四年に一度だけ会う二人

N's Story

第1話 再会

「パパ、どこに行くの? もう始まっちゃうよ!」

 立ち上がった僕のズボンのすそを、娘は引っ張った。

 スタジアムの声援の中で彼女の声を聞き取るのは容易ではない。同じく僕の声も掻き消されてしまうだろう。僕は膝を曲げずに彼女に耳打ちをした。

「ちょっとトイレだよ。ママもいるから大丈夫だろう?」

 娘の隣に座っていた妻にもそれが聞こえていたようで、娘の頭を軽く押さえ「あまり遅くなるようなら連絡してね」と、よく通る声で言った。

「ああ、大丈夫だよ」

 もういい大人なんだ、そう簡単に迷うこともない。それに、会場は違えど、もう何度もオリンピックに来ているんだ。こういう場所での振舞い方には慣れている。

 客席を抜け、人の流れに逆らいトイレへの案内に従う。やがて人々の流れが途切れ始め、無数の個室が並ぶ目的地までたどり着いた。照明がやけに明るい。

 流しのひとつに、長い前髪を整えている男が立っていた。白い明かりのせいか、いささか無機質な顔に見えた。その後ろを通る時、彼は僕に話しかけてきた。

「久しぶりだね。まだ傷は痛むかい?」

 目的の人だ。これは彼の決まった挨拶だった。会う度に顔の形を変えてくる彼だが、挨拶と声だけは十六年前から違いがない。

 僕が彼の隣に並ぶと、男は横目で僕の義足を見下ろした。

「毎回それを聞くんですか? 僕が聞きたいのはそんなことではないんですよ。貴方の名前がニュースで流れるのをずっと待っているんです」

 彼は僕から目をそらした。顎のラインに沿って、うっすらと綺麗な傷跡が見えた。

「君の足を奪ってしまったことは後悔しているんだ。君はもう引退してしまったのかね」

「ええ、この足では目立ちますから。ですが、これは悪いことばかりではありません。理解のあるふうに振舞いたい人は、決して僕に疑心を抱かない」

「それもそうだね。いや、それなら尚更、君は辞めるべきではなかっただろう?」

「いいえ、わかっているでしょう? それに、今の仕事も悪くはないですよ。建物のことを知るのは面白い。ようやく、どんな柱がどれだけのものを支えているかがわかるようになってきた」

 僕は今、片足がないということを除けば実に静かに、普通の人間として生活をしている。ここ四年の仕事はある建物の管理だった。そこに不満はない。

 彼はしゃんと背を伸ばし、鏡の向うの自分を見た。僕よりも視線が高くなっている。足元を見れば、彼の膝から下は、付け根から膝よりも長くなっていた。

「……ずっと、君という希望を失ったことを悔やんでいるんだ。世界はきっと、君によって革命されていたんだと思って眠れないよ」

 鏡の中の男の顔は、写真のように表情が変わらない。声色だけが、弱弱しかった。

「そういうのはやめてください。僕があなたに求めているのは、そんなことでは立ち止まらない強さだ。これはこの先の革命の些細な犠牲に過ぎないんです。責任を感じているのなら、なおさら貴方がやることはたったひとつでしょう」

「ああ、わかっているよ」

「それに今日、僕からは貴方へプレゼントがあります」

 僕は誰にも内緒でポケットに忍ばせていたUSBメモリを取り出した。

「中身は?」

「開けてからのお楽しみです。僕なりに練った計画でもあります。実行するにはいささか、人手が必要ですが。楽しみにしていますよ、貴方ならきっと役立ててくれると」

 男は受け取ると、ベルトの裏へとしまい込んだ。秘密のポケットがあるらしい。

「なるほど、ありがとう。私からも一つ、君へプレゼントがある。夕方のニュースはちゃんと見ておいてくれ」

「ええ、楽しみにしていますとも。それでは、次も夏のオリンピックで」

「開催されたのなら、だが」

 不器用に口元を歪ませ、男は薄ら笑いを浮かべた。


 予想されていた通りの渋滞にハマったまま、日が沈んだ。会場を後にしてからだいぶ時間が経つ。バックミラーには眠っている娘が映っている。

「すっかり寝ちゃったわね」

「かなり出費は痛いけれど、近くまで車で来て正解だったよ」

 僕はラジオの音量を上げた。今日の競技結果を伝える声が聞こえる。

「そうね。夕食はどうする?」

「当分ここから抜けられないから、そのあと考えても良いだろう」

 ラジオに耳を澄ませていると、やがて速報が入った。今日いた会場からさほど遠くない商業施設で、爆発が起こったことを報じていた。

「あら、物騒ね。結構近いじゃない」

「そうだね。ただの事故なら良いけれど」

「そうね、こんなタイミングだもの」

 もう少し派手なニュースを期待していた僕だからこそ、ただの事故であることを願った。

「世界を変えられるほどの暴力には程遠いですよ」

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