不良中学生と現代文のテスト。

@yugamori

暇つぶし。

 キョウはイラついたまま口元の血を拭い、ツバとともに口に溜まった血を河川敷に吐き出した。大きな橋の下には学ラン姿の中学生が数人倒れており、そばにはバットも転がっている。

「武器なしのタイマンなんざハナっから信用してなかったけど、ほんとダセエな」

 武器を持とうが所詮は素人。数がいても走って距離をとれば走力に応じて集団はバラついて一人ずつ倒せる。キョウは喫煙者とはいえ、物心ついたときからボクサーの父親にボクシングを叩き込まれたせいで、体力と肉体は同年代の不良に劣るはずがなく、タバコさえ吸っていなければ運動部のレギュラーにも負けないポテンシャルだった。


 だが、中学生のキョウが大人でありプロとして活躍していた父には勝てるはずもなく、ハードなトレーニングというには明らかに異常な罵倒で幼少からしごかれ続けたキョウは、理不尽な父親への怒りと、その父親に勝てない自分への怒りで小学校から荒んでいた。

 父は息子であるキョウに強くなってほしい、自分の身が自分で守れる男であってほしいと、父なりの思いがあってこそのトレーニングだった。だが、キョウの父にはその思いを伝える器用さはなく、そしてその思いを伝えるための学もなかった。息子に強くなってほしいという思いは、ハード過ぎるトレーニングでしか表現されなかった。それゆえにキョウは、父の思いを感じ取ることなどできず、キョウにとって父親とは、ただ異常に激しく、暴力としか捉えられないボクシングの訓練を押し付けてくる、力では決して叶わぬ憎悪の対象でしかなかった。そして、愛情を知らないまま暴力しか培われず、怒りと恨みの感情だけが育っていき、それ以外の感情には疎いまま月日を過ごすことになった。


 父には決して勝てない暴力は、同年代へ振りかざされるようになった。子供の中では負けることのないキョウの強さの噂は広がり、他校からも喧嘩をふっかけられるようになった。その強さゆえに、小学校高学年のときに中学生に喧嘩を売られたこともあるが、それでもキョウは負け知らずだった。だが、どの子供のを相手にしても、所詮は相手は子供だった。いつも父親の力が脳裏をよぎり、キョウのイラつきが消えることはなかった。

 中学になると悪名高きキョウは、入学式から学校中で恐れ戦かれていた。同じ学校でキョウに喧嘩を売ろうとするものなどいるわけもなく、うかつに話しかけることも生徒たちはおろか、ほとんどの教師たちも避けていた。陰口すら言われないある意味平穏極まりない環境で、しかしキョウの心は穏やかではなかった。外に出れば他校の連中と喧嘩ができるが、なにをしても怒りが収まることはない。キョウはだれに勝とうが、無敗のバケモノだと噂されようが、常に自分が勝てない相手がいるという事実は変わらず、なんの問題も解決しない現状にどうすればいいか分からなかった。



 

 気まぐれで学校に登校したキョウは、教室の教壇側の引き扉を勢いよく開いた。扉と壁がけたたましい音を立ててぶつかり、教室は緊張した空気に包まれた。

「…あん?」

 キョウは教室を見渡して首を鳴らした。だれかに喧嘩を売ったわけではなく、教室中で生徒たちが白い紙と筆記用具だけを机の上に出していたからだ。

「……橋下くん…テスト用紙は、机の上に置いてあるから……」

 若い女の教師が震える声でそう告げた。キョウがゆっくりと首を動かして教師の方を見ると、座っていた席のなにも無い机の上に視線を落とした。

 キョウが窓際の一番後ろの席へ進むなか、隣を通過された生徒は一様におびえていた。鉛筆を落としてしまい、慌てて拾おうとして机に頭をぶつける生徒もいた。

「るっせえな」

 キョウがつぶやいて舌打ちをすると、教室中から机のガタッという音がいくつも響いた。




 数学社会と、2時間とも連続でテストを白紙で出したキョウは、ずっと窓から校舎の外を眺めていた。テスト中の教室は静かで、晴れ渡った空と鳥の鳴き声が、閉めた窓の向こうから届いてくるこの時間を、キョウはうとうとと過ごしていた。だが2時間ともなにもせずに過ごしていたから、だんだんと暇になってきたキョウは、次の時間に配られてきたテスト用紙をなんとなく眺めた。国語のテストには有名な文学者の小説の一部が問題として載っていた。ふだん読書なんてまったくすることのないキョウは、文字を読むことが不快で仕方がなかった。

