文明論
「素晴らしい成果です。此度の結果については、今後の評価にしかと含めさせていただきます」
強面を一切崩さず、しかしながら明らかに優しい言葉遣いで褒めてくる老婆こと所長。
『ミネルヴァのフクロウ』本部にて、一番のお偉いさんに褒められたレイナはキョトンとしながら立ち尽くした。デスクに付いている所長は構わず書類仕事を続けていたが、ふとレイナが呆けている事に気付いたのだろう。再び語り掛けてくる。
「どうしましたか。私に褒められて、嬉しくないのですか?」
「ふぇあ!? い、いえ、嬉しいです! とても! た、ただ、その、色々な方のお世話になった結果だけに、私ばかり褒められるのもなんかくすぐったいと言いますか、実感が湧かないと言いますか」
「別にあなただけ評価するとは言っていません。シャロン含め、全員の活躍を評価しています。ただ、どうにもあなたは面と向かって言わないと、評価される事への『責任』を感じないタイプに見えましたので」
「(結局お説教かい!)」
所長の嫌味な物言いに、レイナは心の中でツッコミを入れた。口を開かなかったのは、勿論相手が上司だからというのもあるが……小言の内容が割と的を射ていたというのもある。
確かに、レイナは出世や評価というものをあまり気にしていない。もらって嬉しいとは思うが、責任だのなんだのは言われなければ頭の片隅に追いやられていただろう。此度の自分の成果についても同じだ。
三十五年間誰にも解けなかった謎を解明したレイナの胸を埋め尽くすのは、自らの頭脳への自信などではなく、知的好奇心を満たした事への喜びなのだから。
――――『魔境の怪物』の餌は海底で噴出している石油である。
生物学の常識からすれば、あまりに突拍子のない発想だ。しかし常識を捨て、データだけから導き出せば、そうとしか思えない。
『魔境の怪物』は非常に大きく、そして圧倒的に強い。この強さを維持するには莫大な量のエネルギー、つまり餌が必要である。されど水産資源で彼等の個体群を養おうとすれば推定で年間九億トンという、人間の年間漁獲量の十倍近い量が必要だ。生物で身体を維持するのは、かなり厳しいだろう。仮にその生産力があれば周辺海域にも影響は見られる筈だが、そのようなデータは得られていない。
しかし石油由来ならばどうか?
石油は莫大なエネルギーを生み出す。人類は水力や原子力など様々な発電方法を編み出したが、未だに石油は重要なエネルギー源の一つだ。この力を利用すれば、強大な肉体も維持出来るだろう。また石油ならば文字通り湧き出すもののため、生態系の生産力は考慮しなくて良い。
無論、これだけなら机上の空論だ。バミューダ海域の深海で噴き出す油田を見付けたならまだしも、誰一人立ち入れてすらいないのだから。しかし此度の実験……重油に惹き付けられたという結果があれば話は変わる。
船舶や航空機には大量の石油由来の燃料が積まれている。産卵を終えた『魔境の怪物』はこの燃料を餌だと誤認し、摂食のため突撃している可能性が高い。『魔境の怪物』と同じく深海に暮らしているダンガンダツが船舶を襲うのも、同様の理由だろう。ダンガンダツは小魚を食べるが、石油も補助食品として利用、或いは小魚が群れる場所と認識しているのだ。またバミューダ海域に石油分解菌が豊富に暮らしている事も、海底から石油が溢れている証拠と言える。過去に『魔境の怪物』の幼生が藍藻を食べたという報告もあるが、恐らく藍藻に含まれる炭化水素……石油の主成分に誤反応した結果だろう。
また、『魔境の怪物』の繁殖形態が多産多死型である事も、海底油田説を裏付ける。石油の噴出は局所的であり、その上大半のポイントは成体や大きく育った若齢個体に占拠されている筈。生まれたばかりで貧弱な幼生にはライバルを押し退ける力なんてなく、よって幼生達が利用出来るのはごく最近形成された真新しい油田のみ……見付けられるかどうか、辿り着けるかどうか、そもそも近くにあるのかどうか。生き残るのは適者ではなく、『幸運』なものだ。ハリガネムシのように宿主への寄生を偶然に頼る寄生虫が莫大な数の卵を生むのと同じく、『魔境の怪物』もたくさんの子供を産み落とす事で幸運な子孫が生じる可能性を高めていると考えられる。実験時に海上で見られた同種間闘争も、貴重な油田の奪い合いから生じたものと思えば納得だ。
