第36話 愛しい者



 ヤトが白銀のドラゴンを目にしてから一日かかって森を走破して北の山の麓に辿り着き、さらに一日使ってドラゴンが姿を消した山の中腹まで登った。

 彼はその二日間、筆舌に尽くし難いもどかしさを抱えていた。これほどの焦燥感は生まれて初めての事であり、焦る気持ちがひたすらに足を突き動かしていた。

 まるでそれは愛しい相手を恋焦がれるかのような乙女の心に酷似している。

 ヤトは大空を悠然と舞う白銀の竜に恋をしていた。生まれて初めての恋だった。


 三日目の朝。

 起床して焦る気持ちを抑えながら、作業的に朝食を胃に納めた。

 そして記憶と勘を頼りに愛しい相手を追いかけて、木々の生い茂る険しい山の斜面を登ると、段々と傾斜が緩くなる部分が多くなってきた。

 さらに先を目指すと、ほぼ平らに近い場所に着いた。

 鳴り止まない心臓の鼓動と共に勘が告げていた。この先に目当ての相手が居るのだと。

 勘は正しかった。森の木々を無視したような全力疾走の末に森を抜けた。

 そこは遠くから見ただけでは分からなかったが、平らな台地であり木々が無く短い草の生い茂る平原だった。

 しかしそれは問題ではなかった。ヤトの目には地形など全く映っていない。彼が見ていたのは平原の中央に寝そべる巨体。恋した白銀竜しか見ていなかった。

 激情を極力抑え、剣の柄から手を離してゆっくりと一歩一歩平原の中央へと足を進めた。

 間近で見る山の主は巨大で優美だった。翼を閉じた状態でも大きさはサイクロプスの倍はある。微かに寝息を立てる様は、生きた小山のようにも見える。

 段々と近づくにつれ竜の相貌がはっきりと見えてきた。頭部は大男ほどに大きく、細長い顔の半分以上裂けている。その裂け目には隙間が無いほどびっちりとナイフほどもある長く鋭い牙が無数に生え揃っている。隙間から漏れ出した吐息は非常に生臭く、強烈な血と臓腑の匂いだ。さらに目の後ろから一対の太い角が捻じりながら前に突き出ている。

 眠っていたため目は開いていないが、ヤトがあと三十歩の距離まで近づいたところで、唐突に巨大な眼が見開かれた。眼は白銀の身体の中で唯一夕陽のように赤く、瞳孔は蛇のように縦に細長い。


「―――なんだ二本足。何故儂の眠りを妨げる?」


 竜は不機嫌で轟くような声で眠りを妨げた者を責めた。白銀竜は身体を動かさず、頭だけを向けて射抜くような瞳でヤトを見つける。

 その声は思いの外、知性と思慮深さを含んでいる。怒りよりも面倒臭さと寝起き特有の気怠さのほうが強いように思えた。


「眠っているところに突然すみません。どうしても貴方に逢いたくて」


「儂は二本足なんぞに用は無い。さっさと消えろ」


 言いたい事だけ言って竜は再び寝入った。

 しかしヤトはそれで引き下がるほど潔い男ではなかった。さらに五歩竜へと近づく。

 すると白銀竜は目を見開き、同時に喉を膨らませて赤い炎を吐いた。ミスリルやオリハルコンすら溶かし尽くす灼熱の炎が、ヤトが元居た場所を通り過ぎた。直前で殺気を感じて避けていなければ、骨すら残らず焼き尽くされていたに違いない。

 ケルベロスの炎など足元にも及ばない至高の炎。まるで太陽の息吹。直撃を避けても肌を焦がす熱は、ヤトに恐怖と歓喜を与えてくれた。

 そうだ。ずっと待っていた。己に恐怖を与える存在を。一目で勝てないと直観した至高の存在を。それすら斬る機会を。


「やはり貴方だったんですね」


 一人納得した剣鬼は鞘から赤剣を抜き放つ。極限まで膨れ上がった殺意と闘志は神に匹敵する白銀竜の鱗を逆立たせた。古竜もまた卵より生まれ出でて初めて恐怖を抱いた。それも幻獣でも同族の竜ですらない、ひ弱で小さな人間にだ。


「――――なんだ貴様は。儂に何をする?」


「僕の全てを賭けて、全身全霊を以って、後の事などどうでもいい、命だって捧げる。愛しい方、貴方を斬ります」


「はっ、儂に挑むか人の子が!良かろう、気の済むまで付き合ってやるっ!!」


 白銀竜が立ち上がって巨大な一対の翼を広げ、無数の牙の生えた口を大きく開き、咆哮を天に響かせる。

 その咆哮は遠く離れたカイルにも届き、兄貴分が遂に望みを果たすのだと直感した。



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