第6話 思い出の虚数解は「後悔」だということを証明しなさい。

 驚いて後ろを振り向くと、そこに鈴木の姿はなく、夜を迎え入れる準備に勤しむ赤い空が目の前に広がっていた。

 先程まで座っていたはずの椅子や机はいつの間にか無くなり、僕は橋の上に立っていた。

 

(さすが、夢だな…。たしかに…僕はあの話を聞いた後、梢を探しにこの場所へ向かった…気がする)

 

 雑草の生茂おいしげる川縁の斜面に座って、スケッチブックに向かい、懸命に何かを描いている梢の姿が橋の上から見える。

 橋を渡り切って、梢のいる場所まで静かな川縁を歩く。

 葡萄ぶどう色のクコの花と晩秋の風が魅せたワルツの跡が、色の少ない川縁に色を飾る。

 その色を見ていると、頭の中で陽炎のように揺らめく記憶が徐々に鮮明になってきた。

 赤いランドセルを椅子代わりにして座る梢の後ろに立ってみたが、余程集中しているのか、僕の気配には気付かず、赤い色鉛筆で懸命に白地を埋めている。

 僕はあまり驚かさないように、声量を抑えて話しかけた。

 

「梢、こんなトコで何しよん?」

 梢は身体をビクつかせて、持っていた色鉛筆を落とした。

「て、て、テツ君⁉︎な、なんで、ここにおるん?」

 落とした色鉛筆を拾いながら、後ろを振り返る梢の目は、いつにも増して大きく見開かれていた。

 

「ご、ごめん。そんな驚くと思わんかった。いや、鈴木から梢がここで何か描いちょるって聞いたもんで…」

 バツが悪いと感じた僕は、無意識に頭を掻きながら、驚く梢にここに来た経緯を話したが、彼女は首を捻って質問をしてきた。

 

「ふぅん…。鈴木君?その子って…うちのクラスの子?」

 ーそう、当時の彼女は周りの人間に興味などなかった。

 

「せやね。俺の後ろの席のヤツ」

 首を傾げたまま、梢は腕を組む。

 長い髪からチラリと見える首筋は、夕闇とのコントラストもあり、漆喰しっくいのように白く見える。

「テツ君の後ろの席……。あぁ、あの人か。そういえば…6時間目の前に、何か盛り上がっとったみたいやけど…」

 

 眼鏡の奥から放たれる無機質な目線が、珍しく右往左往していた。

「あぁ…そ、それは…鈴木が変な事言っとっただけやけ、気にせんでええよ」

 背中に背負っているランドセルを外して梢の隣に座り説明するが、少し動揺していたこともあり、無意識に身振り手振りが激しくなる。

 

「ふぅん…。まぁ、テツ君に迷惑かけとらんのやったらええけど…」

 体育座りをした膝に頬を当ててこちらを向く彼女は、悪戯っぽく微笑んだ。

「いや、迷惑とか…かかっとらんけ、大丈夫。それより、梢って絵も描くんやな!梢の書いた絵、見てみたいんやけど…見てもええ?」

 少し間があった後に、梢が蚊の鳴くような声を発する。

「テツ君なら…ええよ。…でも、何か恥ずかしい。下手でも笑わんでね」

 梢は、太ももに乗せていたボロボロのスケッチブックを恐る恐るこちらに手渡してくれた。

 

 擦り傷だらけのオレンジと黒の表紙に、左手を重ねて、ゆっくりと開く。

 最初のページには、学校で描いたと思われる校庭の風景が鉛筆で描かれている。

 綺麗な濃淡で描かれた遊具と草花は、とても素人が描いたものには見えなかった。

 その後、破られたページが数枚続く。

 

 はこのページの意味を知っている。

 

 僕は、その泣き出しそうな切れ端を慰めるかのようにそっと指でなぞる。

「あっ、そこは……気に入らんくて、破っちゃったトコやけ、気にせんで…」

 僕の仕草を見た梢が、横から説明してくれる。

 

「そっ…か…」

 たとえ、現実ではない梢だとしても、その顔で、その声で、その言葉を聞くのは胸が苦しくなる。

 大人になった僕ならその細く、小さな身体を優しく抱きしめてあげられるのだろうか。

 

 破れたページを数枚捲ると、今描いていると思われる河原の絵が出て来た。

 力強く色付けられた藍色と淡い赤色をした空の下には、雄大な川が描かれていた。

「凄いやん!この絵、俺は好きやよ。いつから描いとん?」

 僕は、水彩画のような優しいタッチの絵を色鉛筆で描ける彼女を単純に凄いと思った。

 梢は咄嗟に前方へ向き直ったが、彼女の横顔には、えくぼができている。

「んふふ、ありがと。へへへ…好きだなんて、初めて言われた。絵はね、夏休みから描き始めたの。私、あの空を描きたくて…ここからやと、遮るもんがないけ、空が綺麗に見えるんよ」

「いや、普通に凄いと思う。まだ、4か月くらいしか経っとらんのに、このクオリティやろ?…でも、何で絵なんて描き始めたん?」

 現実で思い出せていないその答えを僕は聞きたかった。

 

