蟲毒なストーカー
leema
プロローグ
第0話 孤独な追跡者
それは、季節が秋に差し掛かったある日の夕方の事だった。
最近は残暑も大分マシになり、昼はまだ少し暑いものの、朝夕は肌寒さを感じる事も多くなってきている。
今日の夕方もまた、その例に漏れず、ひんやりとした微風が僕の肌や髪を撫でていた。
――ようやく、あのうんざりする程に蒸し暑い夏から解放されたのだ。
と言いたいところではあるが、今の僕は、相も変わらず「暑い!」と叫びたい気持ちで一杯だった。
額からは汗がダラダラと垂れてきて、シャツも既に汗でぐっしょりと濡れていて気持ち悪い。
僕が校舎を飛び出した後、オレンジ色の空の下を全力で走り始めてから、おそらく20分以上は経過しているので、このように汗だくになるのも致し方ない事だろう。
火照った体を掠めるひんやりとした風はなかなかに心地良いのだが、生憎、今の僕には感傷に浸っている暇が1秒もない。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……!」
汗だくになって道を走り続ける僕に、時折通行人が怪訝な眼差しを注いでくるが、僕はそれをスルーして、もつれそうになる足を必死に動かし続けた。
断っておくが、僕が今走っている理由は、決して部活動の走り込みなどではない。
そもそも、僕は部活動には入っておらず、代わりに図書委員会に所属している。
地味で大人しくて目立たない、いわゆる「陰キャ」な僕は、運動が苦手なのだ。
しかし、今はそうも言っていられない。
運動神経が多少悪くても、体力に自信がなくても、僕はまだ走り続ける必要がある。
とはいえ、そろそろ僕の体力も限界だ。
何処かで小休止を挟みたいところだが、休む前に、まずは後ろを確認しなければ。
「あいつは……くそっ!」
僕の後方、およそ十数メートルほど離れた場所に見える、少女の人影。
高校の制服のスカートをはためかせて追ってくる彼女は、未だ僕を見失っていないようだ。
僕が少しでも走るスピードを落とせば、彼女はぐんぐんと僕に迫り、やがて完全に追い付いてしまうだろう。
運動が苦手な僕が今のところ彼女から何とか逃げ切れているのは、男子と女子の身体能力の差のお陰でしかない。
だが、僕の体力が限界に差し掛かっているにも関わらず、彼女の方は今も追跡速度を保ち続けている。
このままでは追い付かれるのも時間の問題だ。
何処かに身を潜め、そこで休んで体力を回復させなければ。
「だったら……!」
僕の視界の前方には、この街の中でも一際大きなショッピングモールがそびえ立っている。
あの建物の中で、たくさんの人や遮蔽物などを上手く利用できれば、僕は彼女の視界から逃れられるだろう。
そうして彼女を振り切ったところで、最終的に近場の男子トイレにでも駆け込めば、そこで安全に休む事ができる。
「あと、少し!」
猛ダッシュで建物の自動ドアから中に駆け込んだ僕は、入り口近くにあるエレベーターが丁度開いているのを見て迷わず飛び乗る。
そして、適当なフロアで他の乗客と共に降りると、周囲の人に気を配りながら近くの男子トイレを探し、そこへ向かって走った。
「はぁっ、はぁっ……ふぅ……。」
トイレの個室に入った僕は、洋式便器に腰掛け、ようやくそこで一息をついた。
彼女は、僕がエレベーターに飛び乗ったところまではおそらく見ているだろうが、何階で僕が降りたかは分かっていないはずだ。
更に、僕がこうしてトイレに身を潜めている事にすら気付いていない可能性が高い。
ここに隠れている限りは、僕の身の安全は保障されていると言っていいだろう。
「本当に、勘弁してくれ。何でこんな事になったんだ……。」
駄目だ。
ここで愚痴を吐いたところで、状況が好転する訳でもない。
そんな暇があったら、この後の事を考えるべきだ。
僕がこれからすべきなのは、言うまでもなく、自宅へ無事に帰り着く事だけ。
そこで問題になるのが、僕を追ってきたあの女は僕の自宅の住所を知っているのか、という点だ。
もしこれを知られていた場合、僕がここで休んでいる間に自宅へ先回りされているパターンも想定しておかねばならない。
だが、これは多分大丈夫だな。
今日は父さんは仕事に行っているが、母さんはパートが休みなので、おそらく自宅にいるはずだ。
だったら、仮にあの女が僕の自宅前で待ち構えていたとしても、何も問題はない。
情けない案かもしれないが、いざとなれば大声で母さんに助けを求めれば良いのだ。
現時点で僕が警戒しておかねばならないのは、あの女が僕の自宅前以外の場所で待ち構えている可能性だろう。
僕の家までのルートを相手が知らないと仮定した場合、待ち伏せされていると思しき場所はこのショッピングモールの出入り口付近だと推測できる。
何せ、ここは大きな建物ではあるが、出入り口はたったの3か所しか存在していないからな。
そのうち1つは、屋上の駐車場に繋がっている出入り口なので、僕がそこから脱出しない事はあの女も分かっているはず。
よって、選択肢は2つに絞られる。
「どっちだ? あいつは、どっちの出入り口で待ち伏せしている?」
建物の正面の出入り口か、はたまた、裏口の方か。
何か明確な手掛かりがある訳でもないのだから、どちらの出入り口から脱出すべきなのかを論理的に考えるのは無意味だ。
ただ、強いて言うなら、裏の出入り口の方が通行人は少ない。
人が少ない出入り口の方が、潜んでいるあいつを発見するのは容易だが、その逆も然り。
人込みに紛れて脱出、という策は裏の出入り口では使えないと考えるべきだ。
人の多い表側の出入り口から脱出する方が、おそらく安全ではなかろうか。
万が一、あの女に見つかって妙な事をされそうになっても、周りの人に助けてもらえる可能性だってある。
「よし!」
体力も回復してきたし、そろそろここから出よう。
意を決した僕は、足音を可能な限り殺して個室を出ると、男子トイレの外の様子を窺う。
さて、あいつの姿は……うん、さすがにトイレの前で待ち伏せはされていなかったか。
だが、問題はここからだ。
あいつが表の出入り口にいるかどうか。
「……」
表の出入り口付近までやってきた僕は、近くの柱の陰に隠れながら、出入り口を行き交う人並みを見回す。
しかし、問題の相手の姿は何処にもない。
これは、当たりか?