これらのデータから、レイナは『魔境の怪物』についての論文を纏め上げたのだ。
……尤も、論文の纏め上げは研究の入口に過ぎないのだが。
「あなたが書いた論文は、これから『ミネルヴァのフクロウ』にて追証が行われます。三十五年間の謎を解いただけに、ベテラン職員が全力で反論と質問をしてくるでしょう。特にシャロンは凄まじいでしょうね。あの子、そのうち『魔境の怪物』に嫁入りするんじゃないかと思うぐらい入れ込んでいましたから……覚悟しておく事です」
「全力って、新人への手心とかないんですか此処の人達……」
「手心を加えて真理に辿り着けるのなら、いくらでもそうしますが? それを裏付ける研究データを持ってくるなら検討しますよ」
「うへぇ……」
所長から告げられる未来に、レイナは眉を顰める。
研究というのは論文を書いて終わりではない。一般的には論文発表後、他の研究者が論文と同じ手順で実験を行い、結果が再現出来るか検証するものだ。これにより論文内に書かれていない条件 ― 或いは『悪意』 ― がない事を確かめる。万一ここで結果が再現出来ないと、「この実験なんか間違ってない? つーか捏造?」という話になり、撤回を余儀なくされる事も少なくない。
どうにか検証をクリアしても、まだまだ学者には認めてもらえない。今度は反証が行われる。簡単に言えば、論文の正しさへの疑問を提示されるのだ。サンプル数が少ない、前提が間違っていないか、疑似相関じゃないか、相関関係があるとしても方向が逆じゃないか……出された反論にはデータを以てキッチリ答えねば、その研究は「反論を認めた」事になる。反論が正しければデータを修正し、結論を変えねばならない時もあるだろう。
これをひたすら繰り返し、数年掛けて論文というのは完成度を高めていくものなのだ。どんな天才でも思い込みや見落としはなくならないのだから、この過程を無視する事は出来ない。
果たして自分の論文は正しい結論に辿り着いているのか、認められるのに何年掛かるのか。
――――なんやかんやこれを楽しめるレイナは、根っからの『科学者』なのだ。
「最後に、一つ確認したいのですが」
にやっと口元が弛んでいるレイナに、所長が尋ねてくる。最後に、という言葉を内心嬉しく思いながら、レイナは所長と向き合った。
「あなたの論文が正しかったと認められた場合、これは、人類文明の在り方すら変えかねないものです。それを理解していますか?」
そして所長は念を押すように、レイナに尋ねてきた。
――――そう。これは、三十五年間不明だった怪物の餌が分かったというだけの話ではない。
怪物の餌が予想通り石油だとしよう。石油は確かに大きなエネルギーを生み出すが、カロリー計算をすると実はあまり大きな値ではない。加工品であるガソリンや重油などを平均すれば、一グラム当たり精々九キロカロリー前後……脂質と大差ないのだ。なんらかの効率的な仕組みでより大きなエネルギーを引き出したとしても、この値から左程乖離はしていないだろう。
ここから推察するに、『魔境の怪物』が一日に消費する原油量は恐らく百トンを超える。成体全体で年間一億八千万トン、全個体なら三億トンは下るまい。他にも原油消費生物がいる筈だから、バミューダ海域全体では一体何億トンの原油が噴出しているのか。
現在、人類全体の産油量は四十億トン程度と言われている。仮に四億トンの噴出があれば、人類の生産量の一割にもなるのだ。漁獲量ほどではないにしても、やはり莫大な資源量である。加えて『魔境の怪物』は、何百万年も掛けて進化してきた生物種。原油がその間ずっと垂れ流しだとすれば、総量二千兆トンは溢れただろう。
現在石油の起源として主流なのは『生物由来説』……古代生物の亡骸が変化したものであるという考えだ。石油を化石燃料と呼ぶのは、この説に則っての事。枯渇が心配されるのも、かつての生物が作り出したものであり、今は殆ど生成されていないという理屈だから。
しかしながら『魔境の怪物』の存在が、この説を揺らがせる。何しろこの怪物が進化するには、推定二千兆トンもの石油を垂れ流しにする必要があるのだ。ちなみに現在の地球の植物量は、一説によると凡そ六千億トン。いくらなんでも、今の植物の三千倍以上もの量の有機物が地下に沈み込んだというのは少々考え難い。
だとすれば生物由来説は正しくなくて、他の説が正しいのではないか。