 だが暇つぶしがてら、文字をゆっくりと読み始めた。中学で習う漢字はほとんど読めず、小学校で習った漢字だけはかろうじて読みながら、たどたどしく読み進めていくキョウ。

 

 小説は、機嫌の悪い男が電車に乗るシーンから始まっていた。なにか不幸なことがあったのか、それとも元からの性格なのか、男は曇った空や汚れた駅のホーム、電車内の空気の悪さなど、なにか気に障るものがあればすべてに苛立っていた。広げた新聞を見ても悪いニュースばかりで、目の前に座ってきた女の子の田舎臭さにも悪態をついていたくらいだ。服装も、手にしたつぎはぎだらけのふろしきも不快で、そんなボロボロのふろしきを大切そうに握りしめている姿すら男は気分を害した。

 キョウ自身も様々なことに普段から苛立っていたから、男の理由もなくムカつく心境はよくわかった。いつの間にかキョウは小説を読むことに集中していること自体、キョウが気づかなかったくらいだ。

 だが、男の気持ちがよく分かるのと同時に、これだけ様々なことにイライラしている男がひどくちっぽけにも見えた。ムカつくことがいちいち細かいし、なんでもかんでも腹が立っている男の心の小ささに男らしさが感じられず、キョウはだんだんと男のことが嫌いになってきた。それと同じく、じつは自分もこんな風にちっぽけに普段から苛立っているのではないかと、キョウはドキッとした。はじめて自分を客観視したキョウは、自分の現状を自覚した感覚に驚いていた。


 慣れない感覚を振り払おうと、キョウは再び小説を読み進め始めた。新聞を読む男が乗った列車がトンネルに入ったとき、目の前の席に座っていた田舎臭い女の子が必死に窓を開けようとしていることに気がついた。現代よりも前の時代が舞台になっている小説で、トンネル内で窓を開けようものなら、電車の煙突から出ているどす黒い石炭の煙がたちまち車内へと入ってくるというのに、機嫌の悪い男は「この娘気でも狂ったか!?」と狼狽した。

 読み進めるキョウも、なにがしたいんだこの女と疑問に思いながら、ついに田舎女は窓を開いてしまい、車内にどっと黒煙がおびただしい量侵入してきた。男は喘息持ちであったため、けたたましくむせ返り、いよいよ女に殴りかかろうかと思った。さすがに女を殴るのはどうかとキョウは感じながらも、それくらいムカついても仕方がないと思った。第一、田舎女の行動が謎に満ちており、いったいこの先どうなるのだとキョウはうっすらと興味を抱いていた。


 トンネルを出ると、高台に草原と田畑が広がり、遠くに山々が連ねる穏やかな風景が飛び込んできた。家が距離を置いて点々と建った田舎の町といった風情で、田舎女は車窓から顔を乗り出していた。キョウはドキッとした。もしかしてこのイモい女、電車内から飛び降りようとでもしているんじゃないか。だから突然窓を開けたんじゃないかと。はじめからイライラとした男の心境で進んでいた物語だから、より一層暗い話になっても不思議はないと思いながら読んでいると、展開は意外なものだった。

 線路沿いに、坊主頭の男の子の姿が3つ見えた。どうやら大きく手を振っているようだと男が思った矢先、田舎娘は手にしていたふろしきを突然窓の外に広げた。男とキョウが呆気にとられていると、ふろしきの中からはミカンがいくつもバラバラと飛び出した。男はそこで悟った。この娘はいまから街へ身売りとして出ていくのだろう。そしてかなりの年月、いやもしくは二度と出生の地へは帰れない。貧しい家庭あれば、当時の世の中では珍しくもないことだった。

