第13話 モネとマネ

 カビ除去剤のほのかな塩素の匂いと湿気が混じる脱衣所に足を踏み入れた。

 このサウナ室から一刻も早く出たい気持ちを抑えながら鏡の前に立ち、歯ブラシに歯磨き粉を乗せて口に含んだ。

 

 すると、アオイが急に甲高い声を上げた。

「ふぇぁ、歯ブラシが口にひゃいってきた。んふふ。何か、懐かしい感じ…。小さい頃みたいにママに歯を磨かれてる気分。あのさ…テツヤは…お母さんと仲悪いの?」

「いや…ほんなことはないけど…」

 その声は左右に歯ブラシを移動させて出来た小さな泡とともに、溶けて弾けた。

 

 しかし、納得いっていないアオイが歯ブラシに邪魔されながらも、さらに突っ込んでくる。

「でも、お母さんと話するの避けてる感じしたよ」

 鏡の中で渋い顔をする自分を見つめる。

 僕はこの気持ちを表現する言葉が見つからず、泡だらけの唾液を洗面台へ吐き出した。

「ふぅ…。母さんさ、昔…小学校の先生やってたこともあって、最近は口を開けば勉強しろ勉強しろってうるさいんだよ…だから、まぁ…ん~避けてるっちゃあ避けてることになるのかなぁ…」

 

 整理できていない言葉を垂れ流していたが、アオイはそれを聞いて満足したのか別の話題をふってきた。

「ふぅん…テツヤは勉強嫌いなの?」

「ん⁉…まぁ、好きひゃないな。アオイはどうなんだ?」

 再び歯ブラシを咥え、泡だらけの口で僕は答えた。

「私⁉︎私は割と好きひゃよ」

 意外な返事が返ってきたので、僕は思わず身を乗り出してしまう。

「ま、マジで?アオイさん!夏休みの宿題、手伝って下さい」

 僕は口をゆすいで、歯ブラシに付いた泡を冷水で落としながら頭を下げた。

 タオルで口に付いた水滴を取って、階段へ向かう。

 

「ふぁ~、歯磨きしてスッキリした~。うん、いいよ。でも、お願い聞いてくれたら手伝ってあげる」

 怪しい笑い声を交えながら、アオイが取引を持ち掛けてきた。

「マジか!何でも聞くから手伝って!アオイ様!」

 足の裏を着けた階段も僕と一緒に乾いた声で懇願してくれた。

 

「ホント⁉︎やった!約束だからね!じゃあ…何、お願いしょっかなぁ~。ん~…今、パッと思いつかないから、思いついたらでもいい?」

 プレゼントを選ぶように弾んだ声をさせながら、アオイが確認してきた。

「よっし!まぁ…いいけど、ほどほどにして下さい」

 僕はエアコンに仕事を発注して、机に置いてあった団扇うちわを手に取って椅子に座った。

 アオイが何処にいるか分からないので、とりあえずベッドに目線を向けてみる。

 そして、僕は提案ついでにある相談を彼女に持ち掛けた。

 

「…あ、あとさ…ついでに、ちょっと相談なんだけどさ…」

「何?どうしたの?」

 いつもと違う、アオイの静かで柔らかな声が頭に流れてきた。

 僕は、昨日から思っていたことを上手く伝えようと言葉の糸をゆっくりと紡いでいく。

「こう…アオイと話してる時さ、どこ見て話せばいいのかな?って…俺、アオイの事見えないし、見えてたらアオイの目を見て話せたりできるんだけど、何かこう…めっちゃ話しづらくてさ…」

 僕の話を聞きながら、相槌を打ちつつ少し唸り声をあげていたアオイが苦慮する声を漏らした。

「なるほど…う~ん。言われてみれば…そうだよね。うん。……あっ、ちなみに私は今、テツヤの目の前でプカプカ浮いてるよ。ん~…そうだな~…ん~…」

 

 僕らはしばらく考えたが、なかなかうまい解決が出てこなかった。

 しばらく沈黙と苦悩の間を彷徨さまよっていると、アオイが思いもしない言葉を僕に投げかけてきた。

「ねぇ、テツヤ。…テツヤはこの写真みたいな女の人がタ、タイプなの?」

 僕の部屋にある写真といえば、机の隣にある棚に飾ってある一枚しかない。

 思わぬ方向から投げつけられた質問の内容に、僕は狼狽しながら答える。

「はぁ⁉いきなりなんだよ。…写真って、コレか?」

 僕は椅子から立ち上がり、棚の前に立ちその写真を指さす。

 

「そう、それ」

 僕は写真を手に取り、そこに映る彼女に語りかけるようにアオイの質問に答えた。

「あぁ、コレね。まぁ、タイプか?と聞かれれば…タイプかな。普通に可愛いと思うよ。ただ、僕にとって…この人は特別な人なんだ…」

 との思い出に浸って淡い声で喋る僕に、アオイが恐る恐る声をかけてきた。

「ふ、ふ~ん。その人、テツヤの彼女とか?」

 

 ーそうだったらどんなに良かっただろうか。

 

 僕は肯定したい気持ちを抑えて、非情な事実をアオイに伝える。

「ち、違うって!…<千種彩音>って知らない?」

 僕の答えを聞いて、明らかに意気消沈した様子の声が頭に響き渡る。

「なぁんだ。…あの、モデルでポカリのCM出てた子でしょ?当時はセブンティーンによく出てたけど…」

「おっ⁉知ってんの?」

 アオイが彩音さんを知っている事が嬉しくなった僕は、自然と口角が上がった。

 しかし、腑に落ちないアオイがさらに質問してきた。

「そりゃまぁ…知ってるけど…。で、なんでその子が特別な人なの?」

 

 これから一緒に過ごすアオイには、話しておくべき話である気がした。

 しかし、落ち着いて話したいため、後方の憂いを絶つ申し出をアオイにする。

「そうだな…アオイには話しとこうかな。でも、少し長くなるから英語の宿題やってからでいいか?」

「うん。じゃあ、宿題…先に終わらせちゃお」

 駄々をこねるかと思ったが、素直に言う事を聞いたので僕が驚いていると、アオイが頭の中で急かしてきた。

「ちょっとテツヤ!何、ボーっとしてんの?宿題…やるんじゃないの?」

「あ?…ああ…」

 僕は、微笑むを見る。

 

 椅子に座り、大きくまばたきをする。

 瞼の裏に山吹色の空が映し出される。

 

 ここから見える夜を越えた空は、これからの僕らを見守ってくれるのだろうか…。

 

 目の前に現れた二日前の僕と会った僕は、ほんの少しだけ心を躍らせてシャーペンを握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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