思ってます」
故に堂々と、自分の考えを二人に明かすのだった。
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