第23話

「そうなの……。ね、ナヴァドは公用語以外にも喋れる? 喋ってみて。何か思い出すかもしれない」


「不自由なく喋れるのは西方諸語だけだ。東の方の言葉はあまりよくわからん」


 と言いながら、ナヴァドは八カ国語ですらすらと挨拶の言葉を口にした。だが、どれにも特にこれという感覚が起こらない。


「うーん……、何だかどれも知ってるような知らないような……。他の言葉を喋ってみようとしても出てこないし。フォリーシュ語がわからないってことしかわからない!」


「公用語が喋れれば問題はないだろう。――ああ、ここの召使はフォリーシュ語しか通じないな。公用語ができる召使は王族専任だ。融通してもらえるかどうか掛け合ってみるか」


「大丈夫、身振り手振りでだいたいわかるから」

 

 そうか、とナヴァドは微笑んだ。それを見ただけで、リコリスは安堵してしまう。記憶がないという不安も、夜毎見る悪夢も、ナヴァドが側にいてくれれば忘れられる。


(忘れちゃいけない、よね。本当は。思い出さなきゃいけないのに……)


 理性ではそう思いながら、思い出したくないという気持ちは強まる一方だ。思い出してしまったらナヴァドの側にいられなくなりそうで……。


 その夜も、同じ寝台に横たわりながらリコリスはなかなか寝つけなかった。ナヴァドはとっくに眠っている。彼は異様に目敏いくせに呆れるほど寝付きがいいのだ。横になって目を閉じた瞬間、もう熟睡している。元は傭兵だと言うが、これもその生活で身についた習慣なのだろうか。


 仄昏いランプの灯を頼りに、リコリスはナヴァドの寝顔をしげしげ眺めた。


(傭兵……って感じ、やっぱりしないなぁ)


 彼の側近――合わせて六人いる副官たちは、いかにも百戦錬磨の剣士といった印象だ。その中で、隊長のナヴァドはむしろ貴公子のようである。特にこうして無防備な寝顔を晒していると……。


 見ているうちに、何だかそわそわした気分になってきた。


(眠ってる……よね?)


 思い切って身を屈め、出来るだけそっと――そうっと唇を寄せる。互いの唇がかすかに触れ合った刹那、ぱちっとナヴァドが目を開けた。


「……何してる」


 ひーっと飛びすさり、後ろ手をついてへたり込んでいると、半身を起こしたナヴァドが憮然と眉根を寄せた。


「馬鹿なことしてないでさっさと寝ろ」


 それだけ言うと、彼はまたぱたんと横になってしまう。おそるおそる覗き込んでみると、彼はすでに眠っていた。何だかひどく悲しくなってきた。


(馬鹿なこと……。馬鹿──、馬鹿……)


 しょんぼりとベッドの端で横になる。情けなさで心底がっくりした。少しでも身を遠ざけようとしていると、急に身体が反転して衝撃が走った。


「何をしている!?」


 今度も瞬時に目覚めたナヴァドは、床で痛そうに腰をさすっているリコリスの姿に溜息をついた。


「寝台から落ちるのが趣味なのか? そんなに床が好きなのか」

「馬鹿だからっ」


「馬鹿が好きなのは高いところだろう。ほら、こっちへ来い。そう警戒するな」

「馬鹿って言った! 馬鹿って……っ」


 幼児みたいにだだを捏ねるリコリスの背をぽんぽん叩き、悪かったよと彼は謝った。


「別におまえが馬鹿だと言ったわけじゃない。馬鹿な真似をするなと言っただけだ」

「怒ったんなら謝るわよっ」

「怒ってない。怒ってないから」


 ナヴァドはリコリスを抱き寄せた。優しく背中をさすられると、腹立たしさがつのる。


「……どうしてそんなに優しくするのよ!? あ、あたし、あなたを殺そうとしたんでしょ!? 覚えてないけどっ。そんなことした奴は、殺すか、牢屋にぶち込んでゴーモンすべきじゃないの!? どうしてそうしないのよぉっ」


「そんなことはしたくない」

「甘い! 記憶が戻ったら、きっとあたし、またやるわよ!?」

「そうかもな」


 嘆息まじりの声は笑いを含んでいる。頭に来て、男の胸を叩いた。


「馬鹿なのはあなたの方じゃないの。何であたしを側に置くのよ。見張ってるつもり?」

「そう。ベッドから落ちないようにな」


 言い返そうとした唇を塞がれた。息が苦しくなるほどの長い接吻からようやく解放され、リコリスは涙を浮かべて喘いだ。指先で頬を撫で、ナヴァドは囁いた。


「おまえがどう思っているか知らんが、俺とて木石ではないのだ。興味本位でふざけてると後悔することになるぞ」

「……しないもん」


 拗ねたように呟き、伸び上がって自ら唇を押しつける。ナヴァドは一瞬迷うような目をしたものの、逆にリコリスの身体を力一杯抱きしめた。胸が高鳴り、喜びが溢れた。押し倒されても怖くなかった。瞳を覗き込んでナヴァドが囁いた。


「やめたいなら今のうちだぞ? 思い出したら――きっと後悔する」

「だったら思い出すのやめる。今の方が、過去より大事」


 背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。ナヴァドは諦めたように苦笑した。


「途中でやめられないからな」

「うん……」


 覆い被さってくる身体の重さと体温の心地よさに、リコリスはうっとりと目を閉じた。



 まだ薄暗いうちに目が覚めた。すぐ側にナヴァドの寝顔があった。この距離で見たのは初めてではないが──悪夢がひどい時は胸元に抱き寄せてくれたから──、互いの身体を隔てるものが何もないのが気恥ずかしい。


 おずおずと胸に頬をすり寄せると、ふっとナヴァドが目を開いた。額に接吻して彼は囁いた。


「無理強いしたつもりはないが……、後悔してるなら謝る」

「してないもん」


 リコリスはわざとしかめっ面をして、彼の腕にしがみついた。


「あのね……。昨夜、怖い夢を見なかったよ」


 ふたたび優しい接吻が額に落ちる。


「まだ早い。もう少し眠るといい」


 素直に頷き、目を閉じた。後悔など微塵もなかった。記憶を取り戻しても絶対後悔なんかしないと、リコリスはまどろみながら自分に誓った。

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