第9話 トンボ、シーチキン。

 扉の先へ進むと、ゆりかごに揺れているような心地よさを身体に感じた。

 懐かしさにも似たその揺れは、僕の意識を徐々に奪っていった。

 

 ブォーーン

 

 空気を鈍く切るような音がしている。

 服が身体に吸い付いているような感覚がする。

 冬の刺すような寒さが身体を襲う。

 特に、下半身はいつもと違う開放感を感じる。

 呼吸をすると、胸が少し締め付けられている感覚がする。

 そして、同時に少し硫黄に似た匂いが鼻を刺激した。

 朦朧とした意識の中で、自分にただならぬ事が起きている予感を感じ、僕は勢いよく瞼を上げた。

 

 目の前には黒い壁があった。

 

 瞬時に、この空間の異様な空気が僕の身体を強張らせる。

 様子をうかがうため、金縛りにあったかのようにゆっくりと眼球を左右に動かしてみる。

 右手に洋式の便座、左手には先程と同様の黒色の扉があることを確認し、自分がトイレにいることだけは確認できた。

 

 あまりの寒さに身体が震える。

 本能に従って、無意識に左右の腕を両手でさすって暖をとろうとした。

 しかし、何かが違った。

 今までに触れたことのない柔らかさを掌に感じる。

 僕は状況を理解するために、少し頭を下げて自分の腕を見る。

 すると、頭を下げたと同時に前髪から滴が落ちてきた。

 そして、先程から首元から感じていた違和感の意味を知った。

 自分に起こったことを確認するために更に真下を見る。

 

 胸元にはリボン。

 そして、足元を隠すかのような膨らみ。

 モノクロのチェック柄のスカート。

 肌にまとわりつく黒いソックス。

 濡れて不快さが増した灰色の靴。

 

 僕は、自分が間違いなく女性となっていることを確認した。

 

 何故、ずぶ濡れになっているのかはまだ分からない。

 

 半袖のシャツに触れてじっくりと見てみるが、自分の通っている制服ではないのは確かなようだ。

 個室のトイレの上下にある隙間から、夕焼けのような赤色の光が漏れている。

 

 暗闇に慣れてきたのか、今まで色がなかった場所に色が付き始める。

 目の前にある黒い壁が黒でないことが分かった。

 目を凝らして見ると、血液が凝固したような黒紅色だった。

 

 外に出ようと、ドアのスライド錠を右へ動かしてロックを外そうとするが、ビクともしなかった。

 僕は、無意識に扉を叩いた。

 

 バンバンバン!!

 

 鈍く乾いた音が鳴ると同時に、粘つく何かが右手に付着して飛び散った。

 右手の掌が赤く染まる。

 粘性のあるヘドロのようなものをスカートで拭くが、掌のは落ちない。

 

「誰か!誰かいませんか!!誰か!」

 

 そう口に出しているはずなのに、僕の耳にその言葉は聞こえない。

 僕は、喉に両手を当てて、声を捻り出そうとするが、いくらやってもその声は出てこない。

 大声を出すために大きく空気を吸い、横隔膜を収縮させていく。

 そして、背中を曲げ、拳を力強く握りしめる。

 肺に貯め込んだ空気を一気に吐き出して声帯を震わせてみる。

 

 ブォーーン

 

 羽虫のような耳障りな音が、鼓膜を振動させる。

 

 声が出せないことを悟り、僕はここから脱出するために周りを見回した。

 後ろを振り向くと白い洋式便座があった。

 そして、その後ろにある黒紅色の壁に白い紙が貼ってある。

 

 <あなたはなにいろ?>

 

 白い紙に赤色で書かれたその文字は、指で書かれたものなのか、所々擦れて指紋が付いている。

 

(なんだよ、これ…)

 

 書かれた文字の意味も分からず、混乱していると便座の横にボロボロの黒いバッグを見つけた。

 

 肩掛けの紐を手に取ると、鞄の右下に見たことがない校章があった。

 僕は持ち主に申し訳ないと思いながら、そのくたびれた鞄のファスナーをゆっくりと開けた。

 中には化粧ポーチやお菓子など様々なものが入っていたが、全て白か黒色で色が無い。

 携帯電話を見つけて開いてみるが、電源を入れても反応しなかった。

 僕は、すぐに取り出せるように携帯電話だけスカートのポケットに入れた。

 さらに鞄を探ると、異様な雰囲気を放つ教科書があり、手に取った。

 

 <高等学校 数学Ⅰ>

 

 そう書かれた表紙の所々には<消えろ>や<キモい>、<ビッチ>といった黒く書き殴った文字が散りばめられていた。

 

 ページをめくると、数学の教科書なのに数字が見当たらない。

 破られていないページに塗られた黒が、高らかに笑っている気がする。

 

 僕はその声をかき消すように、力強く教科書を閉じて鞄に戻す。

 が置かれている状況を僕は理解した。

 

(…もしかしたら生徒手帳があるかもしれない)

 しかし、いくら探してもモノクロの鞄の中には、生徒手帳は見つからなかった。

 

「ヒャハハハ…」

「フフフ…」

 

 扉の外から突然、複数の女性の汚い笑い声が聞こえた。

 僕は扉へ向き直り、渾身の力を込めてスライド錠を開けようとするが、扉はガタガタと鳴るだけで相変わらずビクともしない。

 その様子を見ているのか、再び醜い笑い声が聞こえてくる。

 

「ヒャハハハ…ヒー、ヒー、腹痛い」

「フフ、フフフ…」

「アハハ、ハハハッ!やばぁ、マジ、ウケる~」

 

 その笑い声が僕の理性を失わせる。

 

(ふざけんじゃねぇ!!!)

