第7話 スタートライン

 翔太は、目の前まで迫る陽菜子の顔を思い出し、頬が緩んでしまうのを止められなかった。


 あと少しだった。


 あと少し、もう少しで陽菜子とキスをしていたかもしれない。


 そんなふうに思うだけで、胸の奥がむずがゆくなってくる。


 あれだけ迫られたら、好きにならない方がおかしい。


 けど、


「それは駄目だ。だってあいつには好きな」


「好きな……なんです?」


「え?」


 独り言のはずだったのに問いかけられて、翔太は間の抜けた声を発した。


 顔を上げれば、そこには教師が立っていた。


「あ」


「どうやら今が授業中だということをすっかり忘れていたみたいですね」


 教師の言うとおりだった。


 教師が笑顔を浮かべていることがかえって恐ろしく、翔太に猛省を促した。


「いいですか。授業中は授業に集中しなくてはいけません。わかりましたか、君」


 教師がそう告げた瞬間、翔太以外のクラスメイト全員が、なぜだか無性に牛丼を食べたくなった。


 世の中には不思議なことがあるものである。




 昼休みになった。


 宣言どおり、陽菜子はやってきて翔太を昼食に誘う。


「あ、翔太先輩に拒否権はありませんから♪」


「え、マジで!?」


「驚き方がわざとらしいんですけどー?」


「わざとだからな」


「え、そうだったんですか!? びっくりですー」


「驚き方がわざとらしんだけど?」


「ちょっと翔太先輩が何を言ってるのかわかりませんねー?」


 いたずらっぽく、陽菜子が笑う。


 絶対にわかってるだろ、というツッコミを入れるのは野暮だろう。


 翔太は陽菜子に連れられ、屋上へと向かった。


「で、翔太先輩?」


「何?」


「どうしてさっきから、わたしがしようとしてることを阻止しようとしてるんですか?」


 陽菜子がしようとしていること、それは翔太の膝の上に座ることだった。


「あ、当たり前だろ!? そんなことされたら俺は――!」


「翔太先輩は?」


「……………………何でもない」


「それ、絶対に何でもなくないですよね?」


「ギク」


「……ギクとか台詞で言っちゃう人、わたし初めて見ました」


 ジト目で見られる。そんな顔ですら本当にかわいいんだから、まったく困ったものである。


「というか、ここに来るまでも変でしたよねー?」


「変? 何が?」


「もしかして無自覚ですか?」


「いや、だから何が?」


「距離ですよ、きょーり!」


 ずびし、と陽菜子が指を突きつけてくる。


「わたしが近づこうとすると、翔太先輩、わたしと距離を置こうとしてたじゃないですか。そのせいで腕を組んで歩けなかったんですからね!?」


「そ、そうだったか……?」


「……あ、これ、無自覚じゃない系ですねー」


 陽菜子の呟きに翔太の体が、ビクッ!! となる。


 陽菜子はニッコニコの笑みを浮かべると、


「で? どうしてわたしと距離を取ろうなんて、そんな不埒なことを考えたんですか?」


「そ、それは……」


「それはー?」


「……い、言いたくない」


 翔太は陽菜子から視線を逸らして、そっぽを向いた。


「反抗的な態度ですね。でも、残念です。翔太先輩には黙秘権は認められていないんです。なので早く白状してくださいね?」


「お、横暴だ!」


「えへへ、照れますねー?」


「照れる要素がどこにもねえ!?」


「そこに気づくとは……!」


 陽菜子が驚いたような顔をする。


 これまでと同じ、他愛のやりとりに、翔太の心が浮き足立つ。


 やっぱり自分は陽菜子のことが好きだ。


 それを改めて自覚した。


「……陽菜子は、俺のクラスに好きな奴がいるんだよな?」


「ええ、そうですよ。その人のことを考えるだけで、夜も眠れなくなって、おかげで授業中ぐっすり眠れるようになるんです」


「駄目だろ。本末転倒だろ」


「そうとも言うかもしれませんね。……でも、好きな人がいるのは本当ですよー?」


 いたずらっぽい笑み。だけど翔太は、そこに嘘はないと感じることができた。彼女は本当のことを言っていると、そう感じることができた。


 だから、


「だからさ、距離を取ったんだ」


 翔太は視線を落とした。


「翔太先輩……?」


「これ以上、陽菜子のことを意識しないで済むように」


「え……?」


 驚いたような、呆気にとられたような、そんな声を陽菜子が漏らす。


 おそるおそる様子を伺えば、陽菜子はじっとして固まっていた。


 だが、それもほんの少しの間のことで、胸に手を当てて深呼吸をしてから、にっこりと微笑んで言った。


「それってあれですよね? 翔太先輩がわたしのことを好」


「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……!?」


 それ以上は言わせなかった。


 陽菜子は耳をふさぎながら、「うるさいです先輩」と文句を言いつつ、


「なるほど、なるほど。わかりました。そういうことだったんですね」


 それから、うんうんと大きくうなずいていた。


「陽菜子の恋が成就する手伝いをするって、約束したから。だから、それには最後までちゃんとつき合うよ。けど」


「翔太先輩、ちょっと失礼しますねー」


 翔太の言葉を遮って、陽菜子が翔太の膝の上に腰掛けてきた。


 完全に不意打ちだったから、逃げられなかった。


「ひ、陽菜子、い、いいいいいったい何を……!?」


「これは、なかなかいい感じの座り心地です。特別に90点を上げましょう」


「お、意外と高得点――じゃなくて! 俺の話、聞いてたよな!?」


「何でしたっけ? すみません、よく覚えてないのでもう一回言ってもらってもいいですか?」


「は?」


「ほらほら、お願いします」


「……だ、だから、俺が陽菜子のことを、い、意識しないで済むように距離を取ろうと思って」


「つまり、翔太先輩はわたしのことが好」


「わああああああああああああああああああああああああああああああああ……!」


 今度も最後まで言わせなかった。


「翔太先輩、マジでうるさいんで。それやめてもらってもいいですか?」


 マジトーンだったので、翔太は「あ、はい」となる。


「要するに、わたしと接触すると翔太先輩はわたしを意識しまくっちゃうから、距離を取ろうと思っていると、そういうことですよね?」


「……まあ」


「なら、これで問題ないです。……だってようやくスタートラインに立ったんですから」


 後半は声が小さすぎて、ほとんど聞き取ることができなかった。


 聞き返しても「秘密ですよー?」と笑って教えてくれない。


「……離れるつもりは?」


「あると思います?」


「……質問に質問を返すのはよくないと思います」


「むしろこれらもがんがんぶっ込んでいくつもりなので!」


「ちょっと!? 俺の話、聞いてたよな!? いくら何でもひどすぎない!? 俺を弄んで楽しんでるだろ……!」


「えー、全然そんなことないですよー」


 めちゃくちゃいい笑顔で言われても、まったく説得力などないのだった。

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