「それはね………ヒミツ…」

 梢は川の流れを見ながら、膝に顎をつけて答える。

 予想に反した答えが返ってきた僕は狼狽ろうばいした。

「えっ⁉何で?…ええやん」

「嫌ややって…そんなん、笑われそうやし」

 そっぽを向いて頑なに教えてくれない素振りをみせる彼女に、手を合わせてもう一度、懇願してみる。

「笑わんて。絶対。幼馴染…やろ?」

 瞑った目をゆっくりと開けると、口をへの字に曲げてこちらを見る梢がいた。

「テツ君…それ、ずるい。……笑わんてちゃんと約束してくれる?」

「約束する」

 僕は梢の目を見て力強く頷いた。

 

 梢は前に向き直り、目の前の川に綺麗な水面が作り出されるような速さで喋り始めた。

「…夏休みに図書館に行った時、オススメの図書コーナーに絵本があったんやけど、その絵本…表紙の絵が綺麗やって、気になって読んで見たら凄く感動したんよ。絵本でこんなに感動するなんて思わんくて…。私もこんな素敵な絵本、書いてみたいな…って」

 思いもよらない理由に驚いたが、梢が感動したという絵本の内容にとても興味が沸いた。

「へぇ、どんな本なん?」

「ドラゴンがお姫様をお城から連れ出して旅をする話やよ」

 狼男が喜びそうな寒月かんげつが映る水面を見つめながら梢が答える。

「ふぅん…冒険かぁ。楽しそうやなぁ。でも、すごいよ…梢は。思ったことをすぐに行動できるなんて…」

 高校生になった自分と小さな梢を重ねて、自分の幼稚さに腹ただしくなる。

 目の前で雄々しく流れる水の尾の先へ行けない僕は、ココでその様をただ眺めることしかできない。

 

 少し間が空いて、隣から乾いた空気に混じって柔和な声が聞こえてくる。

「そう…かな?…私からしたら、ギター弾けるテツ君の方が凄いと思うよ。でも、テツ君に好きって言ってもらえたし、もうちょっと頑張ろうかな。なかなか、絵って難しくて…諦めかけとったんよ」

 これから先も彼女の絵を見てみたいと思う僕は、梢と視線を交わして言葉を渡す。

「いやいや、ギターは弾けるって程でもないよ。父さんに教えてもらっただけやし。それより、せっかく頑張ったんやし、絵…もうちょい頑張ってもええんちゃう?」

「うん。…もう少しだけ…頑張ってみる。それより、テツ君…今日、柔道場に行かんでええん?」

 梢の言葉を聞いて、頭の中にこれから起きる出来事の断片が走馬灯のように流れ込んできた。

 

「あっ、忘れとった。もう…ええ時間やし、一緒に帰る?」

 僕は臀部でんぶに付いた砂や草を払いながら、隣に置いていたランドセルを背負う。

「う〜ん。もうちょっと描いてく」

 僕を見上げる梢の手にはすでに別の色鉛筆を握っている。

「そっか、あんま遅くなるなよ。オバさん心配するけぇ」

「うん。分かっとる」

 返答する梢は既にスケッチブックに向かっていた。

 

 空は陽が西へ落ちて、一番星の差すような輝きが地上へ降り注いでいた。

 橋を渡ると左手にある山から強く空っ風が吹いた。

 鼻先をひり付かせるほどの風に紛れて、この季節には似合わないアイリスの花が目の前を舞う。

 

 ー何を恐れてる?

 

 僕は立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をして来た道を戻る。

 そして、紺色のパーカーを着る梢の後ろに立ち、首に巻いていたボルドー色のマフラーを梢の背中にかけた。

 

 梢は何が起こったのか分からず、こちらを向いた。

「まだ、おるんやったら…そ、その冷えるけ、これ…使ったらええよ。明日、返してくれたらええから」

 あまりの恥ずかしさでチラリと横目で梢の反応を確認する。

「う、うん…。温かい。テツ君、ありがとう」

 マフラーを抱きしめて見せるその無垢な笑顔は、僕が今までに見たことがないものだった。

 

 ー…梢、こんな笑い方するんだな。

 

「おう、じゃあ、がんばれよ」

 梢の方を見ずに、背中越しに手を振って歩き出す。

 目の前には、あの頃の葛藤に打ち勝った先の景色が広がり、軽やかになった足取りで橋へ向かう。

 

 橋を渡り切り、これから起こるであろうことに心の準備が十分にできていないまま、身覚えのある路地へ入る。

 

 家の近くまで来た時、突然、目の前の道路が歪んで見えた。

 直後、急に胸が苦しくなり、僕はその場に膝をつく。

 まるで溺れているかのように息ができない。

 

 久しぶりに感じる心臓を握り潰されているかのような痛みと、閉塞感。

 粗いアスファルトの粒子を頬に感じる。

 

 朦朧とする意識の中、耳の奥から季節外れのキリギリスの声が聞こえる。

 愛を叫ぶ夏虫に混じって、弱々しい女性の声が聞こえてきた。

 その声に導かれるかのように、か細い灯はゆっくりと後悔の宵へ溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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