例えば『無機由来説』、地球の活動により石油は無尽蔵に生産されるというもの。或いは『合成菌由来説』、地球深部に潜む細菌により合成されているというもの……どちらの説にも共通するのは、石油が無限の資源であるという点だ。次から次へと生み出されるのだから、年間生産量には限度があっても、埋蔵量は無尽蔵である。
石油が無尽蔵だとすれば? 人類文明の在り方が大きく変わりかねない。例えば産油国は、石油が限りある資源だからこそ国際的に強い立場にある。なのに石油が無限の資源となれば、それらの国の発言権はかなり弱まるだろう。原油価格の暴落による社会基盤の崩壊、紛争やテロリストの台頭すらあり得る。資源が無秩序に溢れる事で、社会が不安定化する恐れがあるのだ。
そして『魔境の怪物』の保護はより重要な課題となる。彼等が溢れ出す原油を消費しなければ、年間数億トンの石油が海を穢す。北アメリカ大陸近海を中心に汚染はどんどん広がり、海洋資源に致命的な打撃を与えるだろう。海が穢れたなら年間九千万トンの漁獲だけでなく、今やそれを上回ろうとしている養殖業も壊滅だ。人類はカロリー源の一角を失い、食糧の争奪から多数の餓死者を、そして内紛を生み出すだろう。
石油が無限にあるというのは、決して夢を与える話ではない。扱いを誤れば人類文明すら滅ぼしかねない、禁断の知識なのだ。
それを解き明かしてしまったレイナは、
「勿論、自分の発言には責任を持ちます。その結果人の社会が滅茶苦茶になったとしたら、私の所為だと受け入れます……それでも私は、この生き物の事を知りたかったのですから、後悔なんてありません」
キッパリと、自分の考えを言葉にした。
「……そうですか」
「そうです。というか私がどんな考えでも、その論文を世間にどう発表するかは上層部の判断じゃないですか。私が決める事じゃないです」
レイナが言うように、秘密結社『ミネルヴァのフクロウ』の研究者が書いた論文は、簡単には表社会に出てこない。怪物の存在を世間から秘匿し続ける事が可能で、尚且つ社会に対して有益な影響を与えると考えられるものだけが、特殊なルートで発表されるのだ。一所属研究員に過ぎないレイナには、そもそも自分の書いた論文をどうこうする権利がない。
「ええ、その通り。愚問でしたね」
組織の規約に、所長はこくりと頷いた。
「話したい事は以上です。戻って構いませんよ」
「はい。では、失礼します」
「……ああ、そうそう。一つ言い忘れていましたが、検証と反証は私も行いますのでそのつもりで」
「……ちゃんと答えられるよう頑張ります」
最後の最後で胸が締め付けられる情報に、レイナはとぼとぼと歩きながら部屋を出る。
一人残された所長は、深く息を吐いた。
次いで、強張っていた顔に笑みを浮かべる。デスクの棚を開き、そこからレポート用紙の束を取り出す。
『魔境の怪物の食性について』。レポートの表紙に書かれているタイトルを見て、所長は目も嬉しそうに細めた。
「ふふ。どんな真実にも怯まず挑む……良い科学者の卵です。もっと優秀な科学者になってもらうためにも、しっかり論文を精査しないといけませんね」
そしてぽつりと、楽しそうに独りごちるのだった。
「……あの怪物の生息域には莫大な石油がある、という事ですか」
「はい。潜入させた隊員より、そう報告がありました。如何しますか?」
「無論人類の発展のため、その石油は手に入れます。怪物を絶滅させてでも……と、言いたいですが、流石に相手が悪過ぎますね」
「よりにもよって『カテゴリーA』ですからね。我々の組織が総力を結集しても、たった一匹を移動させる事すら叶いません。石油で誘導しようにも、海上で見られた戦闘が繰り広げられた場合、災害により文明全体が大きな被害を受けると思われます」
「忌々しいですが、知恵あるものとして現実は受け入れねばなりません。今はまだどうしようもない……少なくとも『笛吹き男』が完成するまでは」
「目処は立っております。今週中にはAタイプとBタイプを同時試験し、結果の優れていた方を今月中にも運用開始します」
「期待していますよ」
「お任せください」
「「全ては、人類のより良い繁栄のために」」
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