 そのことを当時の子供だって、周りで仲良くしていた子供たちが消えていくことから、薄々気づいていた。そしてあの幼い弟たちも、そのことを悟っていたのだろう。これが最後の別れ。だから、必死になって姉の最後の姿を見るため、そしてせめて一瞬でも姉を見送るため、弟たちは必死になって姉が乗っているであろう電車に手を振り続けた。そして、姉であるこの娘は、弟たちのために、出来うる限りの物として、当時は貴重でもあったミカンを送ったのだ。

 男はいままでのイラついた気持ちが一気に穏やかになり、先ほどまで蔑んだ思いで見下ろしていた娘の姿が、とても凛々しく、心優しい娘として目に映った。 娘は相変わらずムスッと押し黙ってうつむきながら座席についたが、男の心は先ほどまでとは打って変わり、不思議と晴れ渡っていた。


 読み終わったキョウも、不思議な気持ちになっていた。読み始めたときはあれだけ暗い気持ちだったのに、読み終わったあとは妙に清々しかった。ふと時計を見ると、テストの終わりを告げるチャイムが鳴る頃合いだった。前に座っていた生徒の背中を叩き、大人しそうな男子生徒は凄まじい速度で振り返った。

「ペン貸して」

 名前すらテストに書いたことのないキョウが、白紙のテストの最後の欄に『おもしろかった』とひらがなで書いた。




 テストの返却時、キョウはいつも用紙を取りに行くことはなかった。毎回白紙で出していたしそんなものを取りに行く気もなく、そして教師もキョウの名前は一応告げながらも、取りに来ないことは暗黙の了解だったためにすぐに次の生徒の名前を読んでテストを返却するのが恒例だった。

 だが、国語の教師だけはいつもキョウのところにまで用紙を持ってきて、わざわざ返却していた。この国語教師は授業のはじめにほぼ毎回、自分の好きな本や映画の話を分かりやすくユーモアを交えて生徒に伝えていた。生徒の立場にたって、中学生がどんなことに興味を持ち、どんなものに触れればいいのか考えて話していたため、生徒からの評判もよかった。キョウ自身も、授業などほとんど聞いていなかったが、この国語の教師の話だけはいつも耳に入ってくるから不思議で仕方がなかった。聴く気がなくてもいつのまにか話が気になっている、そんな話し方をする教師だったから、キョウは唯一国語の教師は嫌悪の対象ではなかった。それは国語の教師がキョウのことを受け入れているという雰囲気もあったからこそだったが、キョウはそのことを認めようとはしなかった。

「橋下ー」

 国語教師がキョウの苗字を呼んでも、いつもの通りキョウは無反応だった。教室の空気が張り詰め、みんな早くキョウの返却の番が終わるように祈っているくらいだった。国語教師は穏やかな表情のまま教壇を降り、教室一番後ろのキョウのところまでゆっくりと歩いて行った。

 キョウの机にテストを裏返しで置き、何事もなかったように教壇へ戻っていく教師。キョウは無関心そうに窓の外をふんぞりかえって眺めていたが、テスト用紙が妙に浮き上がっていることに気がつき、テスト用紙をめくりあげた。用紙の下には本が一冊置かれていた。めくったテスト用紙には、キョウの『おもしろかった』のひらがなの後に、達筆な文章が書かれていた。

『この作者の短編集だ。テストに出ていた話くらい短いものがまとまっているから、興味があれば読んでみてくれ』

 キョウはテスト用紙を裏向けて本の上に置き、教壇をちらっと眺めた。穏やかな表情で名前を呼び、前に来た生徒と一人ずつなにか言っては笑い合っている。教師はキョウの視線に笑みを一瞬だけ向けて、次の生徒の名前を呼んだ。キョウは下敷きにしていた本ごとテスト用紙を手に取り、床に投げ出していたカバンにそっと投げ入れた。

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