第66話 蟻地獄
「僕達は、今付き合ってるんだ。」
この世界で、唯一私の全てを受け止めてくれた、蜜井義弘先輩。
彼は、隣に座った金髪の女――蜂須綾音先輩と軽く目配せをした後、私にそう告げました。
意中の相手に、既に彼女がいる。
普通であれば、大きなショックを受けて崩れ落ちてしまってもおかしくはないシチュエーションです。
しかし、私は先輩の衝撃の告白を受けて尚、一切取り乱す事はありませんでした。
「ふぅ……。」
全く、浅はかとしか言いようがありませんね。
そんな見え透いた嘘が、この私に通用すると本気で思っているのでしょうか。
随分と舐められたものです。
私の手には、今の話が嘘であるという「証拠」が握られているというのに。
ですが、これは決して悪い展開だとは言い切れませんね。
恐らく、先輩は蝶野生徒会長に対しても今の嘘を使うでしょうから。
私の見立てでは、先輩は蝶野生徒会長に異性としての好意を寄せてはいないはず。
この安っぽい嘘で蝶野生徒会長を退かせる事が出来るのであれば、私にとっては好都合なのですよ。
もっとも、「今の」蝶野生徒会長はそんなに甘い相手ではないと思っていますけれどね。
以前とは違い、彼女はかつての弱点であったメンタル面を克服しつつあるようですし。
蝶野生徒会長が、先輩を手に入れるために裏で「色々と」手を回している事もこちらは把握済です。
きっと、今の彼女は生半可な策では止められないでしょうね。
いつか、そう遠くないうちにこの私の手で駆逐する必要がありそうです。
さて、少々寄り道が過ぎたようですし、そろそろ先輩達に私の返事を叩きつけてあげましょう。
「分かりました。この場は退きましょう。但し、私はまだ負けたつもりはありませんから。覚えておいてくださいね、蜂須先輩。」
まだ殆ど手を着けていない昼食を片付けて、私は一旦退く事にしました。
無論、負けを認めて撤退した訳ではありませんよ?
次なる一手を打つための、戦略的撤退です。
しつこい女は嫌われますからね。
かと言って、全く攻めないのも論外ですし、この辺りの匙加減については私も未だ勉強中ですが。
「これから、私はどうしましょうか。」
そんな事を考えながら、私は今日も無人の自宅に帰り着きました。
自室に入った私は、節約した生活費や親戚からのお年玉を貯めて購入した自分用のノートパソコンを起動し、今日の出来事を記録していきます。
それが終わったら、スマホから自動的に送信される情報がクラウド上にアップロードされている事を確認し、データを私のパソコンにダウンロードして編集。
「ふふふ。」
今後の事を考える前に、まずはお愉しみの時間といきましょう。
適度に気分をリフレッシュさせる習慣はとても大事ですからね。
「今日の先輩の動向は、と。」
パソコンで音声ファイルを再生すると、私の耳に入ってくる声。
その声が誰の物であるかは、今更説明するまでもないでしょう。
「おはよう、母さん。今日の朝食は?」
「昨日の残り物の魚と、今作ったばかりの卵焼きよ。あんた、今日も放課後は何処かに寄るの?」
「うん、まあ、ちょっとな。」
「もし早く帰るのなら、学校帰りに買い物を頼みたかったんだけどねぇ。」
「ごめん。今日はちょっと無理だと思う。」
先輩とお義母様の、何気ない会話。
私に対しては素っ気ない先輩ですが、お義母様とは素直に会話が出来る程度に仲が良いみたいですね。
家族と仲良く会話を交わす、という概念が私にはなかったので、その点は少し羨ましく感じます。
私も、将来は先輩との間に生まれた子供と仲良くやっていきたいものですね。
もちろん、その前に乗り越えなければならない障害はまだまだ残っています。
差し当たっては、蜜に群がる蟲の如き雌共を祓わなくてはいけません。
ですが、そのための作戦を考える前に、まずは今日の分の音声を聞いておかないと。
一度録り溜めてしまうと、後で視聴するのが大変ですからね。
私は椅子に深く座り直して、改めて意識を音声に集中させます。
「では、教科書の81ページを開け。そこのページから誰かに朗読してもらいたいんだが……そうだな、今日は蜜井が読んでくれ。」
「は、はい。『ぼくは少年の頃、多くの子どもたちと同じように、蝶をコレクションしていた。あるとき――』」
これは、先輩が今日の国語の授業で先生に当てられた時の音声ですね。
うふふっ、まさか先輩の朗読を聞けるなんて、今日はラッキーとしか言いようがありません。
朗読を聞く事の何がそんなに良いの、と疑問に思われる方もいるかもしれませんが、人気のある俳優や声優による朗読って、ファンからは意外と人気だったりするものなのですよ。
その辺りの分野については、私なんかよりも蝶野生徒会長の方が圧倒的に詳しいでしょうから、わざわざ講釈を垂れ流すような真似は止めておきますが。
「はぁっ……! 先輩の朗読、最高でした……!」
感動のあまり、感想の語彙力が著しく低下しているところは如何ともし難いですが、今回ばかりは仕方ありません。
僅かな震えが混じっていながらも、精一杯張り上げた先輩の声。
地味で影の薄いヘタレな先輩の事ですから、クラスメイト達の前で堂々と朗読する事に対して若干の緊張を覚えているのでしょうね。
ふふ、先輩ったら、可愛い。
以前、私を守ってくれた時はあんなに頼もしかったのに。
それに、普段は私に素っ気ないのに。
この時の先輩がどんな表情を浮かべて教科書を朗読していたのか、想像するだけで背筋がゾクゾクしてしまいます。
「ふぅっ。たっぷり先輩を鑑賞してリフレッシュも出来ましたし、そろそろですかね。」
本日の私の課題は、邪魔者を消し去る術を編み出す事です。
目下のところ、偽彼女を名乗る蜂須先輩は強敵でしょう。
あの先輩が彼女を素直に頼った事を鑑みれば、先輩から一番信頼されている人であるのは明白ですからね。
そして、私に宣戦布告してきた蝶野生徒会長については、今のところ未知数な部分が大きいと言えるでしょう。
今の彼女は、以前とは明らかに違う。
舐めてかかれば、こちらが返り討ちに遭う可能性も充分にあり得ます。
「となれば、敵の調査にも多少のリソースを割く他ないでしょうね。」
敵を倒すには、まず敵を知る事。
今更語るまでもない程の常識です。
愛しの先輩を観察する労力を余計な事に割かねばならないのは業腹ではありますが、必要経費だと納得するしかないですね。
「先輩は、私だけの物です……!」
彼は、誰にも絶対に渡さない。
絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に。
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