 

 僕は細い身体を使って、扉に体当たりする。

 扉に体当たりする度に、黒紅色の何かが血しぶきのように飛び散る。

 

 ドン!ドン!

 

 何度体当たりしても扉は開かない。

 その間にさらにも増して品のない声が僕を苛立たせる。

 

「ヒャハハハ!コイツ、マジで必死になってる。ヒヒヒッ、ウケるんですけど!」

「ンッフフフ…フフフ…これ以上、近づかないでって私、言ったはずなんだけど…」

「マジそれな」

 

(うるさい、黙ってろ…)

 

 僕は後ろの壁まで下がり、助走をつけて扉に体当たりした。

 すると、スライド錠が外れて扉が開いたので僕は勢いよく床に転がってしまった。

 扉を出るといつしか笑い声が消え、そこにいると思っていたヒト達の姿は無かった。

 

 灰色のトイレの小窓から、鮮やかな真朱色の光が差し込んでいた。

 僕は脱力感が残る身体を起き上がらせ、便器横にあった鞄を肩にかけてトイレの出口へ歩き出す。

 

 その途中、悲しく佇む鏡を見つけた。

 僕は恐怖心を胸にしまい込んで、恐る恐る鏡を覗き込む。

 

 肩まで伸びた濡れた髪の毛、殺人を犯したように濡れたシャツを真っ赤に染めたあげた女子生徒の姿がそこにあった。

 肝心の顔は、鏡が水垢で曇っていてはっきりと分からない。

 そして、洗面台には水に浸かって無惨な姿になった生徒手帳を見つけた。

 念のため中身を確認してみたが、顔写真や名前、生年月日などが記載されたページには予想通り、血のりのような黒色で塗りつぶされていた。

 僕はみすぼらしい姿になった生徒手帳を鞄に閉まい、この不快な世界から出るために、トイレの扉を開く。

 

 しかし、その先で出迎えてくれたのはおぞましい空だった。

 陽を遮るかのような厚い雲と今にも滴り落ちそうな重い赤色が、窓の外の世界を染め上げている。

 首を左右に振って状況を確認してみるが、薄気味悪くて長い廊下は、恐ろしいほど静かだった。

 左奥の部屋には<音楽室>と書いた部屋があった。

 一方、右側はどれくらいの距離があるのか見当がつかないほど長い廊下が続いていたが、その先には白く淡い光が見えていた。

 

 僕は、その光を目指して右側の廊下を歩いてみることにした。

 呼吸をする度に、夏服を着ている僕から白い吐息が出て、張り詰めた空気と混ざり合う。

 濡れた衣類が体温を奪い、身震いする度にカタカタと歯がリズミカルな音を奏でる。

 しばらく歩いても淡い光に近づいている感覚が無かった。

 しかし、少しずつ暖かい空気を感じるようになってきたので、僕はこのまま歩みを進めた。

 

 さらに進むと<1-A>という文字が見えた。

 教室の扉をスライドさせてみるが、ビクともしなかった。

 仕方がないのでそのまま進もうとした時、教室から女性か男性ともつかぬ声が聞こえた。 

 

「アイツ…サイキン…チョウシノッテル」

「マジ…アリエナイワ…」

「マタ、ヒルカラ…ゴシュッキン?」

 

 獣の咆哮ほうこうのような声が段々と大きくなってきた。

 僕は耳を塞ぎ、光の射す方へ走った。

 <1-B>、<1-C>と進む度に、塞いだ耳に襲い掛かる声は大きくなっていった。

 淡い光が少し大きく見えてきたように思える。

 

 <1-G>まで来た時、スカートに入っている携帯電話のバイブレーションを感じた。

 歩みを止めて、ポケットの中で泣き叫ぶ携帯電話に手を伸ばす。

 鳴るはずのない携帯電話を開くと、怪しく光る画面には非通知の文字が映っていた。

僕は震える手でその電話に出て、携帯電話を耳に当てる。

 

「……」

 

 周りが騒がしいか、笑い声や話し声が聞こえる。

 

「……あんたが裏切ったんだからネ!!…」

 

 鼓膜を切り裂くほどの金切り声とともに、廊下にヒビが入って足元がぐらつく。


 次の瞬間、僕は崩れる廊下とともに奈落の底へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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