いや、まだ油断は出来ない。
あいつが何処かに身を潜めている可能性も……いないな。
うん、どう見ても、いないな。
なら、今のうちに急いで家まで帰るだけだ。
「ふぅ……。」
ショッピングモールを脱出した後、小走りで移動し、ようやく自宅のある住宅街に入った僕は、胸に詰めていた息を一気に吐き出した。
ここまで来れば、自宅に辿り着くまで、普通に歩いたとしても5分も掛からない。
僕は、あの女から無事に逃げ切る事が出来たようだ。
それにしても、今日の帰り道は本当に地獄だったな。
普段は自転車で通学しているのだが、校舎から逃げる際に自転車を取りに行く余裕がなかったせいで、徒歩で1時間近く掛かる距離を逃げ帰る羽目になってしまった。
という訳で、明日は、徒歩で学校に行くしかない。
更に、あいつが明日も何か仕掛けてくる可能性だって大いにある。
せっかく逃げ切れたというのに、段々と気が滅入ってくるな。
今日のうちに、明日の対策を何か考えておかねばなるまい。
さて、そろそろ自宅も見えてきた。
やっと、僕は帰ってこれたんだ……って、え?
おいおい、ちょっと待ってくれ。
これは一体、どういう事だ。
可笑しいだろ。
だって、だって……!
「これ、僕の自転車じゃないか!?」
自宅の玄関前に置かれた、1台の自転車。
サビが少し目立つ、カゴ付きでシルバーのそれは、何処からどう見ても、僕が通学で使っている自転車そのものだ。
――何故、学校の駐輪場に置き去りにしてきたはずのこいつがここに置いてある?
もしかしたら、家にいるはずの母さんが何か事情を知っているかもしれない。
さっさと家に入って、話を聞こう。
そう思った僕は、自宅の玄関の扉をガチャリと開け、玄関の中に入ったのだが。
「ただい……はっ? 嘘、だろ……!?」
うちの一家は、父さんと母さん、僕の3人家族だ。
しかし、玄関に今並べられている靴の数は、全部で4足。
これはもう、嫌な予感しかしないな。
「義弘、帰ってきたの? おかえりなさーい!」
リビングから顔を出した母さんが、ニヤニヤした顔つきで足音をパタパタと鳴らしながらこちらに駆け寄ってきた。
玄関の扉を背に立ち尽くしていた僕は、目の前にある見覚えのない靴を指差し、母さんに尋ねる。
「誰か来てるのか?」
「義弘ったら、もう、惚けちゃってぇ! あんた、随分とモテモテになったのねぇ!」
この母親、凄くウゼぇ。
僕は今そんなノリで会話する気分じゃないんだから、さっさと質問に答えてくれ!
そう言いたい気持ちは山々だが、今のやりとりだけで、僕の不安が的中していた事は半ば確定してしまった。
ここで回れ右して何処かへ逃げたい気分だが、もし逃げてしまったら余計に状況が悪化しそうな気がしないでもない。
母さんがいる以上、このまま踏み込んだとしても最悪の事態にはならないはず……だといいなぁ。
「とりあえず、行くしかないか……。」
僕は玄関で靴を脱ぐと、ニヤニヤしている母を置いてリビングへ向かう。
そして、リビングの扉を開けた、その瞬間。
予想通りの、いや、予想以上の光景が僕の目に飛び込んできた。
「は……ははっ、何だ、これ?」
さすがに、この展開は予想外だった。
だが、何度目を擦っても、頬を抓っても、目の前の幻覚は消えてくれない。
あまりの衝撃に、腰を抜かしてその場に僕がへたり込むと、食卓の椅子に腰かけていた1人の少女が立ち上がり、僕の目の前に移動してきた。
彼女は、その美しい面に歪んだ笑みを浮かべて、片手を大きく振り上げる。
真っ直ぐに掲げられた彼女の手には、天井の蛍光灯の光を受けてギラギラと輝く、金属製の何かが握られていた。
「おかえりなさい。そして……!」
掲げられていた彼女の手が、その手に握られている何かが、僕に向かって一直線に振り下ろされる。
それをただ茫然と眺めていた僕は、心の中で叫んだ。
――どうして? どうして、こうなった!?
今に至るまでの出来事が、まるで走馬灯のように僕の脳裏を駆け巡る。
目をギュッと瞑った僕の頭に最初に浮かんできたのは、今年の4月半ば頃、彼女と初めて言葉を交わした時の出来事であった。
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